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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

『落雨(らくう)』

作者: ぺぺぺ
掲載日:2026/05/17

雨は、一夜だけだった。

世界中で。

誰も予測していなかった。

気象衛星は異常を捉えられず、各国の観測機関もただ「原因不明の高密度降雨」と記録しただけだった。

そして翌朝、男たちが倒れ始めた。

最初は高熱。

次に激痛。

最後には、自分の骨を自分で砕こうとするほどの錯乱。

病院は数時間で埋まった。

患者たちは全身を伸縮包帯で固定された。

急激な骨格変化に筋肉と皮膚が耐えきれなかったのだ。

誰もが気絶していた。

人間の脳が、激変する肉体の苦痛を拒絶し、高熱のなかでそのまま幼児のように退行していった。

駆けつけた家族たちは、愛する者から応答が失われていくのを見守るしかなかった。

彼らはただ痛みに唸るばかりだった。

その唸り声も、日に日に元の彼のものではない、細く異質な響きへ変わっていく。

包帯の隙間から覗く肉体を見て、家族たちは絶叫した。

喉は細くなり、肩幅は崩れ、骨盤は歪んで広がっていた。

皮膚には赤黒い裂線が網のように走っている。

まるで内側から別の生物へ押し広げられた痕跡だった。

それから数ヶ月後。

容態の安定を確認した病院は、一部患者の拘束を解除し始めた。

それが終わりの始まりだった。

彼ら――いや、彼女らは、ある夜を境に一斉に動き始めた。

包帯だらけの身体で病院を抜け出し、街へ溢れ出る。

そして、人間を襲った。

飢えた獣のように。

骨格の変貌には膨大な熱量が必要だった。

だがそれ以上に、変貌を遂げた彼女たちの身体は、本能的な飢餓に突き動かされていた。

退行した脳に、強烈な衝動だけが残っていた。

彼女たちは病院の食糧庫を破壊し、泣き叫ぶ人々へ次々と噛みついた。

軍は出動した。

だが、遅すぎた。

感染ではない。

変異だった。

世界中の成人男性が、同時に“変わっていた”。

街では暴動と避難が重なり、軍も政府も機能を失った。

最初の雨から数ヶ月後。

異形と化した者たちによる爆発的捕食の連鎖とともに、文明は終わった。

地下都市アガルタでは、その日を〈落雨〉と呼んでいた。

地上は穢れている。

空は死を降らせる。

そう教えられて育った。

カイは一度も本物の雨を見たことがない。

地下水耕農場の薄暗い光。

老朽化した空調音。

崩れかけた鋼鉄通路。

それが彼の世界だった。

人口は減り続けていた。

出生率低下。

設備劣化。

慢性的資源不足。

だが評議会は、「地上は地獄だ」と繰り返すだけだった。

だから誰も外へ出ようとはしなかった。

リタが発掘庫で古い記録端末を見つけるまでは。

映像には、地上が映っていた。

青空。

植物。

巨大都市。

そして、赤黒い裂線を肌に浮かべた人々。

だが彼女たちは怪物ではなかった。

市場で果実を売り、子供を抱き、笑っていた。

「……生きてる」

誰かが呟いた。

映像の最後、撮影者と思われる人物がカメラへ向かって言う。

「地下施設の維持を継続する」

「旧人類は保全対象に指定された」

「代替技術による自性妊娠制御に成功」

「生体摂取による繁殖トリガー段階は終了している」

映像はそこで切れた。

評議会は即座に端末を没収した。

だが遅かった。

若者たちは知ってしまった。

地上は滅んでいない。

調査隊が地上へ出たのは、それから三ヶ月後だった。

分厚い隔壁が開く。

数百年ぶりの外気。

カイは、そこで立ち尽くした。

空があった。

どこまでも広い青。

そして都市。

白い塔が森のように並び、その中心を、雲を貫く黒い柱がそびえていた。

軌道エレベータ。

人類が完成できなかったもの。

「そんな……」

同行した老人が膝をつく。

