第六話 笑う〔鬼〕
「わぁ……ありがとう……」
日菜ちゃんが作ってくれたシーフードカレーの食欲を刺激する匂いが、ぼくの鼻に入ってくる。うまそう。
「急いで作ったから、味の保証はないんですけど……」
「そんなことないよ。すごく嬉しいな」
ぼくの様子を見て、日菜ちゃんは「よかった」と嬉しそうに笑ってくれた。
でも、嬉しいのはぼくの方で。
おなかが空いていたせいか、ぼくはかきこむように、カレーを口に忙しく運んだ。
「ゆっくり食べないと、喉に詰まっちゃいますよ」
「ふぐ……うん、あひあと」
カレーをすぐには呑み込めずに、ぼくが口の中でもごもごしている仕草に、日菜ちゃんは声を上げて笑っていた。
ブーブーブー。
メールの着信を知らせる携帯のバイブが震えていた。
「なんだろ?」
日菜ちゃんが多めに作ってくれたカレーの二杯目を食べていたぼくは、今はスマートフォンが全盛で、古くなりつつある二つ折りの携帯をぱかりと開いた。
「行田先輩……珍しいな」
それはぼくより二年上の中学、高校の先輩で、行田さんからだった。
今は大学に通う傍ら、夢を叶えて漫画家として活躍している憧れの人。
あまりに忙しすぎて、ここのところ、メールも滅多に来なかったのに……。
ぼくはそんな行田先輩からのメールを見た。
【はらたつのことを聞いた。葬式にも行かれなくごめん。
線香を上げに行きたいから、あいつの家の住所を教えてほしい】
……ああ。なんとなくそうかと思っていたけど。
先輩は実家も近かったし、ぼくたちのことを可愛がってくれたからな。
こんなに立派になっても、本当に真面目な人だ。見習いたい……。
「どうしたんですか?」
携帯を見て黙ってしまったぼくを心配して、日菜ちゃんが声をかけてきた。
「ああ。高校の先輩から。連絡がうまくいってなくて、この間亡くなったぼくの友達の葬式に行かれなかったんだ。だから線香を上げに行きたいから住所を教えてくれって」
「そうですか……」
「あ、ごめん。暗くなっちゃったね」
沈んだ声になってしまった日菜ちゃんに、ぼくは慌てて明るく接する。
この子には関係のないことなんだ。ぼくはそう思っていた。
「そんなことありません。ここのところ、鬼野さん……元気なかったから。それが原因なのかなって心配だったんです」
「……日菜ちゃん……」
「やっぱり、元気な鬼野さんがいいですからね」
どこまでも優しい子だなぁ、日菜ちゃんは。
ぼくは場違いな感動を覚えてしまう。
で、マキのやつ。
日菜ちゃんの後ろの方で、日菜ちゃんの鬼の頭を撫でている。
人の写し身である鬼は、その人の元気がないときは――鬼も元気がないのか。
「ありがとう、日菜ちゃん。日菜ちゃんのおかげで元気が出たよ」
ぼくは出来うる限りの感謝を込めて、日菜ちゃんに笑って見せた。
「……鬼野さん……よかった」
はにかんだ日菜ちゃんの笑顔が――可愛いと思う。
「あの鬼野さん……ひとつお願いがあるのですけど……」
「ん……ああ、何?」
日菜ちゃんの笑顔に見惚れていたぼくは、慌てて現実に戻った。
その日菜ちゃんは……少し頬を赤らめた様子で、ぼくを上目使いで見ている。なんだろう?
