③
「ネヴィン様、僕は今、どこにいるのかを見失いかけているのですが」
「本来ならば人間は足を踏み入れる事のない道だろうから、無理もないな」
ラグナーは薄気味悪そうな視線を周囲に向けつつ、それでも健気に、先を行くネヴィンを追いかけて来る。ネヴィンは暗闇でも支障はないが、ランタンを手に顔をしかめている彼には、濃い霧が周囲に立ち込めているように見えているらしい。
腰に提げている剣を、いつでも抜き放てるように指先で触っているのが見えた。潮の匂いはするのですが、と案外鋭く指摘するので、その通りだと教えてやった。何かあった時の事を考えれば、海の王の娘であるネヴィンも、その影響下にあるラグナーにとっても都合が良い。
引き返しても構わない、とネヴィンは足を止めて後ろを振り返る。するとラグナーは拗ねたような表情を浮かべつつ、急ぎ足で隣に並んだ。
「心配ご無用ですからね、ネヴィン様。どこへ行こうとも、僕がちゃんとお守りしますから」
ラグナーはいたって真面目な顔つきである。偉大なる海の王の娘を、まるでか弱い存在かのように守らなければ、と主張するのは世界中でラグナーしかいないだろう、とネヴィンは思う。恥ずかしいような頼もしいような、少し嬉しいような気持ちもあって、とにかくひどく複雑な気分である。
「……下僕としての気概が足りない。胸の内では主人をいつか打ち倒さんと企む野心溢れる心根が必要なのだ。よく覚えておくように」
「一般的な下僕には、いかなる命令も順守する従順さが求められているのでは?」
物騒ですよ、とラグナーは顔を顰めている。ネヴィンは恋わずらいを制御しようと試行錯誤した結果、真逆の言葉をとりあえず口に出しておく嫌な癖がついてしまった。するとまるで思春期の素直さに欠けた少年少女のような言動になり、自分自身にうんざりしている。
おまけに今も恋わずらいが、もしも彼が本気で受け取って見捨てられるような事になったら、とかつてのネヴィンの妹に似た悲観的な嘆きを大袈裟に繰り返している。さっさと治さなければ、とネヴィンは心に強く誓うのだった。
そんなやり取りをしているうちに、目的地に辿り着いていた。外観は尖塔をいくつも有する、石造りの古めかしい古城。中で行われている事をわかりやすく説明すれば、人間の金持ちが主催する社交場だ。情報交換、顔合わせに取引など、目的は多岐にわたる。
「ラグナー、人間の貨幣での取引に応じない奴は相手にするな。今の手持ち以上の支払いもやめておくように。髪の毛一本、爪の一かけらで構わないと提案されても絶対に渡すな」
「わかりました」
ラグナーはネヴィンの前に現れる時、いつも余所行きの格好をしている。連れて来るつもりはなかったが、決して場違いな服装ではない。暑い季節にはややそぐわないきっちりとした襟締だが、彼の人間の中における身分や振る舞いには合っていた。
彼は古びた外観から一転、足を踏み入れれば明るく洒落た、見慣れた雰囲気の内装に、物珍しそうな視線を送っている。美味しそうなお酒があるといいな、とのんきに呟いているのが聞こえた。
「ちなみにネヴィン様、今晩の目的は?」
「どうしても会いたい者がいる。なかなか時間が取れなくてな」
「……そうですか」
ここに呼ばれる者の大半は、人間にとっての異種族である。角の生えた者、見上げる程の巨体を誇る者もいれば、逆に人間の手のひらほどの大きさのものまで、思い思いに集まっては歓談したり、盤の周囲に集まって賭け事に興じ、お酒を注文している。
ネヴィンは目的を果たすために、会場の中心からは離れた場所にゆっくりと移動した。
「ネヴィン様も、こういった場所に顔をお出しになるのですね」
「今日会う相手は特別だ。普段は別に誘われない」
ネヴィンは素っ気なく言った。このお人好しな下僕は、自分の主人が周囲からどう思われているかなんて想像もつかないのだ。だから剣を提げて守らなくては、などと的外れな発言をする。
特別な相手、という言葉に引っかかりを覚えているらしい顔のラグナーを遮るように、ネヴィンへと声を掛ける者があった。
「姉様!」
嬉しそうに声の主は妹の一人、モリーである。母に似たネヴィンとは対照的に、父譲りの輝く金の髪と華やかな美貌を持つ。海の王の娘としてかつては他の弟妹と同じく海で暮らしていたが、時折浅瀬まで行く悪癖があった。そのうちに人間と交流を持ち、なんとその中の一人と恋仲にまで発展した。
