婚約者を一瞬で解放して差し上げた公爵令嬢ですが、なぜかその翌日から溺愛されているんですが?
──物事には順序というものがある。
けれど、私は今日、その順序を思いきりすっ飛ばしてやるつもりだった。
「アシュリー嬢、よくぞ参ってくれた」
学園卒業パーティーの中央、シャンデリアの光を浴びながら、第一王子アルベルト殿下が微笑む。
会場の視線が一斉にこちらに集まった。
(よし、ここね。乙女ゲームなら、このあと殿下が『婚約破棄する』って言うところ。でも、そんなの言わせないから)
私はドレスの裾をつまみ、完璧な淑女の笑みを浮かべて一歩前に出た。
「殿下。本日は皆さまの前で、お話したいことがございますの」
「……話?」
少しだけ怪訝そうに眉をひそめる殿下。
周りの令嬢たちは「来た!」と言わんばかりに息を呑んでいる。
(殿下、最近ずっと聖女ミリア様と一緒にいたしね。そりゃみんな、婚約破棄だと思うわよね。うんうん、大正解)
私は胸の内で頷きつつ、口元にだけ上品な笑みを貼りつける。
「殿下。これまでのご厚情、心より感謝しておりますわ。
ですが──」
深呼吸一つ。
これが私の、人生最大の賭け。
「本日をもちまして、殿下との婚約を解消させていただきとう存じます」
会場が、ざわりと揺れた。
「えっ」「今、なんて」「逆……?」
ささやきが飛び交う中、殿下の蒼い瞳だけがぽかんと見開かれている。
「……アシュリー。今のは、どういう──」
「殿下には世界を救った聖女様という、より相応しいお相手がおられますもの。私などがいつまでもお隣を歩くわけには参りませんわ。
どうか、ミリア様とお幸せに」
限界まで磨き上げた公爵令嬢スマイルで、私は一礼した。
(よし、ちゃんと言えた。これでフラグは全部折れたはず。殿下は聖女様と結婚、私は地味に生きていく。皆ハッピー。……たぶん)
「待ちなさい、アシュリー」
くるりと背を向けた瞬間、手首を掴まれた。
「っ……殿下?」
「今のは聞き違いか? 婚約を、解消したいと……本気で言っているのか?」
(うわ、近い。顔がいい。前から知ってたけど、近距離で見ると破壊力が違う……じゃなくて)
私は慌てて視線をそらし、用意してきた台詞をなめらかに口に乗せた。
「もちろんでございますわ。殿下の将来を思えば当然の結論ですもの。
……どうか、お許しくださいませ」
殿下の指が、震えた。
「許さない」
「え?」
「許すと思うか? 誰がそんなことを許すものか!」
会場がさらにざわつく。
私は内心で「予定と違う」と頭を抱えつつも、なんとか微笑を崩さないように踏ん張った。
(えっ、ここで『そうか、理解した』って爽やかに頷く流れじゃないの? 妃教育で習ってない展開なんだけど)
「詳しいお話は、また後日改めて。今宵はお祝いの席ですもの。皆さま、どうかお楽しみくださいませ」
私はそっと殿下の手をほどき、サラリとその場を離れた。
──逃げた、ともいう。
*
その翌日。
私は自室で優雅にお茶を楽しむ予定だったのだが。
「アシュリー! 話がある!」
予告もなく、部屋の扉が勢いよく開いた。
「っきゃあ!? ……殿下!? ここは淑女の部屋ですわ、ノックくらいは──」
「した。十回はした。返事がないから入った」
(聞こえませんでしたけど!? っていうか殿下、顔が怖い。イケメンが怒ると迫力がすごい)
私はそっとティーカップを置き、姿勢を正した。
「……あらためまして、本日はどのようなご用件で?」
「昨日の件だ」
殿下は私の正面の椅子に、どかっと腰を下ろす。
