⑤
「そろそろ起きないか、ラグナー」
聞き覚えのある声に呼ばれて、夢現のラグナーはまばたきをした。波の音や海鳥の声が遠くに響いていて、どうやら海の近くにいるらしい。何気なく起き上がって、何だか焦ったような表情は予想よりずっと間近にあった。
「急に起き上がって良いとは言っていない! 気をつけるように」
「……すみません」
あの、不思議な洞窟の底にいた不思議なネヴィンという女性が目の前にいた。咄嗟に謝罪したが、しかし今のは随分と理不尽な叱責ではないかと思っている横で、彼女が口を開く。
「死にかけていたのを覚えているか? とりあえず助けてやったが、端的に言うと調整に不備があり、海が見える場所では崖から落ちても傷の一つもつかない身体になった」
「え? そこまでして頂かなくても……」
「首が半分千切れた状態で逃げ込んできて、私に人間は平均でどの程度生きるかとか、耐えられる衝撃の程度を考慮しろと?」
「いえ、そうではなくて……」
この時はまだ、入り江に桟橋を造っていなかった。波打ち際でネヴィンに対し、人間で言えば膝枕の体勢だったらしく、ラグナーは大いに狼狽えながら慌てて距離を取った。そもそも相手が、特に何の不自由もなく海の上に出て来られる事実に驚く。
久しぶりに顔を合わせた彼女は咳ばらいを一しきり繰り返した後、苦々しい表情を浮かべている。
「『慈しんで育て上げ、喜んで差し出した愛しい我が子』。……まあ、人間には理解が難しいかもしれないが。魔術に用いるとしたら至高の部類にはなる。普通は手に入らないのも大きいが」
ラグナーは父の前に現れた女の魔術師に囚われそうになったのを、子供の頃に彼女がくれた白い貝殻が身代わりになってくれたらしい。そしてネヴィンのいる場所まで逃げ込む時間を作ってくれたのだと説明された。
魔術に関係するの話はよくわからなかったが、父の部下達がラグナーを探していると教えてもらって、ようやく経緯を思い出した。父は弟の生命を救うために、魔術師と取引をしたのである。
経緯が明らかになると、今まで自分に与えられてきたものは一体何だったと捉えるべきなのか、ラグナーにはわからなくなってしまう。家族も、立場や愛情に報いようと努力して来た自分の決意も、根本から揺らいでしまった。無言のままラグナーは砂浜に座り込んでいると、一度距離を取ったはずのネヴィンがそっと近づいて、手を伸ばして、髪に優しく触れた。
「お姉さん、お気遣いは嬉しいですけれど、僕はもうそんなに子供じゃないんですよ」
「自分は子供でなく大人だと言うのなら、とにかく一度戻って無事な姿を見せてあげるように。……どんな立派な人でも付け入られる事も、間違えてしまう事もある。もう大人なら、支える事もできるはずだ。悪い事をしたのなら、子供なら全て白状して謝罪すれば済むかもしれないが、大人は責任を取らなくてはいけない。それはわかるな?」
私も娘だから少しはわかる、とネヴィンはラグナーが落ち着くまで、ゆっくりと言葉を選びながら話をしてくれた。
「僕は多分、今まで言われていたような血筋ではないのですけれど」
「欺いていた事を後ろめたく感じるのなら、期待されていた役割を全うするのも償いの一つではないか? 身の振り方はお城に戻って家族と決めればいい。その上で出て行く決断を選ぶなら、居場所の紹介くらいはしてやる。弟の身体が心配なら、手を貸すのはやぶさかではない」
罰として鞭打ちや石をぶつけられたとしても、今のラグナーに大した効果がない、と彼女は言う。痛いのが怖いわけではない、と返事をする元気が、ネヴィンと話しているうちに少しずつ戻って来た。
それを見届けるように、困ったらいつでも呼ぶように言い置いて、彼女は海へ帰った。去り際に首元を隠してから、と付け加える。一人で残されたラグナーはしばらくぼんやりしていた後、夜が明けて辺りが明るくなった頃に、ようやく立ち上がった。
「……せっかく姉様も入れて四人もいるんですから、何か新しい事を始めてみたいんです」
「なんだか暗いので手始めに飾りつけをしてみました。深海でも美しく輝く珊瑚を見て下さい」
「子守歌はいかがでしょう。せめて麗しい歌声で見送っては?」
ネヴィンがいつも一人でいる、海の王の庭の入り口にある洞窟は、普段の静けさとは程遠い有様である。モリーとは別の妹が三人、突然押しかけて来たためだ。理由を訊ねると、父からネヴィンについて仕事を習うように言い含められたのだと言う。
一番上の姉のように尊敬される存在、とやらになりたいらしいが、実際は忌避され恐れられているだけだと諭しても一向に聞き入れなかった。ゆっくりと漂う無数の光と洞窟の岩壁をしばらく見学した後、思い思いの提案を始めた。