三日三晩の大喧嘩の末、父は一歩も譲らない妹の主張をついに認めた。今は陸で暮らしていて、妹の伴侶もラグナーに近い祝福を授けられている。海が見えている場所では、刃物を突き立てられても傷一つ付かないはずだ。
「姉様ったら、どうして仕事ばかりしているの。もっと会いたいのに。陸の暮らしは楽しいけれど、少しも会ってくれないのが寂しい。やっぱり私が家族より、あの人を選んだから本当は怒っているの?」
「……奴は息災か? 海で噂を聞かなくなったが」
「ぴんぴんしてる。姉様にも会いたがっていたけど、今日は置いてきちゃった。最近は出世して、船を降ろされたの。海が恋しくて毎日泣いてい……あら」
家族の前だからか子供の時のような口ぶりだった妹は、姉に連れがいるのにようやく気がついたらしい。親し気にラグナーに声を掛けたが、彼は邪魔をする気はないとばかりの殊勝な視線だけを残し、何も言わずこちらに丁寧に一礼して去って行った。
先ほどまで何か言いたげだったのに、と不思議に思っていると妹が意味ありげな目でこちらを見た。
「……あの人間はきっと身分のある両親から大切にされて、最上級の暮らしと教育を享受したのでしょう。魔術の道具にするのなら、きっと大勢が欲しがるでしょうね」
「冗談はいいから、それより成果を教えてくれ。こんな暮らしはもううんざりなんだ」
妹は興味津々な眼差しで、ラグナーの後ろ姿を一通り検分した。彼が他の招待客に紛れてしまうと、今度はネヴィンの心臓の辺りを指で差し示す。
「私もできる限り調べた上で言っているの。父様にも詳細は伏せて助言を仰いだのよ。私達、海の血を引く娘の特別な祝福は生涯に一度、そして一人きりよ。もう取り消せません」
したり顔の妹に、ネヴィンの中の恋わずらいが騒々しく同調するので、思わず苦い表情を浮かべてしまう。
「あの人間が大人になる前に何とかするつもりだったみたいだけど、今のうちに方針転換して実は好きなのって打ち明けて、一緒になってしまえばいいじゃない。そうすれば少しは治まるんじゃないかしら、恋わずらい」
「本心から懸想しているわけではない。魔術が上手く発動しなかった、ただそれだけだ。それで一緒になってくれなんて言えるか」
「姉様、意外と純粋なのね」
妹が続けて何か言いかけた時、会場がにわかに騒々しくなった。集まりにはよくある事だと無視を決め込んだが、収束の気配がないので、仕方なく目を向ける。するとどうやら大きくなったのではなく、その正体はこちらを目指して近づいて来ていたらしい。
「……よくもおめおめと」
背の高い女がはっきりとこちらを認めて、しわがれた老婆のように呟いた。短く憎悪に満ちた声は、苦しそうに咳き込んでいる。
相手はかつて、美しく腕の良い魔術の使い手として有名だった。本来はあまり強い存在ではなかったが、人間と取引をして代償を取り立て、少しずつ力を得た部類に入る。
しかし今は杖を頼った変わり果てた姿であり、激しく打ち付け抉られたような痛々しい赤黒い傷が、顔や身体の見えている部分を隙間なく覆っている。誰もが一瞬、言葉を失う有様であった。魔術の行使が失敗に終わった場合、種類によっては彼女のように、代償を自分の身体で支払わなければならない。
相手の目的、つまり魔術を妨害してこのような姿にしたのはネヴィンである。顔を顰めている妹を庇うようにして、ゆっくりと前に立った。
「それで? 言い分くらいは聞いてやるが」
彼女の願いは、死と老いの克服だった。海の王の子供達の特別な魔術に目をつけて、弟の一人にしつこく付きまとっているのを追い払った事もある。けれど諦めていなかったらしく、結局は自分の得意分野に立ち返った。
生後間もなく死にかけている赤子の父親に取引を持ち掛け、詳しい目的は伏せたまま契約を結ばせる事に成功したのである。別の子供を用意して、実子と遜色ない愛情をかけて育て上げる事ができた場合に限って扱える、特別な魔術があると囁いた。
ネヴィンが邪魔をしなければ、全て上手く行ったに違いない。失敗した魔術が彼女の身体を容赦なく焼き、既に身体の半分以上は消えかかっている。
私が手に入れるはずだった。横取りだ、許せない。あの子供はどこにやった、自分と同じ苦しみを味わえばいい。
一通りの恨み言を黙って聞き入れてから、ネヴィンも口を開いた。海の一番奥底にいる時にしか使わない特別な声を、相手に淡々と聞かせた。
「……あれから随分と経つが、今まで大変な思いをして来ただろう。他に痛むのは?」
