天使を拾った。
天使を拾った。
雨の降る、夏の夕方だった。
買い出しの袋を提げて古びた門をくぐると、その脇に誰かがいた。近づいて傘を傾けると、それが我が家の剥げかけた門柱に寄りかかった、小さな少年だとわかった。
「……どうしたの?」
少年が、ゆっくり顔を上げた。
濡れた金髪が、透き通るような頬に張りついている。その隙間から、金色がかったハシバミ色の瞳が私を見上げた。
思わず、言葉をなくした。
嘘みたいな美少年だった。
襟元や袖口に細かな刺繍のある白い服を着て、腰には飾りのついたベルトを締めている。物語の王子様が、そのまま雨の中へ迷い出てきたようだった。
「立てる? うち、ここなんだけど」
「……申し訳、ありません」
謝ろうとした唇が、寒さで小さく震えていた。
「謝らなくていいから。ほら、つかまって」
私の半分よりは大きいけど、小さかった。体が芯まで冷えきっているのがわかった。
だだっ広く、普段は足音が冷たく反響するこの家も、今夜ばかりは誰かを迎え入れる暖かさがあるような気がした。
事情を聞くのは、あとでいい。
とにかく、この子を雨の中に置いておくわけにはいかなかった。
「熱いから、少しずつね」
分厚いタオルを肩に掛け、両手でココアのマグカップを持たせた。
少年は湯気を見つめてから、そっと口をつけた。
目が、少し大きくなった。
「……甘い」
「そう?」
「とても、おいしいです」
もう一口飲んで、ようやく小さな肩の力が抜けた。
私はタオルで、濡れた金髪を拭いた。こんな小さな頭を抱え込むようにして触るのは初めてだった。水気を取るにつれて、薄暗い居間の中でも、髪が柔らかく光って見えた。
「名前、聞いてもいい?」
「アルベルトです」
「アルベルト。私はミサキ」
「ミサキ……様」
「様はいらないよ。ミサキでいい」
アルベルトは少しためらってから、小さくうなずいた。
「……ミサキ」
「うん。お風呂にはいって体を温めたほうがいいと思うんだけど」
「ありがとうございます」
ずいぶん丁寧な子だった。
家に帰ってすぐにお湯を入れ始めた風呂は準備ができていた。
浴室に案内したが、うちの風呂は無駄に広くて少し、薄暗い。
「一緒にはいる?」
「はい。お願いします」
シャワーや石鹸、シャンプーに驚く様子が可愛かった。
とりあえず、下着もTシャツも私のを着せた。
椅子に座らせて、ドライヤーのスイッチを入れた。
「ぶおん」と音がした途端、アルベルトの肩がびくりと跳ねた。
「な、何ですか、これは」
「ドライヤーよ。髪を乾かさないと風邪を引いちゃう」
「風……?」
鏡越しに、私の手元をじっと見つめている。
キシキシと音が鳴る古い脱衣所で、彼の金髪に指を通しながら風を当てると、アルベルトは不思議そうに目を細めた。
乾いた髪は、思っていたよりずっとふわふわで、猫の毛並みのようだった。
夕飯は、昨日のカレーにした。
多めに作っておいて良かった。
「辛いの、平気?」
「辛い?はい。食べられると思います」
「無理しなくていいからね」
鍋を火に掛け、隣のコンロで卵をゆでる。冷蔵庫からレタスときゅうりを出して、簡単なサラダも作った。
アルベルトは食卓の椅子にチョコンと座り、私のすることをじっと目で追っていた。
水道をひねると身を乗り出し、コンロに青い火がつくと、息をのんだ。
「すごい魔力ですね……」
「え?」
「水も、火も、こんなに簡単に」
何の話だろう。
あの見慣れない服装と関係があるのかもしれない。もしかして異世界とか? 私は自分の想像を打ち消した。
箱入りだとこんなになるのかも……
「便利だよね」
よくわからないまま笑うと、アルベルトは真面目な顔でうなずいた。
カレーを出すと、まず私に礼を言い、それからスプーンを小さな両手でしっかりと握りしめた。
一口食べる。
じっと皿を見る。
もう一口食べる。
「……おいしいです」
「よかった」
「とても、おいしいです」
ゆで卵を崩して食べ、サラダも残さず食べた。そのたびに、おいしいと言ってくれる。
自分の作ったものを、こんなに喜んで食べてもらったのはいつぶりだろう。広い食卓に、初めて温かな灯りがともったような気がした。
「アイスもあるけど、食べる?」
「アイス、というのは?」
「冷たいお菓子。ちょっと待ってね」
冷凍庫から棒に付いたアイスを取り出した。
「白いのと黒いの。どっちにする?」
「白い方」
包装を破るのにも苦労していた。こんなアイスは食べたことがないのかも?
