後悔
――ひと足遅かった。
朝早くだったが、何度も深呼吸してから思い切って玄関のドアを叩いた。思い切りが良すぎて、ドアはとても大きな音を立てた。
驚いた僕は、慌ててドアをそっと押さえた。しかし、いくら待っても返事はなかった。
僕は、家の周りを見渡した。前に来た時、色とりどりの花が埋め尽くしていた花壇も、庭にたくさんあった園芸用品も、綺麗に片づけられていた。朝早かったからではない。この家は、家主を失いひっそりと佇んでいるようだった。
数か月後、あるいは数年後――いつになるか分からないが、引っ越しをするつもりだと言っていた。だが、こんなに早く去るなんて。
あの時、どこの町へ行くつもりなのか聞いておけばよかった。
それに、僕がもう少し早く決心をしていれば、間に合ったのかもしれない。
誰も出てこない玄関の前で、僕は彼女に宛てた手紙を持ったまま俯くしかできなかった。
ここで待っていても彼女は現れない。
大きなため息をついて、僕は自分の町へ帰ることにした。
僕の村――『湖の向こうの村』は、ここ風見の町から草原を抜け、湖のさらに向こう側にある。
僕は、手紙を握りしめたまま、うつむいてトボトボと歩き始めた。
そろそろ夏も終わりに差しかかる季節なのに、朝からセミが大合唱をしている。太陽は顔を出したばかりなのに、ジリジリと照りつけていた。少し歩いただけで汗がにじむ。
どうして僕は、こんな暑い日を選んで来たんだろう。そんなことまで後悔となって、僕の頭の中を駆け巡っていた。
後悔の渦は、どんどん大きくなっていく。
ああしておけば、こうしておけば……。そんな考えが頭の中をグルグル回る。僕はいつもこうだ。決心が遅く、後悔ばかり。
こんなどうしようもない僕を、彼女は受け入れてくれるだろうか。
そう思ったら、途端に自信がなくなってきた。もしかしたら、彼女に会えなくて良かったのかもしれない。
気づくと町の外れまで歩いてきていた。
ここまで誰とも会わずに来られたのは幸いだと思った。きっとひどい顔をしているだろう。誰にも見られずに町から離れられそうだ。
緩やかな坂を上ると、少しだけひんやりとした心地よい風が頬を撫でていった。秋の訪れを感じさせるその風は、優しく僕の涙を拭ってくれているようだった。その優しさは僕の心にも届き、不思議と激流となっていた後悔を少しだけ緩やかにしてくれたように感じた。
ふと顔を上げると、赤いポストが目に留まった。そして、まだ手に持ったままだった手紙へ目を落とす。
「ミミへ」
と書かれた手紙。もしポストへ投函したら届くかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。もう自分で届けられないその手紙は、家に持ち帰っても捨ててしまうか、引き出しの奥にしまいこむだけだろう。
どうか彼女の元に届いて――。
僕は、そんな小さな希望を手紙に託して、汗で端が少し曲がった頼りない手紙をポストへ投函した。
◆
「ふう」
郵便局で働く魔法猫のルカは、額の汗を拭いながら今日も朝から町をぐるりと散策をしていました。
今日は残暑とはいえないほど強い日差しが、朝から降り注いでいます。
ルカは、町の中央にある広場へたどり着くと、木陰にあるベンチを見つけました。そして、郵便局へ向かう前にそこで一休みすることにしました。
木陰に入ると涼しく、少し冷たい風が吹いてきました。
長かった夏も、もうすぐ終わりです。
ベンチに座ったルカは、水筒を取り出しお茶を飲み始めました。
いつもは賑わっている広場は静まり返り、風が葉を揺らしサワサワと音を立てていました。遠くからセミの声も聞こえます。
ルカがその音たちに耳を傾けていると、誰かの足音が近づいてきました。ルカは左右に耳を向けて、音の主を探します。足音が大きくなってくると、大きなため息も聞こえてきました。
ルカが振り返ると、見知らぬウサギが肩をガックリ落として、トボトボと歩いていました。彼からは木の陰になっていてルカは見えないようです。俯いて歩いているので、気づかないのかもしれません。
こんな朝早くに、誰だろう……?
ルカは不思議に思いながら、不幸を背負い込んだような背中を静かに見送りました。
木陰があまりにも気持ちよく、ルカはなかなかその場から離れられないでいました。
そっと目を閉じて、周りの音を楽しみます。
少しずつ聞き覚えのある声が、あちこちから聞こえ始めました。パチッと目を開けると、もういつもの広場の光景が広がっていました。
「おはよう、ルカ。今日はいつもよりのんびりだね」
ルカに声をかけてくれたのは、広場のすぐそばでパン屋の『ひだまりの麦畑』を営む、ノンノおばあちゃんです。
「おはよう、ノンノおばあちゃん。今日は木陰がとっても気持ちよくて」
「今日も太陽が元気だねえ。そうだ、ルカ。今日は朝ごはん食べたかい?」
「少し食べてきたけど、おばあちゃんの顔見たらお腹減ってきたよ」
「なんだいそりゃ。ほれ、これ食べてから仕事へお行きなさいな」
ノンノは少し照れ笑いをしながら、焼き立てのひだまりパンを手渡してくれました。ルカは早速、まだ少し熱い焼き立てのパンをちぎります。すると、香ばしい匂いがルカの鼻をくすぐりました。
ルカは、大きな口を開けてパンを頬張りました。フワフワでほのかな甘みが口いっぱいに広がります。美味しいパンに舌鼓を打ちながら、水筒の冷たいお茶で喉を潤します。
とてもいい朝だ。
ルカはそう思いましたが、先ほど見たとても残念な朝を迎えていたウサギの青年が気になりました。
「ノンノおばあちゃん、この辺にウサギのお兄さんって住んでる?」
「この辺に住んでいたウサギはミミだけだったねえ。そのミミも、春に越してしまったし。どうしてだい?」
ルカは、先ほど見た光景をノンノに説明しました。
「ミミのところへ来たのかねえ。あの子は夢が叶ったと言って、誰にも詳しい引っ越し先を言わずに出て行ってしまったから。まったく、そそっかしい子だよ。でも誰かは分からないねえ」
「そっか。ありがと、ノンノおばあちゃん」
ルカは重ねてパンのお礼もノンノへ告げると、仕事場の郵便局へ向かいました。