ネヴィンは優しく尋ねた。他に心残りがあるかと続けたが、相手は下手に言いたい事の大半を吐き出してしまったがために、口を噤んだ。ネヴィンへの恨み言だけでここまで何とか持ち応えていたにも拘らず、顔を合わせて恨み言をぶつけてしまった。辛うじて生命を繋ぎ止めていた意思に、綻びが生じている。容赦なく、弱った繋ぎ目を引き裂きにかかった。
「……では気が済んだのなら、もういきなさい」
ネヴィンが彼女に向かって手をかざした。その指の先で彼女の姿は薄れて行き、腕で煙を振り払うようにすると、完全に見えなくなった。導いた先の海の中で、もうすぐ眠りにつくたくさんの小さな光の一つになって、静かに過ごす事だろう。
「……姉様ったら優しいのね。私ならそんなに簡単には済ませないのに」
妹の声に返事をしようと振り向くと、会場はいつの間にか静まり返っていた。怯えや恐怖に染まったいくつもの眼差しが、こちらに集中している。楽しい社交の場に、死を呼ぶとされる不吉な娘が居合わせていた事に、ようやく気がついたらしい。
ネヴィンは海の王の娘として、ただ安らかな眠りにつく前に寄り添っているだけに過ぎない。けれど今のやり取りを傍から見れば直接死に追いやったようにしか見えないので、反応としては間違っていなかった。
この場を主宰したモリーの血縁でもあるので悪くは言えないのか、一様に口を噤んで凍り付いている。まるで、死そのものが間近に迫っているのを感じているかのような表情だった。慣れてはいるが、居心地の良いものではない。
「……ネヴィン様?」
けれどその時、聞き慣れた声が名前を呼んだ。遠巻きにしている者を無理矢理押し退け駆け寄って来た者が、ただ一人だけいた。
「何かしたんですか」
「今、ここに残っている者達には何も」
先ほど、ネヴィンが妹を背に庇ったのと全く同じ事を、ラグナーがそのまま繰り返した。剣を慣れた手つきで、いつでも抜き放てるように手を添える。
「平気ですよ、僕が指一本、触れさせやしませんから」
「……そうか」
あまりにも真剣な声だったので、ネヴィンも流石に短く言葉を返すのが精一杯である。一度ゆっくり息を吐いて落ち着かせてから、妹の名前を口にした。
「今日はもう帰る。邪魔したな。埋め合わせは別でする。顔に泥を塗ってしまって悪かった」
「いいよ、妹だもの」
モリーは鷹揚に、客が多すぎて困っていたので良い機会だと言う。また近いうちにゆっくり、と以前より大人びた笑みで、ネヴィン達を見送った。
「……どうして取り込み中に呼びつけなかったのですか。あなたに何かあったのに、お土産のお酒を選んでいただなんて。ネヴィン様は下僕下僕と言う割に、使い方をわかっていらっしゃらない。主人の危機に居合わせないなんて自分が恥ずかしい」
ゆっくりと並んで歩きながら、ラグナーはまだ憤慨している。往路よりぴったりと張り付いているのは、本人だけが心配する襲撃に備えているつもりに違いない。残念ながらそこまで度胸のある者はいないのだが、何も言わない事にした。
「……自分が役に立てなかったと思うのなら、わかっていないな」
いつの間にこんなに大きく、頼もしい大人になったのだろう。ネヴィンは初めて会った頃の、小さな子供を思い出す。ラグナーはこちらの、彼の勇気を称賛し、気遣いに感謝した発言の意図が読めなかったらしい。怪訝な表情を浮かべている。
ネヴィンは一旦足を止め手を伸ばし、ラグナーがいつも身につけている襟締めにそっと触れた。
「今日は急な用事で悪かった。褒美として受け取っておいてくれ」
装飾の上からとは言え、急に伸ばされた指先に驚いた様子と目が合ったが、魔術に集中する。触れていたのはほんの数秒でも、上手く行った手応えはあったので、終わったとだけ伝えて再び歩き出した。
「今のは何ですか」
「さっき、モリーが質の良い品物を提供してくれてな。あと一月もすれば、いつも隠すしかなかった跡は消える。こんな季節なのに、暑くて難儀していただろうと思っていたから」
彼は珍しく、黙ったままでネヴィンについてきた。昔の事でも思い出しているのか、物憂げな表情を浮かべているので、たまにはこちらが気を遣うべきだろうと思案してみる。
「ラグナー、私の話を覚えているか? どんなに立派な人格者でも、付け入られやすい心の隙はあるのだと」
「……嫉妬、出世欲、劣等感、あとは親子の愛情に、恋心でしたか」
ラグナーが装飾品で隠し、家族にすら見せない首周りには、かつて魔術によって生命が奪われかけた傷跡が、ずっと生々しく残っていた。
ネヴィンと言えど、海の王の子供達が持つ特別な祝福以外では助けられなかったほど、長く時間が周到な準備が費やされていた。




