第一話 隣に天使が引っ越してきた
引っ越し初日の夜、俺は段ボールの山に埋もれながら、「一人暮らしって、こんなに部屋が狭かったっけ」と人生を見失いかけていた。
ワンルーム。壁は薄い。キッチンは申し訳程度。カーテンはまだ買ってない。冷蔵庫は空っぽ。ベッドは床に直置きのマットレス。
──まあいい。高校生活はここからだ。自由だ。親の小言もない。誰にも気を使わなくていい。
……はずだった。
ピンポーン。
鳴り慣れないインターホンが、やけに澄んだ音で鳴った。
「はい?」
ドアを開けると、そこにいたのは女の子だった。
制服っぽい、でもどこの学校とも違う服。白を基調にした、変に上品なワンピース。髪は淡い金色で、目はやけに透明感がある。
そして──背中。
ふわり、と。
白い羽が、折り畳まれた状態で存在していた。
俺は一秒、固まった。
(……いやいやいやいや)
羽。羽って。鳥じゃないんだぞ。いや鳥でもこんな綺麗じゃない。というか羽がある時点で生物学が崩壊してる。
女の子はにっこり笑って、礼儀正しく頭を下げた。
「はじめまして。お隣に越してきました、セラと申します」
声まで丁寧だ。丁寧すぎて逆に怖い。
「……ど、どうも。えっと……隣?」
「はい。今日から、あなたの隣です」
“あなたの隣”を、やけにしっかり言った気がした。
俺は喉の奥で乾いた笑いを飲み込んで、精一杯の一般人を演じる。
「引っ越し、ですか。えーっと……羽、すごいですね。コスプレ……?」
「コスプレ?」
セラは首を傾げた。羽が微かに揺れる。その動きが自然すぎて、余計に現実味が増す。
「わたしは天使です。……よろしくお願いします」
(言っちゃった)
名乗りと同じテンションで「天使です」って言っちゃった。世界観が玄関で決壊した。
「……よろしく」
俺も反射で言ってしまった。人は異常を目の前にすると、礼儀で対抗しがちだ。
セラはじっと俺の顔を見ていた。視線が、妙に真っすぐで、妙に重い。
「お兄さん」
「……はい」
「お兄さんは、ここに住んでいて──安心ですか?」
「……え?」
質問の角度が独特すぎる。引っ越し挨拶で「安心ですか?」って何だよ。治安? 防犯? いやこの世界、最近治安の話題は確かに多いけど……。
俺は曖昧に笑った。
「まあ、普通に」
「普通」
セラは小さく頷いて、にこっと笑った。
「よかった。普通の人が、中心にいるのが一番ですから」
中心。
その単語が、背筋を冷たくした。
「……中心?」
「いえ、なんでもありません。あ、これ」
セラは紙袋を差し出した。中身は──スポンジと洗剤と、なぜか塩。
「引っ越しの挨拶です。生活に必要だと聞きました」
「塩……?」
「邪気除けです」
(どこの情報だよ)
突っ込みたいのに、突っ込むと色々終わりそうで、俺は紙袋を受け取るしかなかった。
「……ありがとう」
「はい。では、また」
セラは丁寧にお辞儀して、隣の部屋へ戻っていった。
ドアが閉まった瞬間、俺は膝から崩れ落ちた。
「……終わった……」
自由な高校生活が始まる前に、隣に天使が引っ越してきた。
しかも、俺のせいで。
話は一か月前まで遡る。
中学三年の二月。受験が終わって、人生で一番「やることがない」時期。
俺は自室で寝転がりながら、スマホのニュースを眺めていた。
『能力者の暴走、各地で増加』
『能力者を社会の中心に──新団体が声明』
『能力者差別、逆差別、議論過熱』
能力。
ある日突然、世界中で発現し始めた“超常”。
女の子は高確率で発現する。しかも女の子同士だと、相手の能力を“見抜ける”種類まで出てきた。学校でも、クラスの女子の間では「私はこれ」「あの子はあれ」と、妙なランキングが作られ始めていた。
対して男は、発現率が低い。なのに、男の能力は誰にも確かめられない。女の“鑑定”が効かない。だから男の能力者は「何を持ってるか分からない」だけで怖がられ、逆に崇められもした。
そして俺は──
「……無能力者」
口に出すと、妙に落ち着く言葉だ。
学校ではずっとそう扱われてきた。能力の話題が出るたび、俺だけが輪の外になる。男子の中でも「お前、何もないんだっけ?」って笑われる。
でも、実際は違う。
俺の能力は、厄介だった。
俺を“無能力者”だと思っている人間が多いほど、俺は強くなる。
笑えるだろ。能力なのに、証明したら弱くなる。
だから俺は、無能力者を演じた。ずっと。
その代わり、誰にもバレない範囲で“できること”を試した。
ただし、制限がある。
俺が強く干渉できるのは、「生命体」に関わることだけだ。
物質を生み出す? 無理。天候を変える? 無理。火を出す? 無理。
代わりに、蚊が俺に寄りにくくなるようにする、みたいな小さな改変はできた。犬が吠えにくくなる、みたいな生物の“傾向”をちょっと変えることもできた。
そんな程度だ。
──そんな程度、のはずだった。
あの夜、俺は思いついてしまった。
「……天使、ってさ」
ニュースでは能力者が世界を割りそうだとか、国際問題秒読みだとか、怖い話ばかりが流れている。
能力者が偉い、能力者が管理するべき、能力者が中心だ。
だったら。
能力者より“上”がいたらどうなる?
