第五話:伍子胥 ― 滅びを見通した伍子胥(ごししょ)の亡国の眼
春秋の世。
呉の都は、勝利の熱に包まれていた。
越を打ち破り、越王・勾践を屈服させたその中心にいたのが―
呉の名臣、伍子胥だった。
彼の瞳には、常に冷たい炎が宿っていた。
復讐。
それが、彼をここまで導いた。
かつて、楚の国で父と兄を殺された日から――
伍子胥の人生は、ただ一つの目的に縛られていた。
復讐のために国を捨て、
復讐のために剣を取り、
復讐のために、呉を強国へと押し上げた。
そして今、目の前には敗者がいる。
越王・勾践。
地に伏し、頭を垂れ、かつての誇りは影もない。
その姿を見て、伍子胥は静かに言った。
「――殺すべきです」
王座の上の夫差(ふさ)は、ゆっくりと目を細める。
「なぜだ」
「この男は、いずれ必ず牙をむく」
言葉に迷いはなかった。
敗者の中に潜む執念を、伍子胥は知っていた。
それは、自分自身がそうであったからだ。
しかし、夫差は首を振る。
「敗者に、そこまでの力はない」
「……甘い」
小さく、だが確かにそう呟いた。
だが、その声は届かない。
夫差は笑う。
「生かしておけ。屈辱の中で生きる姿こそ、我が勝利の証だ」
決定だった。
伍子胥は、何も言わなかった。
ただ一度だけ、勾践を見た。
その目を。
――消えていない。
あの目は、終わっていない。
やがて、勾践は呉へ連れて行かれる。
馬の世話をし、
汚れ仕事を与えられ、
王であった誇りは、徹底的に踏みにじられた。
それでも。
彼は耐えた。
薪の上で眠り、
苦い胆を舐める。
屈辱を忘れないために。
復讐を、決して風化させないために。
臥薪嘗胆。
その日々の中で、勾践は王ではなくなった。
だが――
怪物へと変わっていった。
一方、呉の都。
伍子胥は、変わらぬ日々の中で、ただ一つの影を見続けていた。
あの男の目。
そして、未来。
「いずれ、滅びる」
誰にも聞かれぬように、そう呟く。
数年後、呉の都に、静かな風が吹いていた。
かつて栄華を誇った宮殿も、どこか色を失って見える。
その中心で――
一人の男が、膝をついていた。
伍子胥。
呉を強国へと押し上げた名臣。
だが今、その姿にかつての栄光はない。
王座の上には、夫差。
かつては彼の言葉に耳を傾けた王は、もはや別人のようだった。
「伍子胥」
低い声が響く。
「お前は、私に逆らった」
静かに、しかし冷たく。
伍子胥は顔を上げた。
その目に、恐れはない。
「私は、呉のために申し上げたまでです」
「越を滅ぼすべきだ、と?」
「……はい」
一瞬の沈黙。
そして、夫差は笑った。
「もう遅い」
その笑みには、かつての覇気はなかった。
あるのは、歪んだ自尊心と、積み重ねた誤りだけ。
「お前は、余の不興を買った」
側近が進み出る。
手には、一振りの剣。
それは処刑ではない。
自害を命じる剣だった。
伍子胥はそれを見て、すべてを理解した。
終わりだ。
だが――
彼はゆっくりと立ち上がる。
震えはない。
「最後に、申し上げます」
夫差は何も言わない。
ただ、見下ろしている。
「私の目を、墓の上に置いてください」
ざわめきが走る。
「呉が滅びる日を、この目で見届けたい」
その言葉は、呪いのようだった。
未来を言い当てる、確信に満ちた声。
夫差の顔が歪む。
「……連れていけ」
怒りを押し殺した声。
伍子胥は、もう王を見なかった。
ただ、遠くを見る。
まだ来ぬ未来を。
やがて、彼は剣を取る。
一度だけ、空を見上げた。
あの日。
すべてを失い、復讐を誓った日の空と――
同じ色だった。
「……これでいい」
小さく呟く。
そして――
刃が、胸に沈む。
血が流れる。
音もなく。
伍子胥の体は、ゆっくりと崩れ落ちた。
静寂。
その場に残ったのは、重い気配だけ。
誰も言葉を発しない。
ただ一つ、確かなものがあった。
この瞬間。
呉は――終わりへと向かい始めたのだ。
伍子胥の両目は、伍子胥の墓の上に置かれた。
やがて数年後。
越は、再び牙をむく。
そして呉は、滅びる。
その時、誰もが思い出す。
伍子胥の「越を滅ぼすべき」という言葉を。
あの、冷たい眼差しを。
呉王・夫差は思い出す。
あの日の言葉を。
――伍子胥の(越王・勾践を)「殺すべきです」
だが、その時には、すべてが遅かった。
伍子胥。
すべてを見通していた男は、
国が滅ぼされる最期まで――
呉を見ていた。




