第ニ話 〔それ〕を見るとき
〔はらたつ〕に貸した金は、今、全額ぼくのところに戻って来た。
あいつの葬儀の日。
〔はらたつ〕のお母さんから返してもらったからだ。
高校のときは何度か遊びに行っていたので、面識はある人だった。
あいつの父親が小さいが大手企業のフランチャイズに加盟し、その〔ブランド〕の元で飲食店やらコンビニを経営する会社を営んでいることもあり、あいつの実家はそれなりに大きかった。
小さい時に親父を亡くしたぼくにとっては、幸せそうに家族と暮らすあいつを羨ましく思ったことも少しはあったけど。
そんな〔はらたつ〕があんな風に変わっていったのは――最初の大学受験に失敗した時あたりからか。
ぼくも同じように受験に失敗したが、実家は母親と妹、ぼくの三人でやっと暮らしている状態だった。浪人出来るほど裕福でもない。
ぼくは就職の道を選び、〔はらたつ〕は翌年の受験に備える為、予備校に通い始めた。
その頃からだな。
「少し金を貸してくれ」とあいつが、ぼくのアパートに来るようになったのは。
あいつのお母さんは元々小柄な女性だが、その体がさらに小さく見える。
〔はらたつ〕が金を借りた友人連中に、ぺこぺこと頭を下げながら、金を返しているあいつのお母さんの背中が、一瞬、ぼくの母親の姿に重なる。
「死んでからも家族に、ああ迷惑かけたくないよな……」
ぼくの隣で清めのビールを飲みながら、同じ高校からの友人である河村がぼくに話し掛けた。
ぼくに〔はらたつ〕の撃退法を教えてくれたのもこいつだ。
「でも誰がお母さんに話したんだ?金額まで正確に……」
ぼくが河村に訊くと、こいつは少し苦笑いを見せた。
「……お前か?」
「そう睨むな。〔はらたつ〕が金を借りて返さないことを怒った連中が、何度か家族に話していたらしい。
だから俺も昨日の通夜の時に、お母さんに訊かれたんだよ。
あいつが俺たちからも金を借りてなかったかって。
お前に相談している暇もなかったし、お前は十万超えてたろ。だからお母さんに正直に話したんだ。
俺だってこんな時にさすがに悪いとは思ったけどさ。
金額も大きかったから……それにこうした方が、家族の人も少しは気持ちが楽になるのかなと思ったからな……」
「そうか……ありがとな」
ぼくが河村を責めることなんてできるはずもない。
ただ……あまりにお母さんの姿が不憫で、居た堪れない気持ちにさせられる。
〔はらたつ〕は愉快なやつだったし、友人もけして少なくなかった。
だが、今。ぼくや河村の他にきている連中はまばらだ。
どうしてそうなってしまったのか。それが残念でならなかった。
◆◆◆
思っていたより、〔はらたつ〕の顔はきれいなものだった。
まるで眠るように、横たわるあいつの最後の姿に、ぼくはほんの少しの救いを感じたが。
ただ。こいつとの最後の思い出があんな形の喧嘩別れだったことが、酷く悔しかった。
葬儀場を出た時は、すでに夕暮れ時だった。
河村とも別れ、家路につく。
しかし結局――あの〔黒いトカゲ〕の話を家族にも、河村たちにも話すことはできなかった。
電車を乗り継ぎ、最寄の駅についた時にはすでに日は沈み、辺りは真っ暗になっていた。
四月も半ばだが、夜はひんやりとぼくの体へ冷気を伝えてくる。
途中、コンビニで暖かいおでんとビールを何本か買い込んだ。
「さむ……」
コンビニから出ると、ますます寒気を感じずにはいられない。
ぶるっと体を震わせ、ぼくは寒さから逃れるため、アパートへと急いだ。
「……ん?」
なんとなく――ぼくは振り返った。
人の気配を感じたからで、それはほとんど無意識に近い行動だった。
ぼくの住んでいるアパートは、駅から徒歩で二十分は余裕でかかる。
家賃の相場のことを考えると、駅から遠くなる不便さは仕方ないことだし、そう思えば、その距離はあまり苦になるものでもない。バスもあるが、毎日通えば相当の額になるし、その金も惜しい。
だが通りから外れて奥まった住宅街の中にあり、夜は完全に人通りがなくなる。
痴漢やら、ひったくりも多い場所だ。
ぼくは男とはいえ。怖くないわけでもないのだが……。
「……気のせい……だよな」
喪服姿だった今の自分を思い出す。
〔はらたつ〕には悪いが、こんなときに止めてくれよと、そっと心の中で思ってしまった。
ぼくは苦笑いでためいきをつくと、再び歩き出した。
ぴたぴたぴた――。
え?聞こえた……よな。
ぼくが立ち止まる。その音は消える。
再び歩き出す。ぴたぴたぴた。
靴音ではない。その前にこの音は〔人〕のものなのか?
濡れた素足で歩いているような音にも聞こえる。
雨は降っていない。何故――素足なんだ?
ぼくの体から血の気が一気にひいていく。
そして思い出す――〔はらたつ〕の背中にへばり付いていた〔真っ黒いトカゲ〕。
ぼくが歩き出す。
ぴたぴたぴた。
それは大人の歩調に合わせようと、はや歩きになっている子供の足音にも思える。
そして、確実に〔それ〕はぼくの耳に届いている――という〔事実〕。
〔はらたつ〕……お前なのか?
ぼくは全身が恐怖で硬直していたが、もしそうなら、確かめないといけないという衝動にかられた。それはぼくの罪悪感のせいなのかもしれない。
そう考えながらも、ぼくは足を止めることはなかった。
その間もずっと聞こえてくる〔ぴたぴた〕という音。
体が小刻みに震えているのがわかる。
決意で吐き出した息が、ふぅぅ……という間も震えが止まることはない。
そして――ぼくは振り返った。
「……っぎゃああああぁぁぁぁっ!!!」
ぼくはあらん限りの声で悲鳴をあげていた。