第二話 文学少女は優等生に非ず
藤澤透花という人間について、少し説明しておこうと思う。
黒のボブカット。眼鏡。セーラー服。本が好き。文学が好き。古典が好き。偉人の残した言葉が好き。そして、テストの点数が――。
うん、最後のは、あとで話す。
とにかく、私のことを知らない人が私を見たとき、おそらく全員が同じことを思うはずだ。「あ、優等生だ」と。
これが、許せない。
優等生を名乗りたいわけじゃないのだが、かといって、逆も困る。「優等生っぽいのに実は違うんですね! 意外!」みたいなリアクションも、なんか違う。
私はただ、藤澤透花という個人として、正しく認識されたいだけなのだ。
それが、難しい。
今日の朝のホームルームで、先生が言った。
「来月の中間テスト、しっかり準備してくれよ。特に、苦手な科目がある人は早めに対策してな」
クラスメートたちがざわめく。隣の席の男子――確か田所とかいう名前だったと思う――が「やばい、全然勉強してねえ」と呟いた。前の席の女子、確か桐島さんが「あたしもー! どうしよー!」と笑いながら言っていた。
私は窓の外を見ていた。
テストか、と思った。
テストというのは、実に不思議な制度だと思う。あの四角い解答用紙の中に、人間の知性を押し込めようとする試み。百点満点という、なんとも人間臭い基準。
文学少女は物申す。
そもそも、知性とは数値化できるものなのか。芥川龍之介は『藪の中』で、ひとつの真実に対してまったく異なる複数の証言を並べてみせた。人間の認識というものは、それほどまでに主観的で、曖昧で、複雑だ。それを、マークシートと記述欄で測れると思っているのか。思っているのか、この世界は。
……と言いたいところだが。
まあ、私の点数が悪いことへの言い訳を哲学で包んでいるだけじゃないか、と言われたら、否定しにくい部分もある。それは、認める。
二時間目は現代文だった。
現代文は、名前だけ聞けば私の得意科目のように思えるだろう。文学少女なのだから、現代文が得意に決まっている、と。
違う。
断じて、違う。
今日のテキストは、ある評論家が書いた現代社会論の文章だった。先生が「傍線部Aの『他者との関係性における自己同一性の揺らぎ』とはどういう意味か、八十字以内で説明しなさい」という問題を例に出して解説し始めた。
文学少女は物申す。
それは文学じゃない。暗号だ。
〝自己同一性の揺らぎ〟を八十字で説明する人間が、この世のどこにいるんだ。夏目漱石は『こころ』の中で、先生という人物の孤独と罪悪感を、三百ページ以上かけて描いた。三百ページ以上だ。それを八十字に圧縮しろというのか。魂というものは、八十字に収まるほど薄くない。
もちろん、問題の意図はわかっている。読解力を測っているんだろう。でも私の読解力は、「この文章全体を通じて筆者が伝えたいことを自由に三千字で述べよ」という問いには答えられるかもしれないが、「傍線部Aを八十字以内で」というフォーマットが、どうしても肌に合わない。
先生の解説が続く中、私はノートの端に、ランボーの詩の一節を書き写していた。
これが、私が優等生でない理由のひとつだ。
昼休み。
私はいつもの場所、教室の隅の席で本を読んでいた。今日はカフカの『変身』だ。朝起きたら巨大な虫になっていた男の話。これを最初に読んだとき、私は三ページ目で本を閉じて、しばらく天井を見上げた。すごすぎて。なんだこれは、と思って。虫になった男が、家族にだんだん疎まれていく話なのに、なんでこんなに切ないんだ、と思って。
そこへ、声をかけてきた人物がいた。
クラスの委員長、確か小野田くんという男子だ。学ランをきっちり着込んで、姿勢が良くて、いかにも成績優秀そうな見た目をしている。実際、優秀らしい。
「藤澤さん、また本読んでるの?」
「読んでます」
「何読んでるの?」
「カフカの『変身』です」
小野田くんは少し考える顔をしてから、「それって……人が虫になる話?」と言った。
「そうです」
「なんで読もうと思ったの」
「なんでって……面白いからです」
小野田くんは、「へえー」と言った。その「へえー」の中に、「よくわからないけどすごいね」のニュアンスが込められているのが、私にはわかった。わかってしまった。
彼は続けて言った。
「藤澤さんって、テストとかどう? 現代文とか得意そうだよね」
私は一瞬、間を置いた。
「……まあ、その話は置いておきましょう」
「え、なんで」
「置いておきましょう」
小野田くんは不思議そうな顔をして、自分の席に戻っていった。
私はカフカの続きを読みながら、グレゴール・ザムザに、少し親近感を覚えた。
彼も、家族に理解されなかった。
