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ラグナーが孤児院で暮らす子供だった頃、何度か奇妙な場所に迷い込んでしまった事がある。一番最初は熱を出し、一晩中うなされていた夜だった。ところが気がつくと見た事のない洞窟の底に横たわっていた。

 まるで天上に広がる星空を、見上げるのではなく同じ高さから眺めているような、この世のものとは思えない光景が広がっていた。あそこに入り込むのに何かコツがあったのだが、大人になったらすっかり忘れてしまった。


 洞窟に静かに佇む、憂いを帯びた眼差しの美しい女性には足の代わりに、魚のような尾ひれが悠々とくっついている。彼女の黒く長い髪がふわりと浮いては静かに揺れるので、それで水の中らしいと理解した。彼女はラグナーに一度視線を寄越しただけで、後は何かに没頭しているようだった。


 拾い上げた何かに向かって短く語り掛け、相槌を打つように頷きながら、時には汚れを取り除くように指先で払う。するとやがて他の光のように輝きを取り戻し、ふわりと浮かんで、ゆっくりとあたりを漂うように流れ始めた。



 ラグナーはその不思議な女性に向かって勇気を出して、一体何をしているのと訊ねた。そうしてネヴィンという名前を教えてもらった後、少しずつ話すようになった。身寄りのない子供達が固まって暮らしていると、自分だけの話を聞いてもらえる機会は希少である。大抵は他の子が割り込んで来るか、煩わしいと遮って追い払われてしまう。ラグナーはここぞとばかり、思いつく限り話をした。

 

「ごめんなさい、僕ばっかり喋って」

「……いや、私は話が下手だから、もっと話してもいい。どうやら子供の声を、他愛のない話を最期に聞きたがる者もいるらしい。その気持ちは、……わからないでもない」

「このきれいな光は、生き物なのですか?」

「……かつて、生きていた者達だ。生前にひどい目に遭い、失意のうちに亡くなる者もいる。その記憶を取り除き、幸せな夢を見せて静かな眠りへと導くために、私がいる」


 おやすみなさい、と彼女が無数の光に向かって掛ける声は、ラグナーが今まで聞いた誰よりも優しかった。



 それがある時に、もうここへは来ないようにとネヴィンが言った。きっといい加減、ラグナーが鬱陶しくなったのだと理解して落ち込むのをできるだけ隠し、せめてお別れはきっちりしなければと顔を上げた。すると彼女は困ったように、ラグナーの頭をこわごわと撫でたところである。


「今まで甘えて、引き止めてしまって悪かった。けれど本来ここへ来るのは、命を全うした後でなくてはいけない。だから、その時にまた必ず会える」


 その時は楽しい話を、と彼女はラグナーを優しく送り出した。去り際に一つ、小さな白い貝殻を握らせてくれた。







現在、大人になったラグナーは海辺に屋敷を建てている最中である。父に申し入れ、王宮の一画を間借りしていた。暑いので朝から浴室へ行き、水をたっぷりと張った中に身体を沈めた。冷たさをしばらく楽しんだ後、水滴を拭きながら鏡を覗く。 


 ラグナーのちょうど首の付け根あたりには、見るに堪えないような傷跡がずっと残っていた。痛みは全くないのだけれど、ネヴィン曰く命を奪うほどの強力な魔術によって生じたせいなのか、自分でも一瞬、言葉を失うほどである。周囲に気を遣って、いくら暑くても首回りだけは常に必ず完全に隠れるような衣装を選んでいた。


 何年たっても変化はなかったのが、ネヴィンの随伴として不思議な集まりに参加したあの夜から、目に見えて痣は消えつつあった。特に痛みがなかったのであまり気にしていなかったが、優しい主人は考えが違ったらしい。


