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人間は魔術を扱えない。そのため人間以外の種族に対価を差し出して、助力を求める話は古来より耳にする。当たり前だが代償として金品どころか暮らしやすい豊かな土地を丸ごと献上させられたり、生命そのものを要求されたりする。
そうして囚われてしまえば、ネヴィンのいる海の王の庭で眠りつく事はできなくなってしまう。消えて消滅するまで魔術の道具として酷使させられるのは、とても割に合う話ではない。それにも拘らず、この手の話が無くなる事はなかった。
海にいるネヴィンは生きている彼らの多くを直接は知らないけれど、陸にある森の奥や鉱山の底、火山帯や草原は様々な姿形の、人間が異種族と呼称する者達が支配している。
大抵は魔術を扱うほか、人間より数段頑強で長寿という特徴を備えている。そんな存在でも、死への恐怖は克服できないでいるらしい。
ネヴィンが顔を合わせるのは肉体が滅びた後に、彼らが海の奥へ辿り着いた時に限られる。この後はどうなるのだろうと不安そうに尋ねられるので、後は眠りにつくだけだと諭してやる程度の関係である。
さて、ラグナーには可愛い弟分がおり、一国の跡継ぎである。ところが生まれつき身体が弱いので、彼の要請でネヴィンが手を貸していた。魔術による薬の調合やまじないをいくつか組み合わせてやって、弟は普通の人間と同じくらいの生活を送っている。
代わりに兄貴分であるラグナーがネヴィンの下僕として何でもする、というので魔術の行使に必要な道具を集めさせていた。この分野は本来、手間と時間と材料を吟味しなければならず、いくらネヴィンでも陸の上を動き回るのは都合が悪いのであった。
もちろん、ラグナーには今後必要な支援を提供する代わりに、ネヴィン以外の者と安易な取引はしないよう、固く約束させてあった。彼はネヴィンとの取引を両親や周囲に上手に説明したようで、不都合が生じた事はない。
たき火の明かりの範囲は月の光と違い、炎のゆらぎと共に暗闇との境界が曖昧に移り変わる。海で暮らす身では縁がない火という道具だが、眺めている分には美しいと思った。ラグナーはネヴィンを気遣って、気晴らしに海の中には存在しない品物を見せてくれているつもりらしい。
それから彼は陸の上の話、特に身の回りで起きている出来事を中心に話をしてくれた。口だけではなく手も動かしていて、集めて来た小枝を並べてランタンから火を移し、そこに串刺しにした大ぶりの魚をくべた。脂が乗った上等品らしく、身が焼ける音と匂いが、ネヴィンの座っている場所まで美味しそうに漂って来ている。
「……今度その、砂漠の国の高貴な方が、楽団と踊り子をたくさん連れて来るんですって。あちらは外にいる時は布を幾重にも纏うのに、宮殿の中では男女問わず薄着ですからね。足も肩もお臍も、こちらでは目のやり場に困るので配慮して下さるそうですよ」
席を空けておくのでこっそり観に来ませんか、と彼は言う。陸の上の珍しい踊りや文化に触れる機会だと訳知り顔をされると、内心を見透かされているようで面白くない。
興味がない、とネヴィンは素っ気ない声で返事をした。ラグナーの身の安全が揺るぎかねないような相手ならともかく、古くから交易で良好な関係を築いているのならば、自分の出る幕はない。小国ながら賢王と名高い、彼の父親に任せておけば良い話である。
必要以上にラグナーの、陸の上での暮らしに干渉してはいけない。これだけはいくら恋わずらいがうるさくとも、ネヴィンが守るべき線引きだと考えている。国の高官達が集う場所に人間ではない者を紛れ込ませるのは、どう考えても骨が折れる仕事であるに違いない。
そうでなくともネヴィンはラグナーの、家族でも友人でもないのだ。そんな存在に弟の命運を握られているのである。恋わずらいがうるさいので実際は頼まれればネヴィンは何でもしてしまうだろう。しかし何も知らないラグナーはこちらの機嫌を損ねないよう、神経を尖らせているに違いない。今以上の負担を強いるような真似はしたくなかった。