「婚約解消の件、取り消してもらう」
「お断りいたしますわ」
「即答!?」
(そりゃ即答しますとも。ここで迷ったらバッドエンド一直線だもの)
私は咳払いをし、用意していた説明その二を取り出す。
「殿下。私どもの婚約は、王国と公爵家の安定のために結ばれた政略でございます。
しかし今、殿下には聖女ミリア様がいらっしゃいます。国民は皆、そのお二人のご関係を祝福しておりますわ。
そんな中で私が殿下の婚約者であり続けるのは、民心を乱す火種になりかねません」
「民心? 火種? 誰がそんなことを──」
「陛下と宰相閣下から、何度も聞かされましたわ」
殿下が固まった。
「……父上と、叔父上が?」
(あ、知らなかったパターンだこれ)
私は苦笑を飲み込んだ。
「ですから、私は身を引くのが最善だと判断いたしましたの。殿下も、本当は私よりミリア様のほうが──」
「そんなわけがないだろう!」
机が、びくりと震えた。
殿下が立ち上がり、身を乗り出してくる。
「俺が好きなのは、お前だ」
心臓が、うるさい。
「……殿下。そういう冗談は、趣味がよろしくなくてよ」
「冗談なものか。いつ、どこで、お前以外に恋心を抱いたと?」
「え、ええと……最近はいつもミリア様とご一緒でしたし……」
「聖女は、世界を救った英雄だ。礼を尽くすのは当然だろう。それに──」
殿下はほんの少しだけ、視線をそらした。
「お前が、彼女のことを気にしているのを知っていたからだ」
「わ、私が?」
「『聖女様って本当にお綺麗。なんだか庇護欲をくすぐられる小動物系ですわ』とか、
『殿下、きっとああいうタイプお好きなんでしょうね。でしたら私はさっさと身を引いて──』とか、
鏡の前で一人でぶつぶつ言っていただろう。廊下で聞いた」
「っっっ!!?」
(やだああああああ過去の私のバカーーー!!)
耳まで熱くなるのが分かる。
「お前がそんなことを言うから、少し距離を置いた方がいいのかと……。
聖女との噂が立てば、お前も『そういう方向に進んでいる』と納得しやすいかと……」
「なにそれ優しさの方向を間違えた結果のすれ違いってやつですの!?」
「じゃあ、どうすればよかったんだ!」
「普通に『アシュリーが好きだ』って言えばよかったんですのよ!」
「っ、簡単に言うな……!」
殿下は耳を赤くしながら、ぎゅっと拳を握る。
「俺だって、その……お前のこととなると色々と余裕がなくなるんだ。下手なことを言って嫌われたくなくて……」
「もう十分こじれておりますけれど」
思わず冷静にツッコミを入れてしまった。
殿下がしょんぼりと肩を落とす。
「……嫌いか?」
沈黙。
(ずるい。そんな顔、反則ですわ)
私はそっと視線を落とし、膝の上で指を組んだ。
「……嫌い、ではありませんわ」
「では──」
「ですが、殿下」
私は顔を上げた。今度は逃げない。
「好きな人の幸せを願って身を引く。そう決めて、昨日あの場で宣言いたしましたの。
それを一日で撤回するなんて、私自身が許せません」
「お前の幸せは、どこへ行った」
静かな声だった。
「お前の幸せを置き去りにした『覚悟』なんて、俺は認めない。
……アシュリー。俺の幸せには、お前が必要なんだ」
ゆっくりと、殿下が私の前にひざまずく。
「公の場で言う勇気がなかった臆病者の代償として、今ここで言う。
俺と、結婚してくれ。王妃としてではなく、一人の男の妻として」
「っ……!」
(待って、そんな真剣な顔で言われたら、また計画が崩れるんですけれど!?)