「……伴侶は目にするだろう。その度に悲しそうな顔をさせる気か。年若い娘であれば、身体の小さな傷ですら大騒ぎだと言うのに」


伴侶は目にする事になる、と彼女は平然とした口ぶりで喋った。ラグナーは異性の目の前で装束を脱ぐという何だか特別な場面を想像して、内心ではしきりに狼狽えてしまった。そんな自分に、ネヴィンは残念ながら気がつかなかったらしい。


 ネヴィンが、ただの人間には決して手の届かない存在であるのは、初めて会った時からわかりきっている事である。海の王の娘という肩書や役割から、異種族の中でもかなり強大な存在であるのは推測できる。それでも、ラグナーは往生際が悪かった。たまに自分の話が面白ければ笑ってくれる程度に話は通じるからこそ、余計にである。




 




 その日一日分の仕事が終わると、ラグナーは自分の弟分の元へ赴いた。弟のカイルは一国の跡継ぎとしての公務もある上、自分もそれなりに忙しい。けれど必ず月に何度かは、二人きりで話をする機会を設けていた。職務の話に終始する事もあれば、私的な話に興じる夜もある。


 少しずつ年老いて来た両親から、弟をくれぐれもどうかと託されている。運ばれて来た夕食で腹を満たす頃には、兄弟同士の気安い話へと移っていた。弟にはまだお酒は早いと果物の絞り汁を飲ませながら、先日ネヴィンと出かけた話を持ち出した。


「へええ、海の底でお酒を寝かせるのですか。それで美味しくなるなんて、どういう仕組みなのでしょうね?」


 ネヴィンが取り込み中の間に、何も知らなかったラグナーは海の底で寝かせて熟成させた美味しいお酒を手に入れたのである。仕組みはさっぱりわからなかったが、何となく口当たりは確かにやわらかいように感じた。

 

「ネヴィン様はお元気でしたか。一度お会いして、いつものまじないのお礼を直接伝えたいところです」

「ああ、恙なく。先日も収集を依頼された品を渡して、少し外出にお付き合いしたところだ」


 どんな物を探したのかを尋ねられたので、『早朝の湖で手に入れた浅瀬の丸くて黒い石』と『村一番のお針子が母親から譲り受けた、一番最初の刺繍針』を挙げた。前者は休みの日に一時間ほどかけて捜索して発見できた。


 苦戦したのは後者である。探し出した村一番のお針子の老婆に協力を仰いだ結果、物置を一からひっくり返す羽目になってしまった。ラグナーは見事見つけ出した者には金貨を出す約束をしたので、最後の方はほとんど村人総出の捜索である。

 しかし結局は記憶違いで、既に孫娘に譲られていたのであった。これでしょう、と自室から持って来てくれた孫娘には金貨を、協力してくれた者達全員に食事と酒を振る舞った。その経緯を、弟に見てぶり手ぶりを交えながら面白おかしく話してやった。

 あちらもラグナーをもてなしてくれて、たき火を囲んで子供達が寝静まった後も夜通し歌って踊った、なかなか楽しい時間となった。



「……魔術というのは本当に不思議ですね」

「ああ、色々とネヴィン様も教示して下さるのだが、残念だがさっぱりわからない」


 魔術の世界においては、賢者であれば爪の垢でも希少で取引されるらしいと教えてやると、弟は顔を顰めている。その後も色々と喋ってから、そろそろ休む時間だろうかと話の切り上げ時を探ると、カイルは負担ばかり掛けて申し訳ないです、と言い出した。


 カイルのための薬やまじないを、ネヴィンに提供してもらう。代わりにラグナーは自分の仕事の傍ら、彼女の指示で準備に駆け回る生活を送っている。

 魔術を求めて異種族と取引する際に、時は生命すら代償として取り立られる話は弟も知っている。だから不安に思う気持ちは、ラグナーにも理解できた。


「平気さ、だってネヴィン様はお優しいからね。何の対価も受け取ってくれないでは申し訳ないから、自分から進んでそうしているだけだよ」


 下僕は主人を打ち倒す気概を持てと言っていたが、それも本心ではなくて照れ隠しか何かだろう。彼女が素直でない部分は、下僕であるラグナーが配慮するべきである。


 心配するなとラグナーは弟の頭を撫でようとして、もう子供じゃないと一しきり怒られてしまった。もし今度ネヴィンから頼まれた品物の調達が安全かつ簡単そうで面白そうなら一緒に行く約束で機嫌を直してもらって、その夜は解散となった。