残念、とこちらの葛藤を知らないラグナーは串に刺したまま魚を食べている。合間に街で見つけたんですよ、と貝殻を模したらしいガラスの器で、ちびちびと舐めるようにお酒を口にしている。父親にお酒の飲み方を教わったそうで、将来は弟に教えるために勉強中なのだとのんきに喋っている。
「……それから、大人になったので立派な別荘を海辺に建ててもらうんです、海が好きだから。好きなだけ朝焼けを眺めながら優雅に食事を摂って、それから仕事に行くんですよ」
彼はうっとりしたような眼差しでこちらを、ではなくその後ろの海を眺めているのだろう。心臓に悪い動きの多い男である。ラグナーの食事が終わった頃合いを見計らい、ネヴィンはいつもの取引を切り出した。
「……この木栓をガラス瓶の蓋に使いなさい。中身は果物の絞り汁だけだ。後は飲ませればいい」
「他の飲み物では駄目なんですね。間違えないよう、気を付けます」
ネヴィンが魔術を付与したのは、見た目はただの木栓に過ぎない。しかし受け取った彼は神妙な顔つきで頷く。ネヴィンは彼の弟の命を守るための品を一つずつ取り出して、使い方を丁寧に説明した。
ラグナーを通して彼の弟の手に渡る魔術の道具は大抵、人間の生活に紛れ込んでも違和感がないようにしているつもりである。
「……ではネヴィン様、これが約束の品です。集めるのは大変でしたよ。不思議な注文ばかりつけるのですから。『早朝の湖で手に入れた浅瀬の丸くて黒い石』と『村一番のお針子が母親から譲り受けた、一番最初の刺繍針』です」
「人間がその品々の繊細さを理解できないうちは、魔術は扱えないだろうな」
魔術の行使に必要な品物は、綺麗で希少で大切にされて来た経歴でなければならない。生き物やその身体の一部であれば、年齢を重ねて尊敬され洗練された、高貴な人物の方が好ましい。
ネヴィンはふかふかのクッションに座ったまま布の袋を受け取って、魔術を扱うための特別な言葉を紡ぐ。彼が集めて来た物の品質に、特に問題はないようだった。
「賢者であれば爪の垢ですら価値がある。よく覚えておくように」
爪の垢ですか、と顔を顰めているラグナーは放っておいて、淡々と魔術の詠唱を重ねた。彼は興味津々でネヴィンの様子を眺めているので、集中する目的も兼ねて目を閉じた。
「魔術と言えば、ある昔の船乗りが人魚のお姫様と恋をしたお話が有名ですね。お姫様を伴侶とした後、普通の人間ではありえない強靭で一向に衰えない身体と、一生かかっても使い切れぬ程の幸運を手に入れたとか。これも何かのおまじないなのですか?」
こちらに対抗でもする気なのかおしゃべりなラグナーをよそに、ネヴィンはその場にゆっくり立ち上がった。
魔術の成果として、桟橋に降り立ったのは月の光を浴びて白く輝く、魚のひれからするりと変わった人間の白い両足である。
ラグナーがすかさず立ち上がって、慌てたように足元屈んで靴を揃えて並べた。赤くて可愛い、人間用の一揃いである。絹の靴下を穿かされると、ネヴィンの見た目は、彼に対する胸の内と同じように、人間の小娘と変わりない。
「あのですね、ネヴィン様。この国で人間の女性は、足を人前に晒したりしませんから。急に披露されると落ち着かないんですよ」
今から何をするのか先に言って下さい、といつもニコニコしているラグナーが決まりの悪そうな表情を浮かべている。今日持ってこさせるように人間の靴を言いつけて置いたのだから、予想くらいはしておくべきだろう。ネヴィンは少しだけ、してやったりと思う。
「さ、人間のお子様はお城へおかえり。調達をご苦労。私は出かける用事がある」
ではまたな、とネヴィンは二本の足と、赤い靴の履き心地を確かめた。お出かけに誘えばいいじゃない、と自分の中の恋わずらいが鬱陶しくさえずったため、珍しい顔が見れたという余裕は途端に消え失せた。
「……どこへ行くつもりか知りませんが、あなたともあろう方が伴の一人も連れずに出かけるだなんて。荷物を自分で運んでいるのを見られたら、お友達に笑われてしまいますよ」
僕はこれでも王族なんですよ、と彼は含みのある笑みを浮かべた。自称荷物持ちは殊勝な態度と表情とで隣にやって来る。ネヴィンは無言だったが、恋わずらいの方はそんな表情も素敵、と非常に鬱陶しく呟いた。




