第四話 男子ってなんて馬鹿なんだろう
今日の昼休み、私はひとつの真実に辿り着いた。
現実の男子というのは、なぜあんなにも馬鹿なのか。
いや、〝馬鹿〟という言葉は少々乱暴かもしれない。知性の方向性が、著しく偏っているとか、知的エネルギーの使い道を根本的に誤っているとか、もう少し上品な言い方もできる。でも今日ばかりは、率直に言わせてほしい。
馬鹿だ。
事の起こりから、順を追って説明しよう。
昼休み、私はいつものように本を読んでいた。最近読んだ本を読み返している。今日はスタンダールの『赤と黒』。十九世紀頃、フランスの野心的な青年ジュリアン・ソレルが、上流社会に食い込もうとする話。ジュリアンは貧しい製材屋の末息子でありながら、聡明で、情熱的で、己の野心のために全力で生きている。欠点も多いが、それも含めて、なんとも読み応えのある男である。
そこへ、騒音が来た。
私の席から三列離れたところで、男子が四人、何かを巡って言い争っていた。
「だからおまえが悪いんだって! あそこで右じゃなくて左に曲がれば絶対倒せただろ!」
「は? あれは右が正解だろ! おまえこそなんで突っ込んでいったんだよ?」
「オレは突っ込んでないし、あの位置からなら突っ込むのが普通だ!」
「普通じゃないって!」
ゲームの話だった。どうやら昨夜、オンラインで協力してプレイし、その結果上手くいかなかったらしい。昼休みに集まって、作戦会議、いや責任を押し付け合っている。
四人の名前は確か、高瀬、木暮、朝倉、そして野田、だったと思う。全員学ランで、全員同じような熱量で怒鳴り合っている。
文学少女は物申す。
ジュリアン・ソレルは、己の野心のためにナポレオンから学び、上流社会の礼儀作法を身につけた。彼のエネルギーの使い方が正しいとは言わないが、少なくとも方向性がある。目標がある。夢がある。対して君たちのそのエネルギーは、昨夜のゲームの作戦の正否を、昼休み、検証するために使われている。百歩譲って検証するのはいい。でも怒鳴り合う必要があるのか? 昼休みの教室で、そんなに声を張る必要が、あるのか?
私は栞を挟んで、こめかみを押さえた。
気を取り直して、『赤と黒』に戻る。
ジュリアンが、市長の妻レナール夫人に近づいていく場面。知性と計算と、でもどこか純粋な感情も混じり合った、複雑な心理描写。スタンダールという人は、人間の内面を解剖するのが本当に上手い。こういう男が、現実にいてくれたらと思う。野心的すぎるのも困るけど、せめてこれくらいの知性と言葉を持っていてほしい。
そこへまた、騒音が来た。
今度は別の男子、桑原という、体格のいい、スポーツでもやっているような男子が、通路を通り際に私の机の角に腰をぶつけて、「あ、やべ」と言いながら何事もなかったように通り過ぎた。
私の本が、床に落ちた。
スタンダールが、床に落ちた。
桑原くんは……謝らなかった。
文学少女は物申す。
これは些細なことかもしれない。でも、床に落ちたのはスタンダールの『赤と黒』だ。十九世紀の傑作だ。人類の遺産と言っても過言ではない一冊だ。それが「あ、やべ」で済まされた。せめて拾っていけ。いや、拾う以前に、机にぶつかったなら「ごめん」くらい言えないのか? 「ごめん」は、日本語で三文字だ。「あ、やべ」も句読点を除いて三文字なのだから、同じでしょ? そのどちらを選ぶかで、人間の品性が問われると思うんだが、これを読んでいる君は、どう思う?