 カイルが生まれた時、既に心臓の動きは弱々しく、数日保つかどうかも危ぶまれる状況だった。なかなか跡継ぎを授からなかった小さな国の行く末が危ぶまれる中、国王の耳にそっと囁く者があった。


 街の孤児院にいる特別な子供を引き取って、実子と同等の立場と愛情を与えて育て上げるように。そうすれば実子も無事に成長し、素晴らしい為政者として名を馳せる事になるだろう。

 美しい女の魔術師は予言めいた言葉を残して姿を消し、追い詰められた国王はその言葉に縋った。

 周囲には過去に夭折した王族の血を引く子供を、秘密裏にずっと捜索していたのだと説明し、証拠まで慎重に偽造された。数日の命だとされた国王の実子は魔術師の言葉通り、侍医の見立てとは裏腹にすくすくと育ち、後には引けなくなった。


 そうして意図がわからないまま連れて来られたラグナーは、遊び相手兼兄代わりとして王宮で育てられた。急に実は王族の身分と告げられて大いに戸惑ったが、それまでいた孤児院はラグナーの身柄と引き換えに大金を受け取っており、嫌だとは言えなかった。

 ある日突然、間違いだったと元の場所に戻されるかもしれない。けれどせめてその日が来るまでは、とできる限り研鑽に努めた。今まで辛い思いをさせただろうと、特に国王は優しくて、本当の父として慕って育った。ただ、幼い日に海の王の娘が、わざわざ手ずから授けてくれた小さな貝殻だけはこっそり、首から下げて失くさないようにしていた。



 国王の本当の子供が十歳、ラグナーは推定で十五歳になる頃に、美しい女の魔術師が再び姿を現した。父の今までの行いを一しきり称賛した後、ラグナーの身柄を要求した。

 詳細を知らない者達が顔を見合わせる中、ラグナーにすっかり情を移ってしまった父は食い下がった。約束を忘れたわけではない。けれどせめてたまに顔を見せるくらいはどうかと願い出ると、女はせせら笑った。

 そいつは魔術の贄にしてしまうから、生きて会えるのはこれで最後である。そこまで言うなら実子か、それとも妻子を遺して自ら身代わりになるならば、と提案した。凍り付いた父に、答えは最初から決まっているじゃないかと話を切り上げた。


「これまでご苦労であった。()()()殿()。後は本物の家族で寄り添って、幸せに暮らすといい」


 我に返って庇おうとした父の手は間に合わず、ラグナーは影の中に引きずり込まれて何も見えなくなった。首の辺りに強い衝撃が走って、何かが砕け散るような音を聞きながら、意識はそこで途切れてしまった。



 次に目を覚ますと、何故か目の前にネヴィンがいた。無言でこちらを見下ろしている。場所は子供の頃に何度か入り込んだ、あの美しい洞窟の中であるらしい。

 次に会う時の約束を思い出して、ラグナーはようやく経緯を理解した。彼女に話し掛けようとしたが、声は出ない。痛みはないが、起き上がる事もできないまま横たわっているらしい事に気がつくと、彼女はようやく口を開いた。


「我が名はネヴィン、海の王の第一子である。この者を守り、敬意を払い、祝福を与える」


 耳に届くのは、子供の頃に何度も聞いた、そして王宮で暮らすようになってからも忘れなかったあの優しい声である。ネヴィンは長い髪を煩わしそうに耳にかけて後ろに流し、まるで抱き締めるかのようにこちらに腕を伸ばした。そうして、ラグナーの首元に唇を寄せた。


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