「……上位存在がいれば、能力者のくだらない争いも冷めるんじゃね?」
衝動だった。現実逃避だった。中三の、受験が終わったばかりの馬鹿の思いつき。
でも俺の能力は、思いつきを“世界”に落とせてしまう。
生命体に関わるルールなら、効果が出る。むしろそこだけが得意だ。
俺はベッドの上で目を閉じて、頭の中で「ルール」を文章にした。
“人間の女の子の中に、ごく一部、翼を持つ新しい系統が発生する”
“その系統は身体能力と回復力が高く、能力への耐性も高い”
“ただし発現は女性に限定する”
女性限定にしたのは、単純に“そうした方が自然に紛れる”と思ったからだ。女の子の方が能力が出やすい世界だし、羽が生えても「女の子なら天使っぽい」という偏見もある。
最低の理由だ。
それでも俺は、眠る前にひとつだけ自分に言い聞かせた。
「……バレたら終わる。絶対、バレるな」
そして俺は、何事もなかったように寝た。
寝られたのが、今思えば一番怖い。
数日後。
世界が、天使で埋まった。
『翼のある少女、世界各地で確認』
『“天使”か、“新種族”か──専門家は慎重』
『SNSに拡散、現場騒然』
テレビのワイドショーは羽の映像を何度も流し、コメンテーターは言葉を探していた。
学校では、女子が騒いだ。
「ねえ見た!? あれヤバくない!?」
「かわいい……羽、触りたい……」
「絶対CGでしょ」
「いやガチだって! 海外でも出てる!」
男子はもっと騒いだ。
「天使って女だけなんだって」
「男は? 男はどうなんだよ」
「これで能力者の序列変わるんじゃね?」
「能力者の上位存在だろ? 俺ら詰んだ?」
俺は、いつも通り輪の外で笑っていた。
「へえー、すげえな」
無関係の一般人の顔。
心臓だけが、ずっと早かった。
(やったの、俺だ)
(俺の思いつきで)
(世界中に)
罪悪感とか、責任とか、そういうまともな感情の前に、恐怖が来た。
もし誰かが気づいたら。
もし「原因がここにいる」と思われたら。
俺の力は落ちる。
そして、落ちた瞬間に、俺はただの“無能力者”になる。
俺は無能力者を演じたいんじゃない。
演じないと、生きられないだけだ。
三月。
高校入学を機に、俺は一人暮らしを始めた。
理由は建前上いくらでもある。通学が楽とか、自立とか、親もその方が都合がいいとか。
でも本音は一つ。
逃げたかった。
天使の波が広がっている。ニュースを見ているだけで分かる。最初に出た地域に偏りがある。偶然にしては、俺の住む周辺が“起点”っぽすぎた。
だから引っ越した。
少しでも中心から離れれば、波の“匂い”は薄まると思った。
思ったんだ。
……なのに。
隣に天使が来た。
しかも「中心」とか言った。
(逃げても無駄ってことかよ)
段ボールの山の中で、俺はため息をついた。
それから数日、セラは何度も顔を出した。
「お兄さん、ご飯は食べましたか」
「食べてない」
「よくないです。天使は栄養が大事だと聞きました」
「俺、天使じゃないから」
その言い方だと、俺が天使である可能性を疑ってるみたいじゃないか。やめてくれ。
セラは距離が近い。文字通り、物理的に近い。玄関で話してるのにいつの間にか一歩詰めてくる。羽が邪魔でぶつかりそうなのに平然としてる。
しかも、たまに変なことを言う。
「この辺は、出生が多いです」
「出生? 赤ちゃん?」
「いえ。……羽です」
言ったあとで「しまった」みたいな顔をするのがまた怖い。
俺はとにかく、無能力者のフリを貫いた。
無能力者の俺に、天使が懐く理由なんてない。
ないはずだ。
週末、参考書を買いに本屋へ向かった。
高校が始まる。正直、中学の延長だと思ってたけど、一人暮らしと同時に始まると妙に“人生”感が出る。自分で弁当を用意するとか、無理だし。朝起きられる気もしないし。
「他人から見ると自由でも、当人としては不安しかねえよな……」
