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文学少女は物申す  作者: 綾崎暁都


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第一話 文学少女はぼっちな少女

 私の名前は藤澤透花(ふじさわとうか)。高校生。黒のボブカット、眼鏡、セーラー服という、どう考えても〝文学少女〟以外の称号しか与えられない、そんな外見をしている。

 そして今日も、教室の隅の席でひとり、本を読んでいる。

 これは別に寂しいとか、孤独だとか、そういう話じゃない。断じてない。私は好んでこうしているのだ。うん。そうだ。絶対にそうだ。

 ……でも、まあ、少しだけ、話を聞いてほしい。

 昼休みというのは、実に興味深い時間だと私は思う。

 人間観察という意味において、だ。

 私の教室を見渡してみよう。窓際の席では、女子グループが四人集まってスマホの画面を覗き込んでいる。きゃあきゃあと声をあげている。何がそんなに面白いのか。どうやら動画らしい。短い動画を次々とスワイプして見続けている。三秒で飽きて、また三秒で飽きて、また三秒で飽きて――。

 文学少女は物申す。

 夏目漱石の『草枕』の冒頭を知っているか。「()に働けば(かど)が立つ。(じょう)(さお)させば流される。意地を(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」。百年以上前の人間が書いた言葉だぞ。それが今もまったく古びていない。むしろあの三秒動画を延々スワイプし続けている君たちの姿を見ていると、「とかくに人の世は住みにくい」どころか「とかくに人の世は薄くなった」とでも付け加えたくなってくる。

 深みがないんだ。三秒の深みって、なんだ?

 続いて教室の後ろを見てみよう。男子が五、六人集まって、昨日のゲームの話をしている。学ランの第二ボタンをわざわざ外して、どこかやさぐれた雰囲気を演出している彼らが、「いや待って、あそこのボス強すぎだろ」「オレもう、三十回死んだわ」などと言い合っている。

 ……まあ、ゲームを責めるつもりはない。ドストエフスキーだって、賭博で身を持ち崩した男だ。人間、遊びを求める生き物なのはわかっている。

 でも、だ。

 そのエネルギーを、少し、本に向けてみてはどうか。ドストエフスキーの『罪と罰』を読め。あれはある意味で、最高のサスペンスゲームだぞ。主人公が殺人を犯して、そこから心理的にじわじわと追い詰められていくさまは、どんなホラーゲームより怖い。攻略サイトなんかいらない。ただページをめくり続けることしかできない。三十回死ぬ必要すらない。読者であるあなたは安全地帯から、人間の業の深さをたっぷり味わえる。コスパとして最高じゃないか。

 なのに、誰も読まない。

 午後の授業が終わった放課後、私はまっすぐ図書室に向かう。

 これが日課だ。唯一の、と言ってもいい日課。

 図書室には数人の生徒がいるが、そのほとんどが試験勉強をしている。問題集を広げて、赤ペンで書き込みをして、ため息をついている。本棚の前に立って、静かにページをめくっている人間は――まあ、私以外にはいない。

 文学少女は物申す。

 図書室に来て、本を読まないのはどういうことか。いや、勉強も大事だ。それはわかる。私だって成績が壊滅的なら困る。でも、ここには本があるんだぞ。壁一面に、本が、ある。誰かが書いて、誰かが集めて、誰かが並べた本が、静かに読まれるのを待っているんだぞ。

 太宰治が『人間失格』の中で、確かこんなことを書いていたと思う。〝人間を、どうしても怖くて仕方がなかった〟と。葉蔵という主人公は、人間のことが理解できなくて、笑いで誤魔化して生きていく。

 私も少しだけ、その気持ちがわかる気がする。

 いや、笑いで誤魔化しているわけじゃないけど、私は本で誤魔化している。いや、誤魔化すっていう言い方は語弊があるな。本の世界に逃げている、じゃなくて、本の世界を主戦場にしている。そっちのほうが正確だ。

 だって現実の世界より、本の世界のほうが、ずっと豊かで、深くて、面白いんだもの。

 シャーロック・ホームズはベイカー街に住んでいて、ワトスン先生はいつも彼の隣にいる。アンは赤毛の女の子で、グリーンゲイブルズを見て、私は泣いた。手違いで送られた孤児の女の子が、愛され、騒動を起こしながらも賢く成長していく物語。これ以上に教科書としてふさわしいものはあるだろうか? モンゴメリが書いた、本物の感動だ。