胸が苦しい。嬉しくて、苦しい。
「……ですが、陛下と宰相閣下が──」
「父上と叔父上には、俺から話す。王太子の座など、要らぬと言えばいい」
「なっ、殿下、それは──!」
「俺が欲しいのは王冠ではなく、お前の隣の席だ」
さらりと言われて、言葉を失った。
(なにそれ、プロポーズの教本に載せたい台詞ランキング第一位なんですけど)
「アシュリー。お前はいつも、自分を雑に扱いすぎる。
少しくらい、自分のわがままを通してもいいんだぞ」
「……わがまま、ですの?」
「ああ。『王子様に求婚されましたが、世界より自分の恋を取りました』くらい言っても、誰も責めはしない」
「責めますわよ! 歴史書に悪口書かれますわ!」
「じゃあ、その悪口の欄には俺の名前も並べてもらおう。『恋に狂った元王太子アルベルト』とな」
「やめてくださいませそんな二つ名!」
思わず笑いがこぼれた。
ああ、もう。
どうして、この人はいつもこうやって、私の心の防壁を軽々と飛び越えてくるのだろう。
「……殿下」
「アルと呼んでくれ」
「まだ夫にもなっておりませんのに」
「なる。今すぐにでも婚姻届を書いてくる」
「早すぎますわ!」
笑い合いながらも、胸の奥の迷いはまだ完全には消えていない。
(本当にいいの……? 私が彼を選べば、聖女様は? 王国は?)
そんな私の逡巡を見透かしたように、殿下──アルが柔らかな声で告げた。
「聖女には、聖女の幸せがある。彼女自身が選ぶ道だ。
俺たちは、俺たちの幸せを選べばいい」
「……自分の幸せ、ですのね」
「ああ。だからもう一度だけ、順番をやり直させてくれ」
アルはそっと私の手を取る。
「昨日は、一方的に『解消しない』と言ってしまった。
今日は、きちんとお前の意思を聞きたい」
蒼い瞳が、まっすぐに私を映す。
「アシュリー。俺の妻になってくれないか」
──物事には順序というものがある。
昨日、私はそれをすっ飛ばして、自分の中だけで完結させようとした。
けれど今、目の前の人はわざわざ膝をついて、ちゃんと順序を整えようとしてくれている。
(そんなの、反則ですわよ)
私は、そっと微笑んだ。
「……一つだけ、条件がございますわ」
「なんでも言え」
「たまには、私のほうが殿下を守って差し上げます。
そのときに、『俺の方が強い』なんて野暮なこと、絶対に言わないでくださいませ」
アルが目を瞬いたあと、ふっと笑う。
「約束しよう。俺の騎士様」
「き、騎士様って……!」
「お前にとって俺が王子様であるように、俺にとってお前は騎士様なんだ」
心臓がまた忙しくなる。
「……もう。そういう甘いことをおっしゃるから、嫌いになれませんのよ」
「それは朗報だな。で、答えは?」
差し出された手のぬくもりが、やけに現実的で。
私は、その手をしっかりと握り返した。
「……よろしくお願いいたしますわ。アル様」
会話率が高いだの、噂になるだの、そんなことはきっとこれからも言われ続けるのだろう。
それでも。
世界より、誰かの幸せより。
まずは自分と、目の前の人の幸せを選び取ったこの瞬間だけは。
誰がなんと言おうと、私の人生でいちばん誇らしい選択だった。
*
数日後。
「ねえ聞いた? 卒業パーティーで公爵令嬢が婚約破棄を宣言して、翌日に元王太子殿下がひざまずいて再プロポーズしたって話!」
「しかも殿下、自分から王太子の座を返上しようとしたらしいわよ。恋は人を変えるのねえ……」
「いいわねえ、ああいう情熱的なの、一度でいいから味わってみたいわ」
廊下の陰からそんな声が聞こえてきて、私は思わずこめかみを押さえた。
(……会話率まで噂になっておりますわ。なんですの、『愛のセリフで一晩中議事録が埋まった』って)
「アシュリー。顔が真っ赤だぞ?」
「アル様のせいですわ。あのときの言葉、もう少し控えめになさる選択肢もあったでしょうに」
「控えめにしていたら、今のお前はここにいないだろう?」
「……それは、否定できませんけれど」
隣で笑う人の横顔を見上げながら、私は小さく息を吐いた。
(まあいいですわ。どうせなら、世界一騒がしくて幸せな噂話の中心でいてあげます)
そう心の中で肩をすくめて、私はそっとアルの腕に自分の腕を絡めた。
「行きましょう、アル様。これから先、長い長い人生が待っておりますもの」
「ああ。俺たちの物語は、まだ序章だ」
──婚約者を一瞬で解放したはずの公爵令嬢のその後は。
こうして、誰かの噂話の中で、いつまでも甘く語られ続けるらしい。




