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紫煙の夜

作者: 朔雪 令月

 ――ある夜中のことだ。

 それは、ひどく静かな夜だった。


 いつもは虫の音やら家が風にきしむ音が、何故か今夜ばかりは感じられなかった。


 どうやら、体が訴える空腹感によって夢の世界から呼び起こされたようだ。

 こんな夜中に物を食べるのが体に悪いことはよく知っている。このまま十分ばかり瞼を閉じていれば、きっと次は朝日が私を迎えるはずだ。それが一番いい。


 しかし、そうと分かっているからといって体が「はい分かった」と返事をして眠らせてくれるわけではない。むしろ寝ようとしていることを知ってか、腹の音まで抗議に混じってくる。


 これではとても眠れたものではない。体を起こし、手探りで電球の紐を探る。


 下に引くと、心地よい手応えから一拍遅れて蛍光灯が光る。

 蛍光灯が油蝉のように部屋で鳴いている。


 足元の雑誌や座布団を避けながら冷蔵庫の戸を開くと、中は殆ど素寒貧だった。その分冷気を貯めこんでいたのか、ここぞとばかりに足を冷やしにかかる。

 普段は心地よい冷気も、まるで虫が足元を這い上がるような感覚に慌てて戸を閉める。


 何だか薄気味悪い夜だ。


 生温い風が家の隙間を駆け抜けて、冷気をどこかへ連れ去る。

 風に吹かれてなお未練がましく居座る埃を見てふと、引き出しの奥にしまい込んだままのカップ麺の存在を思い出す。この家に引っ越してきた時に買ったが食べる機会が訪れず、半ば非常食である。


 夜盗のように中身を引っ張りだして漁ること程なく、目当ての物を見つける。やや細身の容器の上には床と同じように埃が乗っている。包装のビニールと一緒に包んで捨て、鍋に水を入れる。


 小さい手持ち鍋に並々と入った水には自分の顔が写る。


 顔が歪んで見えるのは水面の波のせいだけでは無い。

 これを食べてしまえば、当面は食うものにも困る生活が待っているのだ。


 やはり、これは食べずに寝てしまおうかと悩むが、ここまで用意しておいて何もしないのも腹のすわりが悪い。

 溜息一つ、コンロに鍋を置いた。


 ツマミを捻って火をおこそうとするが、舌打ちの音を立てるばかりで鍋を温める様子は無い。

 ライターで火を近づけてやると、ようやく本来の使命を思い出したかのように青い炎をちらつかせる。


 湯が沸くまでの一時、懐から煙草を取り出し、指で蓋を軽く二回叩く。

 誰かに呼ばれたとでも思ったか、中身が一本首を覗かせる。

 摘まんで端に火を点け、口に運ぶ。


 一息と共に口から零れた煙が蛍光灯に煙り、薄暗い影を躍らせる。


 ホッと人心地つき、心の漣を溶かしていく。

 波がざわつく月夜の夜。月の涙が海に落ち、波紋が伝わる。

 水波は端まで伝わり、波を消し去る。

 穏やかで凪いだ水面は霧に覆われている。

 正しくそれが今の彼の心境だ。


 煙に包まれて心が見えなくなるころには湯が沸いていた。

 カップ麺に湯を注ぎ、余った分を湯呑みに茶葉と一緒に放り込む。


 口に煙草を咥えたまま両手でそれぞれを机に置き、吸い殻が積もった灰皿を手繰り寄せて火を押し付ける。先がひしゃげ、煙が消える。


 後で後でと捨てるのを躊躇ううちに、いつの間にか吸い殻が積もってしまう。

 山から目を背け、蓋を完全に開く。


 湯気の向こう側にはまだ出来切らない麺が狭苦しく泳いでいたが、構わずに割り箸を突っ込んでかき混ぜる。

 そのまま口に運ぶと、予想に違わず硬い食感が伝わる。


 柔らかいのは嫌いだ。前に延びた物を食べたことがあるのだが、グニャグニャとはっきりしない感覚とは気が合わなかった。

 麺が器から無くなり、口内の油分が気になったころに茶を飲む。捨て値で買った安い値段相応の緑茶だが、安物にもすっかり慣れた貧乏舌には丁度良い苦みだ。


 容器を捨ててコップを水につける。洗い物はまだ後で良い。


 副流煙はまだ明かりの元で揺蕩っている。


食べ物が体に入ったからか、少し体が温まってきた。暑さもこんな夜中は眠っているだろうと窓を開け放つ。


 夜中の風は初夏とはいえ、まだ快適だ。海が近いので潮風がべったりと体にまとわりつくのはご愛嬌というものだ。


 外を見て呆けている時は、不思議と昔が近づいているような気がする。

 田舎の実家生活も決して嫌いでは無かったが、どうにも広い土地とは逆で心は狭苦しかった。

 狭苦しいビル群の中、窮屈な六畳の主になってみると、不思議と部屋よりも心は広く感じる。

 窓辺から外を見ても、いつか見ていた田園風景と星空は無い。映るのは薄汚れたタイル地のビルと空を塗りつぶす街灯だ。


 朝になればまた仕事だ。楽ではない作業を考えると早めに寝てしまうのが得策だろうか。


 窓を締め切って電気を消し、硬い布団に横になる。


 街灯に照らされた部屋にはまだ燻らせた紫煙が漂っている。

 煙は居座りながらも隙間風に攫われ、少しずつ薄くなる。

 霧が晴れた時に彼が気付くまでそう遠くないように見えた。

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