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文学少女は物申す  作者: 綾崎暁都


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5/5

第五話 ポリコレってなんなのよ⁉︎

 ポリコレってなんなのよ⁉︎

 ほんとは今日、こう叫びたかった……。


 今日の朝のホームルーム前、教室がやけに賑やかだった。

 何事かと思えば、先週末に公開されたばかりの映画の話らしい。どうやらかなり話題になっているようで、女子たちが、

「よかったー!」

「泣いたー!」

「主人公めっちゃかっこよかったー!」 

 と、口々に言っている。

 私は席で本を読んでいた。今日はメルヴィルの『白鯨』だ。十九世紀アメリカ文学の金字塔。巨大な白い鯨に片脚を奪われた船長エイハブが、復讐のために大海原を渡る話。スケールが違う。人間の執念と自然の巨大さが、ぶつかり合う話だ。

 そこへ、隣の席の女子、確か今日初めてちゃんと顔を見た気がする、坂口さんという子が、私に話しかけてきた。

「藤澤さんって、映画とか観る?」

「たまには観ます」

「先週の観た? あの映画、すごいよかったんだけど」

 タイトルを聞いて、私は少し考えた。確か、予告を見たことがある。世界的に有名なキャラクターのリブート作品だ。

「観てないですね」

「絶対観たほうがいいよ。主人公めっちゃかっこいいし、アクションすごいし。あと、なんか、いろんな人が出てきて、すごくいい映画だった」

 坂口さんは笑顔でそう言った。悪意の欠片もない。純粋に面白かったのだと、その顔を見ればわかる。

「そうですか」

 と私は言って、また本に目を戻した。

 でも頭の中では、すでに何かが騒ぎ始めていた。

 昼休み、私はスマホで少しその映画の情報を調べてみた。

 なるほど、と思った。

 予告の時点でなんとなく察していたが、やはりそういう作品だった。

 主人公は従来のキャラから大幅に変えられていた。悪役は完全に小物として(えが)かれ、物語の途中で改心する。価値観の対立は丸く収まる。誰も深く傷つかない。全員が最終的にわかり合える。エンドロールが流れる頃には、世界は正しい方向を向いている。

 きれいだ。

 とても、きれいだ。

 きれいすぎて、私はスマホを置いた。

 文学少女は物申す。

 メルヴィルの『白鯨』において、エイハブ船長は救われない。白鯨への復讐に取り憑かれた彼は、仲間を巻き込み、船を失い、最後は鯨に引きずられて海の底に消えていく。誰も彼を止められなかった。誰も彼を変えられなかった。なぜなら、それが人間というものだから。執念とは、そう簡単に諦められるものではない。悪意とは、そう簡単に改心できるものではない。人間の業の深さを、メルヴィルは正直に書いた。その正直さが、長い時が経った今も、読む者の胸を打つ。きれいに収まる物語には、その正直さがない。

 でも、これは心の中だけで言っている。

 坂口さんに言えるわけがない。

 五時間目、授業のあと、廊下で、別のクラスの男子、確か以前図書室で見かけた園田くんという人が、友人らしき男子と話しているのが聞こえた。

「あのドラマ観た? 最近始まったやつ」

「観た観た。おれちょっと微妙だったわ」

「え、なんで? あれいいじゃん」

「なんか、全員いい人すぎて。葛藤とかないじゃん。なんか物足りなくね?」

「まあ、わかるけど。でもあれはあれで好きだよオレ」

 おっ、と私は思った。

 園田くん、わかってる。

 と思ったが、その後の会話はすぐに別の話題に移っていった。結局、物足りないと言いながらも次回も観るらしい園田くんの話を聞きながら、私は内心複雑な気持ちで図書室に向かった。

 図書室で、新しい本を棚から探していたとき、女子二人が入ってきた。先輩、もしかしたら同学年かもしれない。一人は背が高くてポニーテールの三浦さん、もう一人は小柄でくりくりした目の永井さんという名前だと、あとで棚越しに名前を呼び合っているのを聞いて知った。

 二人は私の近くの席に座って、スマホを見ながら話し始めた。

「ねえ、◯◯の新しいMV出たんだって」

「え、観る観る」

 しばらくして、

「かわいいー!」

「曲いいよねー!」

 という声が聞こえてきた。

 図書室なんだけどな、と思いながら、私は棚に視線を戻した。

 そして一冊の本を見つけた。

 オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』だ。

 あった。これだ、と思った。

 私はその本を抱えて席に座り、ページを開いた。

 『すばらしい新世界』は、近未来のディストピア小説だ。科学技術によって人間が管理され、誰もが幸福に、不満なく、効率よく生きている世界の話。苦しみはない。争いはない。悲しみもない。みんなが〝条件付け〟によって、自分の階層と役割に満足するよう設計されている。