私が袋から取り出して渡すと、じっとみているから、私が見本に食べてみせた。
こうやってかじるのよ。
一口食べたアルベルトは目を見開いて私を見た。
もう一度口に運び、再度私を見た。
それからこう言った。
「偉大な魔術師……」
「アイスを出しただけで?」
笑ってしまったけれど、アルベルトは少しも笑わなかった。
その目があまりに真剣で、私は何だか照れくさくなった。
聞きたいことは、たくさんあった。
どこから来たのか。家族はどこにいるのか。どうして、あんな雨の中に一人でいたのか。
だけど、アイスを食べ終わるとアルベルトは眠ってしまった。
私のベッドに寝かせ、薄い布団を掛ける。
「おやすみ、アルベルト」
私は居間のソファに横になった。
雨はまだ降っていた。古い瓦屋根をたたく音を聞きながら、明日は誰に相談すればいいだろうと考えた。
そのとき、寝室からかすかな声がした。
「……いやだ」
起き上がって、様子を見に行った。
アルベルトは目を閉じたまま、苦しそうに眉を寄せていた。布団をぎゅっと握る指に、白い力が入っている。
「大丈夫。ここにいるよ」
ベッドの縁に腰を下ろし、布団の上から小さな背中のあたりを、ぽん、ぽんとたたいた。
「雨の音だけ。大丈夫だからね」
アルベルトが目を開けた。
しばらく私を見つめて、それから、そっと私の袖をつかんだ。
「……一緒に……」
昼間の丁寧な声よりも、ずっと幼い響きだった。
「いいよ。少し狭いけど」
壁側へ小さく寄ったアルベルトの隣に入り、布団を掛け直した。私の胸元に彼の頭がすっぽりと収まったかと思うと寝息が聞こえた。
私の袖をつかんだまま、また眠ってしまった。
それから、寝るのはずっと一緒になった。
翌朝、アルベルトは自分のことを、少しだけ話してくれた。
帰らなければならない場所があること。
けれど、一人では帰れないこと。
迎えが来るはずだから、待っていたいこと。
「僕の話は、信じていただけないかもしれません」
そう言って俯いた小さな顔を見ると、それ以上問い詰めることができなかった。
「迎えが来るまで、ここにいる?」
アルベルトが顔を上げた。
「……いいのですか」
「うん。でも、困ったことがあったら言ってね」
「ありがとうございます」
深く頭を下げるので、今度は私が慌てた。
「毎回そんなにお礼を言わなくてもいいんだよ」
「でも、うれしいので」
そんなことを、まっすぐな顔で言う。
私は何も言えなくなって、朝食の皿を並べるふりをした。
彼の服を、通販で買うのは楽しかった。
「青と白、どっちが好き?」
画面を見せると、アルベルトは指先で触れるのをためらった。
「ここから、服を取り出すのですか?」
「取り出さないよ。注文したら、家まで届けてくれるの」
「……家まで」
また、あの尊敬するような目で見られた。
「これも魔法じゃないからね」
「そうなのですか」
どうも、納得していないようだった。
青いTシャツも、白いTシャツも買った。ズボンと靴、寝るときに着るものも選んだ。
荷物が届くたび、アルベルトは箱を丁寧に開けた。
「僕のもの、ですか」
「そう。着てみて」
本人は鏡より、私の顔ばかり見ていた。
「変ではありませんか」
「すごく似合う」
そう答えると、ようやくうれしそうに笑った。
朝、目を覚ますと金色の髪が枕に広がっている。
台所に立つと、トコトコとアルベルトがついてきた。
「僕にも、できることはありますか」
