地下の住人
軋む音は、
一度だけだった。
それ以上、近づいてくる気配はない。
だが、逃げる様子もない。
「……出てこい」
新は通路の奥に向かって声をかけた。
皐月が一瞬、息を止める。
返事はすぐに来た。
「——動くな」
低く、落ち着いた声。
男の声だ。
通路の影から、
一人、姿を現す。
覚醒者用の装備じゃない。
だが、武器は持っている。
年齢は三十前後。
目つきは鋭いが、
敵意よりも警戒が勝っている。
「……誰だ?」
男は新を見て問う。
「ギルドか?」
「違う」
新は即答した。
「探索者だ」
「旧生活区画に、何の用だ」
「精霊を探している」
一瞬。
男の眉が、わずかに動いた。
「……本気か?」
「本気だ」
新は皐月を一歩、後ろに庇う。
「ここに住んでる連中に、
喧嘩を売るつもりはない」
男は数秒、新を観察した。
銃を構えない。
スキルも使わない。
代わりに、小さく息を吐いた。
「……ついてこい」
「信用していいのか?」
「信用しろとは言わん」
男は背を向ける。
「だが、ここで立ち止まると
“別の連中”に見つかる」
「別の……?」
「説明は後だ」
それだけ言って、歩き出した。
⸻
通路を曲がった先。
地下は、さらに“生活”の匂いを濃くしていた。
簡易照明。
修繕された壁。
湯気の立つ鍋。
人がいる。
十人。
男女混じり。
武器は持っているが、
誰も構えてはいない。
「……子ども?」
皐月が小さく声を漏らす。
隅で、
少年が二人、身を寄せ合っていた。
「ここは、俺たちの居住区だ」
先導していた男が言う。
「ギルドにも、
表の街にも属さない」
「じゃあ……」
「追い出された連中だ」
男は淡々と続ける。
「非覚醒者。
覚醒に失敗したやつ。
戻る場所を失ったやつ……
捨てられた奴もいる」
新は黙って聞いていた。
この空気を、知っている。
「……敵じゃないんだな」
「敵に見えるか?」
男は苦く笑った。
「生きてるだけだ」
⸻
「昨日の発砲は?」
新が聞く。
「あれは、“外周の連中”だ」
「聖火の集いか?」
男の表情が、一瞬だけ固まる。
「……名前は知ってるらしいな」
「否定しないってことは、本当なんだな」
「あいつらは地下を“使ってる”」
男は言った。
「住んでるわけじゃない。
利用してるだけだ」
「じゃあ、お前たちは?」
「邪魔にならない場所で、
息をしてるだけだ」
皐月が思わず拳を握る。
「……そんなの」
「文句があるなら、地上で言え」
男は静かに言った。
「ここは、そういう場所だ」
⸻
沈黙。
新が口を開く。
「精霊について、何か知らないか」
男はしばらく考え込み——
「……いるよ」
その声は、別の方向からだった。
少年だ。
皐月が息を呑む。
男はため息を吐いた。
「ただし、俺たちには近づかない」
「理由は?」
「人を選ぶ」
男は、皐月と少年を見る。
「精霊かは知らんが……
あいつらが言ってる“光の玉”のことなら、
純粋な子どもにしか近づかないらしい」
淡い光の玉。
少年たちのそばを、
ふわふわと漂っているのを、
大人たちは遠くから見たことがあるだけだという。
「地下の、もっと奥に行け」
男は続けた。
「そこに行けばある。
空気が違う。
行けば分かる」
⸻
「進もう」
皐月が小さく頷く。
「なら、一つ忠告だ」
男は通路の奥を指差した。
「この先で、
“声”を聞いても返事をするな」
「声……?」
「精霊じゃない」
男の声が低くなる。
「……人間だ」
「先に進むと、人の残骸みたいな奴らがいる。
目が見えてない。
話さなきゃ問題ない」
⸻
地下の奥から、
冷たい空気が流れてくる。
精霊の気配と、
人の執着が混じった匂い。
新と皐月は、視線を交わした。
二人は地下のさらに奥へと歩き出す。
「水を飲ませておくれー」
「どうか手を貸しておくれ」
弱々しい声が、靴音に絡みつく。
新は、
先ほどの男の言葉を思い出していた。
――精霊だかの場所に近づいて、
ずっとそこにいると、
麻薬みたいに都合のいい夢を見られる。
――だから、あいつらは離れられない。
――しかも不思議と、
離れられなくなるのは決まって
クズな人間なんだ。
――人殺しとか、な。
新は皐月の腕を掴み、
足早に通り過ぎた。
声には、応えない。
振り返らない。
精霊へ続く道を、
ただひたすら歩いた。
足音だけが、
地下に響く。
いつの間にか、
あの声は聞こえなくなっていた。
乞う声も、
縋る声も、
耳に残るのは自分たちの呼吸だけだ。
(……抜けたか)
新が、そう思った瞬間。
ぐにゃり、と。
視界が歪んだ。
壁が曲がる。
床が傾く。
距離感が、狂う。
「——皐月!」
咄嗟に振り返る。
「逃げろ!」
叫んだつもりだった。
だが、声が届いたかどうかは分からない。
皐月の身体が、
糸が切れたように崩れ落ちるのが見えた。
「……っ!」
手を伸ばす。
だが、指先が届く前に——
世界が、暗転した。
新もまた、
床に叩きつけられる感覚と共に、
意識を手放す。
最後に感じたのは、
冷たい空気と、
どこか懐かしい匂いだった。
精霊へ続く道は、
まだ終わっていない。
だが、
自分たちがどこに落ちたのかは——
もう、分からなかった。