 そういうものが、この図書室の棚にぎっしり詰まっているのに。

 誰も、取り出さない。

 帰り道、私はひとりで歩いていた。

 当然だ。一緒に帰る人間がいない。

 前を歩いているのは、同じクラスの女子二人組だ。名前は……確か片方が西村さんで、もう片方が今井さんだったと思う。楽しそうに話しながら歩いている。スマホを見せ合ったり、どこかのお店の話をしたり。

 私は少し距離を置いて、その後ろを歩く。

 カバンの中には、今日図書室で借りてきた本が入っている。ランボーの詩集だ。十九世紀フランスの天才詩人が、十代の頃に書いた詩。十代で、あんなものを書けるのか、という驚きと嫉妬と感動をまとめて味わいたくて、今回借りたのだ。

 西村さんと今井さんの会話が、風に乗って聞こえてくる。

「ねえ、最近何か読んだ?」

 おっ、本の話か。私は少し耳をそばだてた。

「読んだ読んだ! ユウマくんの写真集! めちゃくちゃよかった!」

「わかる! ユウマくん、ほんとかわいいよね!」

 ……。

 文学少女は物申す。

 それを〝読む〟と言っていいのか? いや、言っていい。写真集も立派な出版物だ。そこは認める。でも「最近何か読んだ?」という問いに対して、その答えが返ってきたとき、私の中で何かが静かに泣いた。

 ランボーが泣いた。

 詩集の中で、ランボーが泣いている気がした。

 あのな、ランボーはな、十六歳のときに『酔いどれ船』を書いたんだぞ。十六歳だぞ。私たちと、ほぼ同い年だぞ。その年で、嵐の海を漂う船の目線で、人間の孤独と自由と絶望を書き切ったんだぞ。

 その同い年の天才詩人の言葉が詰まった本が、世界中の図書館や書店に並んでいるのに、誰も手を伸ばさない。

 ……なんで?

 ……なんでなんだ?

 家に帰って、ランドセル……じゃなくてカバンを置いて、すぐに本を開く。

 ランボーの詩の言葉が、眼鏡の奥の目に飛び込んでくる。

 ああ、いい。

 こういう時間が、私には一番大切だ。誰とも話さなくていい。愛想笑いしなくていい。三秒動画を一緒に見て「わかる!」って言わなくていい。ただ、言葉と向き合っていればいい。

 でも、ふと思う。

 もし、クラスに一人でも、本を読む人がいたら……。

 ランボーの詩を読んで、「すごいと思わない?」って言ったら、「思う!」って返してくれる人がいたら。『罪と罰』の話をしたら、「わかる、あのラスコーリニコフは本当に……」って続けてくれる人がいたら……。

 ……きっと、楽しいだろうな、と思う。

 でも、そんな人は、今のところ、私の周りには、いない。

 私が本の話をすると、みんなちょっと引いた顔をする。「すごいね」って言うけど、その「すごいね」は「ちょっと理解できないね」の言い換えだということぐらい、私にもわかる。

 ……別にいい。

 ……別にいいん、だけど……。

 私はランボーの詩集をパタンと閉じて、天井を見上げた。

 そりゃそうだよな、と思う。

 古典文学の話を熱量マシマシでしてくる眼鏡のボブカット女子と、友達になりたいと思う高校生が、この世に何人いるというんだ。

 私が逆の立場でも、ちょっと怖い。

 ため息をつく。

 漱石も太宰もランボーも、みんな友達に恵まれなかったり、人間関係でひどい目に遭ったりしている。人間性に問題ありって、傍から言われるかもしれないけれど、文学と孤独は、どうやら切っても切れない縁があるらしい。

 わかった。わかったよ。私も文学少女として、その系譜に連なっているということか。

 ロマンチックに聞こえるかもしれないけど、全然ロマンチックじゃない。ただ単に、だから私には友達ができないんだ、という話だ。

 まったく。

 どうしてくれるんだ、世界よ。

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