「じゃあ、このトマトを洗ってくれる?」
「はい」
水道の前に立つ小さな横顔は、最初は緊張していた。それでも数日たつと、自分から蛇口をひねるようになった。
買い物には並んで出掛けた。買い物かごを持ってついてくるのが可愛い。
彼が選ぶアイスを買った。
夕飯のあとには、二人でアイスを食べた。
「今日はチョコレート」
「同じチョコレートでも昨日のものとは違うのですね」
「どっちが好き?」
アルベルトは真剣に考え込んだ。
「……明日、もう一度食べていいですか? そしたらわかります」
「いいよ」
何でもない明日の約束が、うれしかった。
二週間ほど過ぎた、ある日のことだった。
取り込んだ洗濯物を、広いリビングの床に座って二人でたたんでいた。
部屋が急に明るくなった。
窓から差す夕日ではなかった。
板張りの床の上に、見たことのない模様が浮かび上がっていた。幾重もの円と、その間を埋める複雑な文字が、白く輝いている。
アルベルトが立ち上がった。小さな背中が急に大人びた。
光の中に、二人の男性が現れた。
長いローブをまとっていた。ゲームに出てくる魔法使いみたいだった。異世界で正解だった?
「アルベルト様!」
一人が、ほっとしたように声を上げた。
もう一人は床の模様を見下ろし、険しい顔をした。
「すぐに戻らなくては。道が閉じます」
「待って。まだ、ミサキに――」
長身の男性が、アルベルトを軽々と抱き上げた。
私は立ち上がったものの、突然のことに何もできなかった。
魔力。
魔術師。
彼が口にしていた言葉が、頭の中で一つずつ思い出された。
アルベルトが私へ、小さな手を精一杯伸ばした。
「ミサキ!」
その小さな手に触れようと、私も手を伸ばした。
もう一人の男性が、私に深く頭を下げた。
「異世界の方。アルベルト様をお守りくださり、ありがとうございます」
「ミサキ、迎えに来る!」
アルベルトの必死の声が、だだっ広いリビングに響いた。
「僕の世界に来て。迎えに来るから……!」
まぶしさに、思わず目を細めた。
金色の髪が光の中で揺れていた。
最後に、あのハシバミ色の瞳が私を見た。
そして、三人は消えた。
床には、何の模様も残っていなかった。
ただ、エアコンの低い駆動音が聞こえるだけだった。
アルベルトがたたんでいたTシャツがそこにあった。
「……待ってる」
誰もいない静かな空間へ、そうつぶやいた。
夕飯の支度をしようとして、無意識に卵を二つ取り出した。
しばらくじっと見つめてから、一つを冷蔵庫へそっと戻した。
冷凍庫を開ければ、二人で食べ比べるはずだったアイスが並んでいる。
洗面所には、小さな歯ブラシがぽつんと置かれていた。
ベッドの枕も、二つのままだった。
ほんの二週間前まで、この広い家で一人で暮らすことにすっかり慣れていたのに。
私はアルベルトのTシャツを丁寧にたたみ、引き出しにしまった。次に彼が戻ってきたときには、この服はもう小さくなっているかもしれない。そのときは、また一緒に新しい服を選べばいい。
窓の外は、まだ夏の夕暮れの名残で明るかった。
明日もきっと暑い。天気予報では、しばらく晴れの日が続くらしい。
それでも私には、あの小さな温もりが消えた瞬間、この家の夏が終わってしまったように思えた。
たぶん、人生で一番輝いた夏だった。
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