ぶつぶつ言いながら歩いていると、駅前の交差点で声が飛んできた。
「透!」
振り向いたら、幼馴染が手を振っていた。
朝比奈紗季。小学校の頃からの腐れ縁。高校も同じ。明るくて、世話焼きで、たまに妙に鋭い。
「本当に引っ越ししたんだ。一人暮らし、いいなあ」
紗季は俺のバッグを見て、目を輝かせた。
「他人から見るとそうだろうが、当人としては不安しかねえよ」
「えー? 自立って感じでかっこいいじゃん。ご飯とかどうしてんの?」
「コンビニ」
「終わってる」
「うるせえ」
くだらないやり取りは、いつも通りで、少しだけ心が軽くなった。
……少しだけ。
紗季は笑いながらも、俺の顔を覗き込む。
「ねえ、透。……最近、変なことない?」
「変なこと?」
「ほら、天使とかさ。ニュースすごいじゃん。近所、騒がしくない?」
言い方は軽い。冗談みたい。だけど、紗季の目は笑っていなかった。
その“仕事の目”みたいな瞬間が、ぞくっとした。
(……なんだよ今の)
俺はできる限り、無関係な顔を作る。
「騒がしいってほどじゃないだろ。ニュースが勝手に騒いでるだけで」
「そっか。……ならいいんだけど」
紗季は笑顔に戻った。戻り方が上手すぎる。
(こいつ、何か隠してる)
ずっと前から、薄々そう思ってた。紗季は時々、俺の知らない言葉を知っている。知らないはずの“距離”で情報に触れている。
でも俺は聞けなかった。
聞いたら、何かが壊れそうで。
「本屋行くんでしょ? 一緒行こうよ」
「ああ」
俺たちは並んで歩いた。春の風が冷たい。街の大型ビジョンがまた「天使」映像を流している。
紗季がそれを見上げて、小さく呟いた。
「……秩序、保てるかな」
「何?」
「んーん。なんでもない。ほら、参考書コーナー行こ」
その“なんでもない”が、一番怖い。
本屋で参考書を選び、紗季に「それは難しすぎ」とダメ出しされ、結局おすすめを買わされた。
帰り道、俺のアパートの近くまで来たところで、紗季が言った。
「じゃ、私はこの辺で。引っ越し祝い、今度持ってくね」
「おう。……ありがとな」
紗季は手を振って去っていった。
俺は一人になって、アパートの入口をくぐる。
すると、そこにいた。
セラが、当たり前のように立っていた。
まるで待ち伏せ。
「お兄さん、おかえりなさい」
「……ただいまって言うほど近所じゃないだろ」
「同じ建物です。近所です」
近所の定義が強引だ。
セラは俺の手元の袋を見て、嬉しそうに笑った。
「勉強ですか。えらいです」
「普通だよ。普通に高校生」
「普通、すてきです」
褒め方が雑だけど、妙に照れるからやめてほしい。
セラは一拍置いてから、顔を上げた。
笑顔のまま、目だけが真剣になる。
「お兄さん。お聞きしたいことがあります」
喉が鳴った。
(来る)
セラは静かに、でもはっきりと言った。
「このへんで、強い男性能力者って……ご存じですか?」
俺は反射で遮った。
「悪いけど、わからん」
言い切って、鍵を回す。
ドアを開けて、入る。
背中に視線が刺さる。
「……そうですか」
セラの声は明るいままだった。
「じゃあ、探し方を変えますね」
俺は振り向かなかった。
「“わからない人”が、いちばん中心にいることも多いって、教わりました」
鍵を閉める手が、わずかに震えた。
ドア越しに、セラが小さく笑う気配がした。
「安心してください。わたしたちは、創造主に会いたいだけですから」
創造主。
その言葉が、胸の奥を凍らせる。
(会いたいだけ、で済むわけないだろ)
俺は壁にもたれて、息を吐いた。
無能力者だと思われているほど強くなる俺は、無能力者でい続けなければならない。
なのに天使は、俺を探しに来ている。
そして幼馴染は、何かを隠している。
春の新生活は、始まったばかりなのに──もう、詰みかけていた。




