『落雨(らくう)』
雨は、一夜だけだった。
世界中で。
誰も予測していなかった。
気象衛星は異常を捉えられず、各国の観測機関もただ「原因不明の高密度降雨」と記録しただけだった。
そして翌朝、男たちが倒れ始めた。
最初は高熱。
次に激痛。
最後には、自分の骨を自分で砕こうとするほどの錯乱。
病院は数時間で埋まった。
患者たちは全身を伸縮包帯で固定された。
急激な骨格変化に筋肉と皮膚が耐えきれなかったのだ。
誰もが気絶していた。
人間の脳が、激変する肉体の苦痛を拒絶し、高熱のなかでそのまま幼児のように退行していった。
駆けつけた家族たちは、愛する者から応答が失われていくのを見守るしかなかった。
彼らはただ痛みに唸るばかりだった。
その唸り声も、日に日に元の彼のものではない、細く異質な響きへ変わっていく。
包帯の隙間から覗く肉体を見て、家族たちは絶叫した。
喉は細くなり、肩幅は崩れ、骨盤は歪んで広がっていた。
皮膚には赤黒い裂線が網のように走っている。
まるで内側から別の生物へ押し広げられた痕跡だった。
*
それから数ヶ月後。
容態の安定を確認した病院は、一部患者の拘束を解除し始めた。
それが終わりの始まりだった。
彼ら――いや、彼女らは、ある夜を境に一斉に動き始めた。
包帯だらけの身体で病院を抜け出し、街へ溢れ出る。
そして、人間を襲った。
飢えた獣のように。
骨格の変貌には膨大な熱量が必要だった。
だがそれ以上に、変貌を遂げた彼女たちの身体は、本能的な飢餓に突き動かされていた。
退行した脳に、強烈な衝動だけが残っていた。
彼女たちは病院の食糧庫を破壊し、泣き叫ぶ人々へ次々と噛みついた。
軍は出動した。
だが、遅すぎた。
感染ではない。
変異だった。
世界中の成人男性が、同時に“変わっていた”。
街では暴動と避難が重なり、軍も政府も機能を失った。
最初の雨から数ヶ月後。
異形と化した者たちによる爆発的捕食の連鎖とともに、文明は終わった。
*
地下都市アガルタでは、その日を〈落雨〉と呼んでいた。
地上は穢れている。
空は死を降らせる。
そう教えられて育った。
カイは一度も本物の雨を見たことがない。
地下水耕農場の薄暗い光。
老朽化した空調音。
崩れかけた鋼鉄通路。
それが彼の世界だった。
人口は減り続けていた。
出生率低下。
設備劣化。
慢性的資源不足。
だが評議会は、「地上は地獄だ」と繰り返すだけだった。
だから誰も外へ出ようとはしなかった。
リタが発掘庫で古い記録端末を見つけるまでは。
映像には、地上が映っていた。
青空。
植物。
巨大都市。
そして、赤黒い裂線を肌に浮かべた人々。
だが彼女たちは怪物ではなかった。
市場で果実を売り、子供を抱き、笑っていた。
「……生きてる」
誰かが呟いた。
映像の最後、撮影者と思われる人物がカメラへ向かって言う。
「地下施設の維持を継続する」
「旧人類は保全対象に指定された」
「代替技術による自性妊娠制御に成功」
「生体摂取による繁殖トリガー段階は終了している」
映像はそこで切れた。
評議会は即座に端末を没収した。
だが遅かった。
若者たちは知ってしまった。
地上は滅んでいない。
*
調査隊が地上へ出たのは、それから三ヶ月後だった。
分厚い隔壁が開く。
数百年ぶりの外気。
カイは、そこで立ち尽くした。
空があった。
どこまでも広い青。
そして都市。
白い塔が森のように並び、その中心を、雲を貫く黒い柱がそびえていた。
軌道エレベータ。
人類が完成できなかったもの。
「そんな……」
同行した老人が膝をつく。
地上は文明を失ってなどいなかった。
置き換わっていたのだ。