 文学少女は物申す。

 ハクスリーが(えが)いたディストピアの恐ろしさは、〝人々が幸せそうに見える〟ことだ。苦しんでいないのに、ディストピアと呼べるのか、と思うかもしれない。でも、その世界には〝深み〟がない。傷つく自由がない。悩む自由がない。失敗する自由がない。ポリコレを過剰に意識した作品が怖いのも、同じ理由だ。誰も傷つかない物語、誰も間違えない物語、きれいに収まる物語は、ハクスリーの『すばらしい新世界』に似ている。すばらしいはずなのに、何かが死んでいる。

 でも三浦さんと永井さんは、楽しそうにアイドルのMVを観ている。

 それを責める気には、なれない。

 放課後になった。

 帰り支度をしながら、私は今日一日を振り返っていた。

 坂口さんが話しかけてくれた映画。園田くんと友人のドラマの話。三浦さんと永井さんのアイドルのMV。みんな、それぞれのエンタメを楽しんでいる。誰も不満を言っていない。

 いや、園田くんは少し言っていた。「全員いい人すぎて」と。

 でも結局、次も観ると言っていた。

 文学少女は物申す。

 ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んでほしい。あの世界では、言語そのものが支配の道具になっている。〝ニュースピーク〟という言語体系で、反抗するための言葉が少しずつ消されていく。言葉が減ることで、思考が減る。思考が減ることで、反抗が消える。ポリコレを意識しすぎた作品が続けば、同じことが起きると私は思う。〝傷つく表現〟を削り続けた先に残るのは、摩耗した物語だ。言葉を削れば、感情も削れる。感情を削れば、文学は死ぬ。心も死ぬ。そして人も……。

 もちろん、差別はいけない。偏見はいけない。それは当然だ。

 でも、それとこれとは話が違う。

 人間の醜さを(えが)くことと、差別を肯定することは、イコールじゃない。

 エイハブ船長の狂気は、差別ではなく、人間の業の深さだ。

 その違いを、丁寧に書けなくなったとき、物語は死ぬ。

 校門を出て、帰り道を歩き始めた。

 夕方だった。

 空が赤く染まっていた。低い位置に太陽があって、私の影が長く伸びていた。

 前を歩く生徒たちが、楽しそうに話している。今日見た映画の話、好きなアイドルの新曲の話、週末の予定の話。みんなの声が、夕風に乗って流れてきた。

 楽しそうだ、と思う。

 本当に、楽しそうだ。

 そして誰も、ポリコレというワードを口にしない。キャラクターに深みがあるかどうかを気にしない。物語の構造を問わない。エンドロールが流れれば満足して、翌週にはまた次の話題に乗り換える。それで完全に満足している。

 悪いことじゃない、と私は思う。

 消費されるエンタメには、消費されるための役割がある。疲れた日に見て、泣いて、笑って、すっきりして眠れる。それは大切なことだ。

 でも、私にはできない。

 文学少女は物申す。

 メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読んだことがあるか? 十九世紀初頭に、まだ十代だった女性が書いた小説だ。科学者が作り出した怪物は、醜く、恐れられ、拒絶され、最終的に憎しみに満ちた存在になっていく。でも彼を怪物にしたのは、彼を拒絶した人間社会だ。彼は最初から怪物だったのではない。孤独が、彼を怪物にした。この物語には、悪役がいない。全員が、それぞれの立場で傷ついている。誰かを一方的に悪者にせず、誰かを一方的に被害者にもせず、ただ人間の複雑さを正直に(えが)いた。これが、文学の強さだ。きれいに収めることよりも、正直に書くことのほうが、ずっと難しくて、ずっと価値がある。

 でも、こんなことを言っても。

 誰も聞いていない。

 夕日の中を、私はひとりで歩いていた。

 前を歩く坂口さんのグループが、また映画の話をしていた。

「あのシーンよかったよね」

「わかる! 感動した!」

 そんな楽しそうな声が、夕風に混じって、私の耳に届いてくる。

 私はカバンの中の『白鯨』に手を触れた。

 エイハブは救われなかった。フランケンシュタインの怪物は孤独だった。オーウェルの世界は言葉を失った。ハクスリーの世界は感情を失った。

 みんなそれを知らない。知らなくても、夕日の中で笑っていられる。

 それは、幸福なことかもしれない。

 でも私は知ってしまっている。読んでしまっている。一度読んだら、もう引き返せない。きれいに収まる物語を見るたびに、何かが足りない気がしてしまう。感動できない自分が、少し、損をしている気がしてしまう。

 夕日が、長い影を地面に落としていた。

 私の影と、前を歩く坂口さんたちの影が、同じ方向に伸びている。形は同じなのに、どこかが違う気がした。

 ポリコレを気にしすぎた作品ほど、つまらないものはない。

 でも、その言葉は今日も、私の胸の中にだけあった。

 誰にも届かないまま、夕日の中に溶けていく。

 そう、少し、寂しかった。

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