出会い
初めて書きました。よろしくお願いします。
ギャンブルが大嫌いだ。
楽して金を稼ごうとする考えが嫌いだし、外して喚き散らす小汚い爺も大嫌いだ。
だから、俺は父親が大嫌いだった。
長年続けていた仕事を予兆もなくいきなり辞め、手に職を付けず、妻の稼ぎをそっくりそのままギャンブルに注ぎ込むような人だった。週末は家族と遊びに行くでもなくどこかに消え、帰ってきたと思ったら有り金を全部スっている。所謂ギャンブル依存症のどうしようもない人だった。
父親が自分を連れて出かけたのは、一回きりだった。
母親は休日出勤で、流石の父でも小学二年生を家に一人きりにするのはマズいと思ったのか、五秒に一回溜息をつきながら、俺の手が痺れるほど強く引っ張り、俺は子供は到底追いつけないようなスピードでズカズカ歩く父親に引き摺り回されるようにして連れ回された。キャリーケースの様な俺は、転んで持ち主の怒号を喰らわぬ様、小走りになりながら、必死にその跡をついていった。そうこうして電車に乗り二十分、船橋法典駅で降車した。中山競馬場の最寄駅だ。
なぜ父の様な種族の溜まり場に無理やり引っ張り込まれなければいけないのか、心は地に堕ちていた。
「馬券買ってくるからここで動くな。」
一人化け物の巣に取り残された。
早く出たい。緊張で口から出かかった心臓は、強面の職員の声掛けで完全に放出された。
「僕、一人?近くに親御さんいる?」
知らない場所で知らない人に話しかけられる恐怖は、小学二年生を無謀な逃走に走らせるには十分な動機だった。
「あっ、待ちなさい!」
男を尻目に、小さな腕を懸命に振り、必死に走った。
腕と脚の順番が分からなくなり、肩で息をしながら地面に四つん這いになったところで、周りの人間が父の様な汚れた壮年ではなく、スーツに身を包んだ畏まった大人ばかりになっていることに気が付く。
周りの怪訝そうな目線を受け、緊張と羞恥心で燃え上がりそうになり、今すぐこの場から逃げようとした時、自分に視線を向ける大人の中に、見知った顔がいるのに気がついた。
「あれっ、田畑んとこの実君だよね!久しぶり!一回会ったことあるよね?おじさん覚えてる?」
その人は、一度父の仕事の同僚ということで父が家に連れてきた人だった。突然のことにショックを受け、呆然としていた俺に、男は質問に回答する時間を与えることなく言葉を投げてくる。
「田畑は最近どうなんだ?仕事辞めてから会ってないんだよ!今日は来てるのか?どこにいるんだ?顔ぐらい見せたいなあ!」
見知った顔があることで、凍りついていた俺の口が徐々に動き出した。
「あ、あ、あのっ、おとお父さんはし、下にいますっ」
「下ぁ?なんでまたそんなとこで見てんだよ。辞めたといってもまだ関係者だろ。上で見りゃいいのにな。
実君、今日はね、お父さんが昔所属してた厩舎の馬が走るんだ!あっ、って言っても分かんないか、まあ、お父さんのチームの馬が走るんだよ!」
何が何だか分からず、頭の中に沸いた疑問を言葉にしようとした時、男が興奮気味に叫んだ!
「あっおい!始まるぞ!」
男は自分を背中に乗せ、スタンドに走り出した。
気づかなかったが、自分はスタンド四階、障害物なくコースを見渡せる、関係者席にまで走ってきた様だった。
壮観な景色に見惚れていると、聞き覚えのあるファンファーレが流れ始めた。
音楽隊の発射するトランペットの高らかな音、沸き立つ歓声、それを飲み込むグリーンのターフ。
これから何が起こるのか。子供心は興奮を映した。
「お父さんの馬はな、あの七番だ!青い帽子の!ロングタイプって馬だ!」
男が指差す先には、黄色と黒の縦縞模様に赤い袖の勝負服の黒鹿毛の馬がいた。先程のファンファーレを合図に、十八頭のサラブレッドが続々とゲートに入って行く。
全馬のゲートインが終わると、抑揚の無い無機質な実況者の声が競馬場に響いた。
「さあ皐月賞G I、体勢完了、、、ゲートが開いて、スタートが切られました」
ガコン、と重苦しい音が鳴り、ゲートが開くと共に、大歓声が沸く。ほぼほぼ揃ったスタート。選ばれし駿馬十八頭が沸騰するスタンドに風をもたらす。
悠々と駆ける馬の迫力に見惚れ、気づけば目で追っていた。
「さあ十八頭これから二コーナーに向かっていきます。
先手を取ったのは内田博幸コパノリスキー、一馬身半のリードを取っています。そしてエベレストオーが二番手。早くも縦長の展開。」
「ロングタイプ中段か、いいぞ、折り合えてる」