私は自分で本を拾って、表紙に傷がついていないか確認した。大丈夫だった。スタンダールは無事だった。
よかった。
五時間目、体育の授業のあとだった。
男子は校庭でサッカーをやっていたらしく、汗まみれで教室に戻ってきた。高瀬くんが「疲れたー」と言いながら自分の席に倒れ込み、木暮くんが「オレ、今日めっちゃよかったわ!」と自画自賛を始め、朝倉くんが「どこが? あのシュート外れてたじゃん」と突っ込み、また昼と同じような言い争いが再燃した。
私はうんざりしながら、こっそり本の続きを読んでいた。
ジュリアン・ソレルは今、貴族の娘マチルドと駆け引きをしている。マチルドは高慢で気まぐれで、でも誰よりも鋭い女性として描かれている。彼女とジュリアンの関係は、プライドとプライドのぶつかり合いで、読んでいてハラハラする。少なくとも、「あのシュート外れてたじゃん」「いや外れてないし」よりは、はるかに知的な攻防だ。
文学少女は物申す。
男子諸君に問いたい。シェイクスピアの『ハムレット』を読んだことがあるか? ハムレットは、父の死の真相を探りながら、生きることの意味を問い続けた。「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という独白は、人類史上最も有名な自問自答のひとつだ。それくらいの重みで、人生を考えてほしいとは言わない。そこまで要求しない。でも、せめて、体育のサッカーごときのシュートで、入ったか入っていないかを、あれほどの熱量で議論するエネルギーがあるなら、その十分の一でいいから、別のことに使ってほしい。本でもいい。音楽でもいい。絵でもいい。なんならサッカー部でもいいだろう。何かひとつ、魂を込めて向き合えるものを、探してほしい。
でも、そんなことを口に出したら「うざい」と思われる。
私は黙って、ジュリアンの続きを読んだ。
放課後になった。
私は図書室に向かおうとして、廊下で少し立ち止まった。
窓から、校庭が見える。
野田くんが、またゲームの話をしながら、高瀬くんと並んで歩いている。二人はまだ言い争っているのか、笑い合っているのか、よくわからない顔をして肩をぶつけ合っていた。
馬鹿だな、と思う。
でも、楽しそうだとも、思う。
私は図書室に向かった。
図書室で、新しい本を探していた。『赤と黒』もいいが、今日は少し違うものが読みたい気分だった。棚を眺めていると、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』が目に入った。
ウェルテル。
この男も、すごい。十八世紀頃のドイツの青年が、叶わぬ恋に身を焦がして、書いた手紙の集まりで構成された小説。ウェルテルの感情表現は、激烈で、過剰で、でもどこまでも真剣だ。好きな女性のことを考えて、一人で泣いて、手紙を書いて、また泣く。現代の男子がやったら「重い」と引かれること間違いなしの行動を、ウェルテルは全力でやり続ける。
でも、それが美しいんだ。
感情に嘘がないから。全部、本気だからこそ、美しい。
文学少女は物申す。
現実の男子に、ウェルテルを読んでほしい。別に真似しろとは言わない。真似したら大変なことになる。でも、これくらい自分の感情に正直に、真剣に、誰かのことを想う、ということの重さを、少し感じてほしい。高瀬くんも、木暮くんも、桑原くんも、ゲームや体育なんかより、人間の感情のほうが、ずっと複雑で、ずっと面白いぞ。
もちろん、そんなことを彼らに言うつもりはない。
言ったら、確実に引かれる。
私は『若きウェルテルの悩み』を棚から抜いて、席に座った。また、最近読んだ本を読もうとしている。
それからしばらく経ち、図書室を出た頃には、すっかり夕方になっていた。
校舎の廊下は、すでにほとんどの生徒が帰ったあとで、とても静か。靴箱で靴を履き替え、校門に向かう。
そこで、見てしまった。
校門を出たところに、私のクラスの男女が並んで立っていた。男子のほうは確か、クラスでも目立つ、確か倉本くんだ。女子のほうは、別のクラスの子で、確か一度話したことがある、確か有村さんという子だったと思う。
二人は並んで、同じ方向に歩き始めた。
距離が近かった。
肩が触れそうなくらい、近かった。
倉本くんが何か言って、有村さんが笑った。有村さんが何か言い返して、倉本くんが頭を掻きながら照れたような顔をした。
ああ、と私は思った。
付き合ってるんだ。あの二人。
知らなかった。知る由もなかった。でも、一目見ればわかる距離感だった。
私は校門の手前で、少し立ち止まった。
二人の後ろ姿が、夕方の光の中で、並んで遠ざかっていく。倉本くんの学ランと、有村さんのセーラー服が、並んで。
文学少女は物申す。
……などとは言えない。
……今は、何も言えない。
倉本くんのことを、私はよく知らない。成績がどうとか、本を読むかどうかとか、そういうことは何も知らない。もしかしたら、ゲームの話しかしない人かもしれない。体育のサッカーのシュートぐらいで、入ったか入ってないかで言い争う人かもしれない。
でも今、有村さんの隣で照れている倉本くんは、なんとなく、ウェルテルに似ている気がした。
いや、似ていない。全然似ていない。ウェルテルはもっと悲劇的で、もっと激烈で、最終的にひどいことになる。倉本くんは学ランを着た普通の高校生だ。
でも、あの照れた顔は、本物の感情だと思った。
誰かの隣を歩くことの意味を、少しだけ、わかっている人の顔だと思った。
私は二人と逆の方向に歩き出した。
夕方の風が、少し冷たかった。
カバンの中には、ウェルテルと、スタンダールが入っている。どちらも、誰かを好きになることについて、書いてある。どちらの主人公も、叶うかどうかわからない感情を抱えて、それでも全力で生きている。
私はそれを読んで、鳥肌が立つほど感動する。
でも、読んでいるだけだ。
校門から離れていく自分の影が、夕日に伸びて、ひとつだけ、地面に落ちている。
現実の男子は馬鹿だ。ゲームの話しかしない。体育のサッカーのシュートぐらいで言い争う。廊下で人の机にぶつかって「あ、やべ」で通り過ぎる。そんな、馬鹿ばっかり。
でも倉本くんは今、有村さんの隣を歩いている。
そして私は、ひとりで帰る。
ウェルテルを抱えて、ひとりで。
夕方の風が、また吹いた。
少し、寂しかった。
うん、少しだけ。ほんの少しだけだけど……。
……そう、寂しかった。