「……」
ネヴィンは妹達の、仕事に熱心に取り組む意気込みは一応評価した。しかし父から示された方針と重要性についても、噛んで含めるように一から説明しなければならなかった。追い出すわけにもいかず、かしましい妹達への指導で疲労困憊である。
ネヴィンは少し休憩してくるから一人にして欲しいと申し出た。すると三人で意味深な目配せを交し、何故か瞳を輝かせている。
「姉様、せっかくどこかの殿方とお会いになるのでしたら邪魔は致しません」
「手土産はいかがいたします? 安心して下さい、父様に言いつけたりはしません。私は口が堅いんです。だから後で、どんなだったか教えてくださいね」
「あまり気取らずとも、殿方の前では素直に甘えてみせるのも……」
「今日は一人で考え事をするだけだ」
ネヴィンは絶対逢引きに違いないと勘繰る妹達を振り切って、海の上までやって来た。洞窟が賑やかなのは、まるでラグナーが子供の頃にたびたび遊びに来ていた時のようだ、と物思いに耽る。入り江の桟橋に腰かけて、ぼんやりと夜空に輝く月を眺める。今宵は満月のようで、穏やかな海原の波を照らしていた。それを眺めるのは、自分でも気に入っていた。
空の随分と低い場所を大きな雲が通り過ぎて、時折辺りは暗くなる。けれど雲が形を変えながら過ぎ去ると、月の明かりは以前より煌々と海を照らしているように感じられた。
しばらく風に当たっていると、いつもと同じ気配が近づくのを感じた。この入り江にやって来るのは、ネヴィンを除けば一人だけだ。
「静かな夜ですね。なんだか今日は、ネヴィン様に会えるような気がしたのです」
こんばんは、と現れたラグナーは首の傷跡が薄くなったので少しは季節に合わせた格好かと思えば、目に見える変化は少ない。洒落た幅広の襟締でいつものように首回りを礼儀正しく整えてある。指摘すると少し照れくさそうに笑う彼は、年齢より少し幼く見えた。
「実はこの格好、かっこいいと思って気に入っているんです。せっかく治して下さったのに恐縮ですが、しばらくはこのままで。落ち着かないのもありますけれど」
「なら好きにすればいい」
ネヴィン様は何か用事があってここにいるかを尋ねられたので、ネヴィンは妹達が仕事の手伝いをしてくれるようになった経緯を説明した。突拍子もない提案を次々と出して来るので手に負えないとため息をついたが、ラグナーは失礼、と咳ばらいをしている。
「ネヴィン様も大変ですね」
「今のは笑い話ではない」
失礼、と咳ばらいを繰り返すラグナーを横目に、ネヴィンは彼がいつものように用意した、煌々と燃えるたき火を眺める。たまたま家族の話が出たので何の気なしに、珍しく自分から話を振った。
「ラグナーの家族達は変わりないか」
「ええ、ネヴィン様のおかげで恙なく。カイルは元気で、両親も齢は取りましたが、まだまだ長生きするのだと張り切っています」
そうか、とそれだけ確認して、後は黙っている事にした。打ち寄せては引いていく波の音が、何度も繰り返された。入り江を、昼間とは打って変わった涼しい風が吹き抜けて行く。
ラグナーも彼の家族達も、あの時に無事で良かった。それはネヴィンの被っている不都合よりもずっと価値がある、と自分の中の鬱陶しい恋わずらいに言って聞かせてやった。だからもう少し、静かにしていて欲しいところである。
「……ところでネヴィン様、最近お城を訪問してくれた方がいて、お手紙を預かっています。これは人間の封蝋という道具で……」
ラグナーの話し方は、いつもの調子とは少し違う。無理して喋っているような気配がした。それを怪訝に思って彼に視線を送ると、露骨に目を逸らす。
「……言いたい事があるなら早く」
「ネヴィン様の妹のモリーさんが、わざわざ訪ねて来て下さったんです。元船乗りの旦那さんのお話と、それからネヴィン様が僕のために行使した特別な祝福についての見解も一緒に」
妹が自分を通さず勝手にラグナーに接触した意図がわからないが、嫌な予感はした。彼が綺麗な外し方があると止めるのも聞かず、手荒に開封する。人間の言語は知らないが、妹からの文書は魔術で使われる言語だったので、読み進めるのは容易である。
『姉様が人間の彼にかけた魔術は失敗していない。海が見える場所で傷一つ付かないのがその証拠。だから姉様が苦しい原因は別だと推測可能』
中に書かれていたのはそれだけだった。ネヴィンの横ではラグナーが、モリーから聞き出したらしい話をずっと喋っている。妹が好いた相手、命知らずの船乗りの覚悟を確かめるために、ありったけの武器を持ち出して追い回した記憶と相違ない内容だった。
「つまりネヴィン様は結局、その方は妹君に相応しいと判じたんですよね?」
「……まあ、見込みがありそうだと思ったのは確かだが」