男がそういうので、自分も青帽の七番を目で追う。
ロングタイプは軽快なフットワークで馬群の真ん中あたりを軽々走っている。風に靡く黒い立髪が、まるでマントの様だった。
スタンドが再度沸く。ターフビジョンは、最初の1000メートルのタイムを58秒0と映しており、超ハイペースな競馬であることを示していた。
「58秒!?タイム早いな。後ろじゃ間に合わないぞ。」
男の言葉で何やら普通では無い状況なのが汲み取れた。
「さあ三、四コーナー中間地点にこれからかかる。やや早いペースになっている。
この流れを作っているのはコパノリスキー、内田博幸。まだ一馬身のリードがある。そして十三番のエブリーデイ。その後ろにキングレガーロ。」
ここで三度スタンドから歓声が上がった。
「ロング動いた!」
男が叫んだ。
中段内側で控えていたロングタイプが、いつのまにか外に持ち出し、外目を突いて上がってきていた。
十八頭が直線を向くと同時に、観客のボルテージが最高潮になる。
「四コーナーから最後の直線に入った!コパのリスキー!外からエピファニーと、ロングタイプ!エピファニーとロングタイプ!」
橙帽と青帽の二頭が上がってくる。熾烈なデッドヒート。二頭の間には赤い火花が散っていた。逃げたコパノリスキーが後退していくのを尻目に、二頭が一心不乱にゴールを目指す。
エピファニーに懸命に鞭を入れ、全身全霊で追ってくる。
が、しかし、あと少しのところでロングタイプが抜かさない。王者の覇道を守るロングタイプに、鬼気迫るものを感じた。
「ロングタイプ!ロングタイプ!エピファニー二番手!ロングタイプ!ロングタイプだあ!」
ロングタイプが先頭でゴール板を通過した。
「まさに王者!ロゴタイプ!王者の証明!」
大歓声がロングタイプを包む。ロングタイプの王者の走りは、見たもの全てに衝撃を与えた。
それは、興奮気味の大きく開いた目で優勝馬を見つめる自分も例外では無く、心の奥底に深い深い爪痕を残した。
興奮冷めやらぬまま、俺は男に手を引かれながら、饒舌に言葉を放った。
「すごい、すごい!すっごく速かった!かっこよかった!お父さんはあんな馬のお世話をしてたの!知らなかった!」
先程の態度が嘘の様に、目を輝かせて喋る俺の姿を見て、男は俺に微笑みかけた。
「馬、好きか?」
「うん!」
俺は満面の笑みとセットで返答した。
化け物の巣窟だった競馬場は、煌びやかに光るステージに見えた。
夜になり、ライトアップされたスタンドを眺めていると、焦った表情で辺りをキョロキョロ見回す父を見つけた。急激に体温が下がった。湧き上がった気持ちは沈み、咄嗟に手を引いていた男の後ろに隠れた。
その仕草を見た男も父に気付き、
「あっ!おーい!ケンジ!息子さんここだぞ!」
声に気づいた父がキュッ、と形相を変え、こちらに大股で歩いてくる。その姿が恐ろしくて、さらに縮こまる。その姿に男は首を傾げながら、
「おい、息子さん四階にいたぜ。お前下で見たんだろ。一緒に上で見りゃいいのにな。勿体ねぇ、自分の厩舎のG I勝利を特等席で見れないなんて、、、」
男の言葉を父が大声で断ち切る。
「俺はもう関係者じゃねぇ!あんなとこで見られるか!それより実!動くなって言ったよな!なんでそんな簡単な事ができねぇんだ!周りに迷惑をかけるんだ!」
父の怒号で泣き出しそうになってしまう。
「おいおい。言いすぎだろ。一人にしたお前も悪いじゃねえか。泣かせんのは違うぜ。それに、息子さん言ってたぜ。お父さんすごいって。あんな馬をお世話してたんだって。そんなお前に怒られたら気が引けるだろ。」
「うるせえ!」
男は乱暴に吐くと、俺の手をひったくった。
「あ、おい!そんな乱暴にすんなよ!どうしたんだよ!昔はそんなんじゃなかったじゃねぇか!」
「昔の話はするんじゃねえ」
父は踵を返して帰ろうとする。
「おい、待てって!なあ、トレセンには戻らないのか?みんなお前を待ってるんだよ。お前以上に馬の扱いが上手い奴なんてそうそういないし、あの事故もお前のせいじゃ無い!俺が色々手伝ってやるから、、、」
「うるせえ!」
父は続けた。
「俺はもう、馬に関わっていた人間じゃねぇんだよ」
父はいつもの乱暴さを感じさせない声量で呟く。
「俺みたいな“人殺し“はな」
父は俺の手を引いて歩き出す。見上げた父の顔は、いつもとは少し違う、切なげな顔に見えた。
その日は、俺にとって、二重の衝撃の日だった。
続きます。