地上は文明を失ってなどいなかった。

置き換わっていたのだ。

彼女たちはすぐに現れた。

赤黒い裂線を持つ長身の女たち。

異様な骨格。

だが瞳は穏やかだった。

武器は向けてこない。

その中の一人が、旧式の日本語で言った。

「地下都市アガルタの方々ですね」

完璧な発音だった。

「歓迎します」

カイたちは、誰も動けなかった。

地上文明は静かだった。

争いが少なかった。

資源不足もない。

気候制御。

完全循環都市。

遺伝子医療。

宇宙開発。

すべてが旧人類を遥かに超えていた。

案内役の女は、自らをエイルと名乗った。

彼女は博物館へカイたちを連れていく。

そこには、落雨以前の文明が保存されていた。

スマートフォン。

紙の本。

軍服。

子供のおもちゃ。

そして、人類の骨格標本。

絶滅危惧種の展示のように。

カイは吐き気を覚えた。

「俺たちは……餌だったのか」

エイルは展示ケースの前で立ち止まった。

そこには、落雨直後の医療記録が保存されていた。

包帯に巻かれた変異体。

隔離病棟。

破壊された食糧庫。

そして夥しい数の死亡報告。

エイルは静かに言った。

「初期世代の私たちは、不完全でした」

感情を抑えた、静かな声だった。

「変態と受胎に、極端な生体エネルギーを必要としていたのです」

壁面に古い研究図が投影される。

異形化した肉体構造。

暴走した代謝反応。

崩壊した脳機能。

「特に最初の受胎は致命的でした。自己生成された生殖因子を活性化するため、旧人類由来のタンパク質が必要だった」

カイは吐き気を覚えた。

「だから……食ったのか」

「はい」

エイルは否定しなかった。

「ですが、それは飢餓であり、生存本能でした」

彼女はそこで、ほんの少しだけ目を伏せる。

「私たちは、その段階を克服しました」

「だから今度は保護するのか」

「違います」

エイルは静かに首を振った。

その拍子に、首筋の赤黒い裂線が街の灯りを受けて鈍く明滅した。

「私たちは、あなた方から生まれたのです」

その言葉には、一片の偽りもなかった。

敬意と、感謝。

だからこそ、カイは戦慄した。

彼女たちは旧人類を憎んでいない。

ただ、もう必要としていないのだ。

夜。

宿舎の窓から、カイは軌道塔を見上げていた。

無数の光が空へ昇っていく。

「あれは?」

エイルは答える。

「外惑星植民船です」

「……宇宙へ行くのか」

「はい」

当然のように。

彼女たちは、もう地球という揺り籠に閉じこもる種ではない。

そのときカイは理解する。

人類は敗北したのではない。

終わったのだ。

緩やかに。

静かに。

時代そのものが。

エイルが隣で言う。

「安心してください」

「地下都市への支援は継続されます」

その声は優しかった。

まるで絶滅寸前の動物へ向ける保護者のように。

カイは初めて、本当の絶望を知った。

敵はいない。

憎しみもない。

ただ、自分たちはもう未来ではない。

窓の外では、雨が降っていた。

誰も逃げない。

広場では子供たちが笑いながら空を見上げている。

赤黒い裂線を濡らしながら。

エイルもまた、雨を見上げていた。

まるで祝福を見るように。

そのとき、軌道塔の遥か上空で、新しい植民船団が静かに加速を始める。

人類の未来だったものを乗せて。

カイはふと尋ねた。

「……あの雨は、結局なんだったんだ」

エイルは空を見たまま答える。

「観測船が、木星圏外で同じ粒子群を確認しています」

カイは息を呑む。

「同じ……?」

「はい」

彼女は静かに微笑んだ。

「宇宙は、時々贈り物をくれるのです」

その瞬間、カイは理解した。

終わったのは、人類だけではない。

これはきっと、どこか別の星でも、これから始まる。

雨は降る。

空から。

祝福のように。


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