海の王の娘として手合わせし、絶望的な力量差を味わった相手は、こちらの想像より冷静だった。妹と居合わせた部下の助命をし、けれど自分に関しては情けは無用であるときっぱり宣言した。
ネヴィンはその潔さに満足したので、最終的には妹のために二人の結婚を応援したのである。
懐かしく思っていると、海を眺めていたラグナーは身体の向きを変えた。ネヴィン様、とラグナーは改まった良い方をする。
「僕はまだ、小さくて弱い子供ですか」
「……何が言いたい」
唐突な話題の切り替えに、ネヴィンは胸の辺りを押さえながら低い声を出した。しかしラグナーは質問の答えを要求したまま譲らない。
「……最近は、そうでもないと感じる事も増えた。それは確かだが」
しばらくにらみ合った後で、ネヴィンは渋々口を開いた。その理由は、彼の肩書のおかげばかりでもないと思う。ラグナーは元々の素質もあり、またそれに見合うような大人になるべく、あの一件があった後も自分を磨く事を欠かさなかった。その返答に、ラグナーは少し安堵したような誇らしいような表情を一瞬だけ浮かべている。
「……妹君の推測は、『恋わずらいの原因は、将来の伴侶のためにある魔術を突発的に行使し、本来恋人同士で踏むべき段階をまだ済ませていない』だそうです。もっと早く打ち明けて下さればよかったのに」
ネヴィンは思わず凍り付く。気まずそうに目を伏せているラグナーははっきりと恋わずらい、と口にした。目の前の相手にひた隠しにしていた秘密を、妹は既に売ったらしい。
「……そんな事は気にしなくていい。そんな事をさせるために助けたわけでもない」
「責任を取るのが大人だと、教えてくれたのはネヴィン様ですよ。……それに、僕があなたに恐怖や、弟の生命を握られているせいで従っているように見えますか?」
ネヴィンの強い口調を前にしても、ラグナーは譲らない。人間より遥かに強い者達が、まるで死の番人のように恐怖する存在に対し、それができる者は少ない。けれど最初から、何も知らない幼い子供だった頃から、目の前の相手だけは常にそうだった。
「僕はあなたに慰められて、それを心の支えにしていたような寂しい子供でした。けれど今はネヴィン様のおかげで、家族を守り、全うするべき使命もある一人の大人です」
彼がネヴィンの秘密を知り、そして逆らう選択肢はないのだと悟った時、どんな表情を浮かべるのか。それがずっと恐ろしくてたまらなかったのに、今の彼がネヴィンを見下ろす眼差しは、想像とは違っていた。
「寂しい心を埋めるのに必要な事がわかりますか? 僕は知っていますよ、ネヴィン様が一度、そうしてくれましたから」
ラグナーはネヴィンの傍らに静かに跪いた。そうして宝物でも触るようにこちらの手を取った。咄嗟に逃げそうになったけれど、ラグナーの真っすぐな目は許さなかった。強く掴まれているわけでもなのに、ネヴィンにはできなかった。
「……ラグナー」
「恋わずらいを治す方法、海の王の娘で真面目に仕事ばかりのあなたにわからないだけで、僕は知っています。素直に正直に、相手に甘えるだけですよ、ネヴィン様」
ラグナーは合図のように片目を閉じてみせて、浮かべる笑みは大人びている。けれど彼がまだ幼かった頃、気まぐれに髪を撫でてやった時に浮かべていたような嬉しそうな表情の面影も、確かにあった。
「ネヴィン様が僕を『守り、敬意を払い、祝福を与える』のであれば。僕はあなたをお慕いし、敬愛し、いつまでもそして共にあると誓う者です」
「ラグナー」
「なんでしょう」
ネヴィンは彼の名前を口にした。どこかで海鳥が鳴いているのが聞こえる。空が白み始めていた。こんな時間まで海の上にいる事は滅多にない。たまにはこのまま、太陽の光を拝んでから帰るのも悪くないかもしれない。
「ラグナーは素直になったらわかると言ったが、やはりよくわからなかった。症状に改善は見られない。動悸はずっと早いままで、手も熱いまま」
ただ、ネヴィンの中でラグナーが一挙一動する度に大騒ぎだった恋わずらいだけは、嘘のように静まりかえっている。しかしあの厄介な存在なので消滅したわけではなく、単に一通り満足したのでしばらく寝ているだけの可能性も大いにある。
「……ずっと手を繋いで肩を寄せ合ったまま、こうして夜明けを迎えそうなのに? だったら別の事を試すべきだと早く提案して下されば良かったのに」
ラグナーの声は、意地の悪い調子を含んでいるように聞こえる。けれど反論のしようがないので、ネヴィンは大人しく手を取り合ってくっついたままでいた。
そっと表情を盗み見ると聞こえる声とは違い、ラグナーはまるで愛おしい者に対して向けるような眼差しを、静かにこちらへと向けていた。