「あの……鬼野さんは私のこと名前で呼んでくれるじゃないですか」
「そ、そうだね」
日菜ちゃんはぼくより二歳年下。ついちゃん付けで呼んでしまっているけど。
「私も鬼野さんのこと、下の名前で呼んでいいですか?」
「……ああ、そんなこと。構わないよ。ぼくが名前を嫌っているのは漢字のことだから。
呼ぶ分には問題ないし」
鬼野真咲。別に〔まさき〕はいいんだ。でも〔真咲〕という漢字は普通、女の子に使う名前だろう。父さんがつけたらしいんだけど、ぼくはこの漢字が嫌いだ。
病院でも何でも、女だと思って呼ばれるから、ぼくが行くと間違えたと思って、受け付けの人は名前とぼくの顔を必ず見比べる。
中には「間違えてます」と決め付ける人もいるからなぁ。
免許はそう言う意味でも役立つ。
それ見せて、初めて納得するから……。
「そんなことないです。私、真咲さんの字も名前も大好きです」
日菜ちゃんの力説。でも、大好きってさ……。
「……ありがとう……」
ぼくが恥ずかしそうに小さめの声でお礼を言うと、日菜ちゃんも自分の発言の意味に気がついたらしい。完全に俯いてしまった。
「ご……ごめんなさい」
「なんで謝るの?すごく嬉しいよ」
ぼくは素直に日菜ちゃんに感謝の気持ちを伝える。
「ありがとうございます、真咲さん」
照れている日菜ちゃんも可愛いなぁ。
日菜ちゃんに見惚れていたその後ろで、マキが日菜ちゃんの鬼と仲良くしてる。
それはいいんだけど……。
そのとき。ぼくの視線が日菜ちゃんの鬼の――その笑顔に釘付けになる。
口角は大きく耳元近くまで上がり、にやりと笑う口の隙間からは牙が見え隠れする。
限界まで見開かれた目には、黒い瞳はまるでやぎの目のように、横に長い形になった。
その上、マキまであの醜悪な顔の笑顔を一緒になって浮かべてる……。
……こ、怖い……。
ぼくが微動だにせず、自分の後ろの空間に視線を定めていることに、日菜ちゃんもおかしいと気付く。
しまったと気がついたときには、日菜ちゃんの視線も自分の後ろへと向けられていた。
「こらっ!!真咲さんを脅かしちゃダメっ。めっ!!」
日菜ちゃん……それは自分の鬼に言ったのだろうか?それともマキに言ったのだろうか?面白い子だな……時々天然かな?と思うことをやることがある。
「やっぱり……見えるんですね、真咲さん」
「え……いや」
日菜ちゃんが、ずいっとぼくに迫る。その気迫がちょっと怖い。
でもこれはどう誤魔化せばいいのだろう。まさか鬼が見えるようになったなんてどう言えば。
「いいえ。私にはわかります。見えるんですよね、幽霊がっ!!」
『やいこら、マサキ。おいらたちが笑ったのに、なんでヒナは怒るんだっ』
うるさい。黙れ、マキ。おまえたちのその笑い顔が堪らなく怖いんだよ。
と、ぼくはマキたちに言えるわけもなく。
「……うん」
ぼくは日菜ちゃんに素直に頷いた。
「え。じゃぁ、急に見えるようになったんですか?」
「ああ。その友達の葬式に帰りに……まぁ、そのぼんやりとなんだけど」
言葉を選びながら、ぼくは日菜ちゃんに「幽霊が見える」という誤解を利用して、時々不可解な動きをする意味の説明をこじつけていた。
「ここ何日か、真咲さんの視線がおかしなところを見てるのが気になってたんです」
日菜ちゃんは美大生。
将来はイラストレーターを目指している彼女は、人の動きや仕草などに人一倍敏感なのかもしれない。自分でもそういうことが気になるって言っていたから。
行田先輩もそうだけど、ぼくにはそんな日菜ちゃんも眩しく見える。
自分の夢を追いかけ、実現し、充実した日々を送る彼らが、ぼくには別次元の人種に見えて仕方がない。
ぼくのひがみなのかもしれないが。
「真咲さん……疲れているみたい」
「いや……そんなことないよ」
ぼくは……まだどこかで、〔はらたつ〕のことを引きずっているのかもしれない。
そんなことをふと思った。
「私でよかったら……真咲さんのご飯をこうして作ってあげたいな……」
「ははは。日菜ちゃんの料理はおいしいから。毎日でも食べられたら幸せだろうね」
彼女はぼくにとっては「いる世界」が違う人だ。
そんな彼女の善意に甘えるわけにはいかない……。そう考えて、ぼくは言葉を選んだつもりだったんだけど。
「い……いいんですか?」
「はい?」
「毎日作りに来ても……いいんですか?」
「……え?」
あれ?ここでも激しい誤解を生んだのか?
「私、毎日真咲さんのご飯作りに来ますね!!朝の分も作りおきしておきますから。
そうか。真咲さん、お弁当も自分で作ってるんですよね。
それも作ります。真咲さんには元気でいてほしいんです」
……えと。これ、絶対に反対の意味に取られたよ、な?
「いや、日菜ちゃんは大学も色々忙しいじゃないか」
「いいえ、大丈夫です。私バイトもしていませんし」
「そう言う問題じゃ。それにそんなことさせたら、まるで日菜ちゃんはぼくの彼女のような……」
あ。ここまで自分で言って「しまった」と思う。
日菜ちゃんの顔が真っ赤になっていたからだ。
「……真咲さんがご迷惑でなかったら……」
……どうしてこうなる?あれ?
『よかったじゃないか、マサキ。おい、こら』
まるで時間が停止してしまったかのような空間に、あの気持ち悪い笑顔でぼくに笑いかけるマキだけが動いてる。
日菜ちゃんの鬼も……あの笑顔でぼくを見てるし。
すごく恥ずかしいのに。ものすごく怖いって、なんなんだよ。これっ!?
そのときのぼくは見落としていたけど。
行田先輩のメールはそのあとも届いていた。
【もし〔はらたつ〕の家に行く時に時間がとれたら会わないか?
お前に話したいことがあるんだよ】
先輩のそのメールが、すべての始まりだったのかもしれない。
このときのぼくはそれどころじゃなかったけれど――