精霊の領域
――水の音が、した。
ぽたり、と。
規則正しく、
だが距離の測れない場所から。
新は、ゆっくりと目を開けた。
眩しくはない。
暗くもない。
世界は、淡い光に満ちていた。
足元は水面のように揺れているのに、
沈む感触はない。
空も、天井もない。
上も下も、
すべての輪郭が曖昧だった。
「……」
声を出そうとして、
新はやめた。
音が、吸われる気がした。
ここは地下ではない。
ダンジョンでも、街でもない。
(……精霊の領域、か)
理屈ではなく、
直感で理解した。
⸻
「……新?」
背後から、
小さな声がした。
振り返ると、
皐月が少し離れた場所に立っていた。
倒れていたはずなのに、
傷はなく、装備も乱れていない。
「大丈夫か?」
「……うん」
皐月は周囲を見回す。
「ここ……どこですか?」
「多分、精霊のいる場所だ」
「……夢、じゃないですよね」
「違う」
新は即答した。
「これは、“呼ばれた”感覚だ」
皐月は、その言葉を噛みしめるように頷いた。
⸻
水面が、静かに波打つ。
そこから、淡い光が浮かび上がった。
一つ。
二つ。
三つ。
光の玉。
大きさはまちまちで、
それぞれが違う色を帯びている。
白。
薄緑。
淡い青。
揺れるたびに、
感情のようなものが伝わってくる。
喜び。
警戒。
好奇心。
「……しゃべらないんですね」
皐月が、そっと言った。
「下級精霊は言葉を使わない」
新は答える。
「感情を伝えることでしか、意思疎通できないらしい」
「詳しいんですね!」
その言葉に、新はわずかに動きを止めた。
――なぜ、知っている?
精霊について調べた記憶は、
このゲームを幾度も周回してきたがない。
視界に一瞬、ノイズが走る。
鈍い頭痛。
(……思い出した)
以前の周回で、
偶然読んだ古い書物。
精霊について触れられていた一節。
なぜ、今まで忘れていたのか。
「前に周回した時に、読んだだけだ」
そう答えると、
皐月は「さすがです!」と無邪気に笑った。
⸻
一つの光が、
皐月の方へ近づいた。
触れるか触れないかの距離で、
静止する。
空気が、柔らかくなる。
皐月の胸元が、
微かに温かく光った。
「……怖く、ない」
皐月が呟く。
「でも……試されてる気がします」
「正しい」
新は、一歩も近づかなかった。
その姿勢を、
精霊たちは静かに見ている。
近づかない者。
奪わない者。
命令しない者。
それもまた、
一つの答えだった。
⸻
光が、再び集束する。
そして。
人の形を取った。
だが、それは人ではない。
この世のものとは思えない美しさ。
性別の区別すら意味を持たない存在。
水色の瞳が、
静かにこちらを映す。
声は、響かない。
意味だけが、直接心に落ちてくる。
『久しいな』
視線は、皐月に向けられていた。
『精霊術師』
皐月が息を呑む。
「……私、ですか?」
存在は、静かに頷く。
次に、視線が新へ移る。
『境界に立つ者』
新は、視線を逸らさなかった。
「契約を求めていない」
『知っている』
『お前は奪わぬ』
『だから、ここまで来られた』
⸻
存在は、再び皐月を見る。
『問おう』
『力を得て、何を守る』
皐月はすぐに答えなかった。
一度、新を見る。
新は、何も言わない。
導かない。
代弁しない。
皐月は深く息を吸った。
「……全部は守れません」
「でも、壊したくない」
「誰かを踏み台にする力なら、いりません」
水色の瞳が、
ゆっくりと細められる。
『よい』
⸻
水面に、文字が浮かび上がる。
【契約】
【所有ではない】
【従属ではない】
【共有】
『力を借りる覚悟はあるか』
『失うことを、拒まぬ覚悟はあるか』
皐月は、迷わなかった。
「はい」
『名を』
「青葉皐月です」
『受け取った』
『我は、精霊樹の代行者』
『名は、まだ持たぬ』
⸻
光が、皐月を包む。
根のような光が、
足元から胸元へと絡み合う。
痛みはない。
ただ、温かい。
胸の奥に、
何かが“根付く”感覚。
【契約成立】
【精霊契約:第一位階】
【ジョブ:精霊術師(正式)】
【スキル更新】
皐月は思わず胸を押さえた。
「……世界が、少し違って見えます」
「それが契約だ」
新は静かに言った。
⸻
『忘れるな』
『精霊は道具ではない』
『壊さぬ限り、見捨てぬ』
存在はそう告げ、
光へと還っていく。
精霊たちも、静かに距離を取った。
⸻
世界が白に包まれる。
重力が戻り、
冷たい床の感触。
精霊の領域は閉じた。
皐月と新は地下にいたはずが旧生活区画の入り口に 戻っていた。