放課後、図書室で本を読んでいると、隣の席に見知らぬ女子が座った。私のクラスじゃない。二年生か三年生だろうか。彼女はため息をついて、参考書を広げた。
それから、ちらっと私のほうを見て、「それ、何読んでるの?」と訊いてきた。
「カフカです」
「コーヒー?」
「……フランツ・カフカです。作家です」
「ああ」と彼女は言った。
「文学少女って感じだね」
文学少女。
その言葉は、褒め言葉なのか、それとも若干の揶揄が混じっているのか、毎回判断に困る。おそらく本人に悪意はない。ただ、「あなたはわたしとは違う種類の生き物だ」という認識の表れとして、その言葉が使われている……そんな気がして、私は毎回複雑な気持ちになる。
文学少女は物申す。
〝文学少女〟というラベルを貼ることで、思考停止していないか。人間をカテゴライズして、「あの子はそういう子だから」と処理することは、ある種の知的怠慢ではないか。モンテーニュは『エセー』の中で、「私は何を知っているのか?」と問い続けた。十六世紀のフランス人が問い続けたその問いを、今の私たちは問えているだろうか。
人間を分類することに、私たちは慣れすぎていないか。
……と、心の中で物申したが、隣の女子には「そうですね」とだけ言った。
彼女はまた参考書に戻り、私はカフカに戻った。
家に帰って、ランドセル……じゃなくてカバンを置いて。
テストのことを思い出した。
ため息が出た。
私は机の引き出しから、前回の抜き打ちテストの答案用紙を取り出した。返却されてから、ずっとここに仕舞い込んでいた。見たくなかったから。でも今日、先生が「早めに対策して」と言っていた。だから、現実と向き合わなければならない。
答案用紙を、恐る恐る見る。
現代文、六十一点。
数学、四十三点。
英語、五十五点。
地理と歴史、ともに七十二点(これは比較的よかった。文学の背景と絡めて覚えておいたから)。
理科系の科目、三十……。
……。
文学少女は物申す。
いや、待ってほしい。これは決して、勉強していないわけじゃない。私はちゃんと本を読んでいる。毎日読んでいる。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読んだ。スタンダールの『赤と黒』を読んだ。どれほどの知識と教養を積み上げてきたと思っているんだ。
なのに、数学が四十三点なのは、どういうことか。
いや、わかっている。数学と文学は、まったく別の回路で動いている。ドストエフスキーの書いたものをすべて読んでも、二次方程式は解けるようにならない。それはわかっている。頭ではわかっている。
でも、釈然としない。
釈然としないのだ。
理不尽だと思う。人間の知性がこれほどまでに豊かで多様なのに、テストというフォーマットはあまりにも画一的だ。私はカフカを読んで、グレゴール・ザムザの孤独を理解できる。ランボーの詩を読んで、鳥肌が立つ。太宰を読んで、なぜかちょっと泣けてくる。これは知性ではないのか。感性ではないのか。
答案用紙は、そんなことを聞いてくれない。
ただ、数字を返してくる。
四十三点、と。
私はため息をついて、答案用紙を裏返した。見たくない。カフカを開く。グレゴール・ザムザが、今日も虫として家族に疎まれている。
わかる、と私は思った。
私も今、テストの点数という現実に疎まれている。
それにしても、だ。
文学が好きで、本ばかり読んでいて、偉人の言葉を日々噛み締めている私が、なぜ現代文で六十一点しか取れないのか。これは世界の矛盾だと思う。構造的な欠陥だと思う。夏目漱石も、きっと試験を受けたら現代文で満点は取れなかったと思う。自分の文章を「傍線部Aを八十字以内で」とか解かされたら、それは違う、と言いたくなるはずだ。絶対に言いたくなるはずだ。
そうだ、悪いのは世界だ。
悪いのは、フォーマットだ。
私は悪くない。
……でも、やっぱり四十三点は、ちょっと、悪い。
私は天井を見上げた。
文学少女なのに、テストができない。本をたくさん読んでいるのに、現代文が六十一点。そのせいで、〝勉強もできて本も読める完璧な文学少女〟という称号は、私には一生与えられない。かといって〝ギャップが可愛い残念系文学少女〟という称号も、なんか違う。そんな称号はいらない。
私はただ、藤澤透花として、本を読んで、生きていたいだけなのに。
それが難しい。
人間関係も難しいし、テストも難しいし、世界は本当に、とかく住みにくいな。
漱石先生、あなたは正しかった。百年以上前に、もう全部わかっていたんですね。
私は答案用紙を引き出しの奥に押し込んで、カフカの続きを読み始めた。グレゴール・ザムザは今日も虫だった。私のテストの点数は、四十三点だった。
まったく、どうしてくれるんだ、世界よ。