彼女たちはすぐに現れた。
赤黒い裂線を持つ長身の女たち。
異様な骨格。
だが瞳は穏やかだった。
武器は向けてこない。
その中の一人が、旧式の日本語で言った。
「地下都市アガルタの方々ですね」
完璧な発音だった。
「歓迎します」
カイたちは、誰も動けなかった。
*
地上文明は静かだった。
争いが少なかった。
資源不足もない。
気候制御。
完全循環都市。
遺伝子医療。
宇宙開発。
すべてが旧人類を遥かに超えていた。
案内役の女は、自らをエイルと名乗った。
彼女は博物館へカイたちを連れていく。
そこには、落雨以前の文明が保存されていた。
スマートフォン。
紙の本。
軍服。
子供のおもちゃ。
そして、人類の骨格標本。
絶滅危惧種の展示のように。
カイは吐き気を覚えた。
「俺たちは……餌だったのか」
エイルは展示ケースの前で立ち止まった。
そこには、落雨直後の医療記録が保存されていた。
包帯に巻かれた変異体。
隔離病棟。
破壊された食糧庫。
そして夥しい数の死亡報告。
エイルは静かに言った。
「初期世代の私たちは、不完全でした」
感情を抑えた、静かな声だった。
「変態と受胎に、極端な生体エネルギーを必要としていたのです」
壁面に古い研究図が投影される。
異形化した肉体構造。
暴走した代謝反応。
崩壊した脳機能。
「特に最初の受胎は致命的でした。自己生成された生殖因子を活性化するため、旧人類由来のタンパク質が必要だった」
カイは吐き気を覚えた。
「だから……食ったのか」
「はい」
エイルは否定しなかった。
「ですが、それは飢餓であり、生存本能でした」
彼女はそこで、ほんの少しだけ目を伏せる。
「私たちは、その段階を克服しました」
「だから今度は保護するのか」
「違います」
エイルは静かに首を振った。
その拍子に、首筋の赤黒い裂線が街の灯りを受けて鈍く明滅した。
「私たちは、あなた方から生まれたのです」
その言葉には、一片の偽りもなかった。
敬意と、感謝。
だからこそ、カイは戦慄した。
彼女たちは旧人類を憎んでいない。
ただ、もう必要としていないのだ。
*
夜。
宿舎の窓から、カイは軌道塔を見上げていた。
無数の光が空へ昇っていく。
「あれは?」
エイルは答える。
「外惑星植民船です」
「……宇宙へ行くのか」
「はい」
当然のように。
彼女たちは、もう地球という揺り籠に閉じこもる種ではない。
そのときカイは理解する。
人類は敗北したのではない。
終わったのだ。
緩やかに。
静かに。
時代そのものが。
エイルが隣で言う。
「安心してください」
「地下都市への支援は継続されます」
その声は優しかった。
まるで絶滅寸前の動物へ向ける保護者のように。
カイは初めて、本当の絶望を知った。
敵はいない。
憎しみもない。
ただ、自分たちはもう未来ではない。
窓の外では、雨が降っていた。
誰も逃げない。
広場では子供たちが笑いながら空を見上げている。
赤黒い裂線を濡らしながら。
エイルもまた、雨を見上げていた。
まるで祝福を見るように。
そのとき、軌道塔の遥か上空で、新しい植民船団が静かに加速を始める。
人類の未来だったものを乗せて。
カイはふと尋ねた。
「……あの雨は、結局なんだったんだ」
エイルは空を見たまま答える。
「観測船が、木星圏外で同じ粒子群を確認しています」
カイは息を呑む。
「同じ……?」
「はい」
彼女は静かに微笑んだ。
「宇宙は、時々贈り物をくれるのです」
その瞬間、カイは理解した。
終わったのは、人類だけではない。
これはきっと、どこか別の星でも、これから始まる。
雨は降る。
空から。
祝福のように。




