「ここ絶対、異世界だ」
「冷たっ!?」
思わずそう叫んでしまうほどには、タイルはとてもひんやりとしていた。若干湿ってもいて、街育ちの俺にはちょっぴり気持ちが悪い。空を見上げれば透き通るように青く、時間は明らかに昼と分かるものの、周りが建物で囲まれているからだろう、日の恩恵が届いていない。体調を崩さぬよう腹をさすって温めつつ、立ち上がる。そして、薄暗くて見えづらいが、辺りに並び立っている、非コンクリート製のそれらを見回した俺は、言った。
「どこだここ?」
まったく見知らぬ場所だった。染められているわけではなく、最初から黄色いっぽい石壁を見て、余計にそう実感する。心の芯からか細くなって、来た道を戻らんとばかりに急いで地面を踏み鳴らしてみたものの、これっぽっちも反応はない。徹夜ゲーム敢行後、授業中に爆睡する我が親友のように、どれだけつついても起きてくれない、何も。
「なんだよぅこれ、どうなってるんだよぅ」
シクシクと泣きべそをかいて、情けなく三角座りする以外に、出来ることは何もない。どういうこと、どういうこと、どういうこと? と、グルグル頭の中で考え続ける。しかし、分かるはずもない。ただの素人高校生である俺に、ロクな状況分析能力は備わっていないのだ……いや待てよ。いきなりだけれど、頭にピンとくるものはある。
もしかして、あの頭のおかしな魔法少女関連のアクシデントか?
うーん、と首を傾げる。あの少女に、今更になって俺と関わるメリットはほぼないだろう。というか、向こうは絶対に俺のことなんざ覚えていない。少なくとも彼女の妖精さんは、そう保証してくれた。顔を覚えられていては、正直たまったものではない。頼む、絶対忘れていてくれよ?
しかし、とはいえ、彼女の存在は、魔法という非科学的なものの実在を示していることは間違いない。またこの魔法は、あの少女固有の特別な力でないことは、彼女に敵対する魔物がいたからという理由によって、俺でも確信出来る(追われているところを助けてもらった、それで恩を着せられて、執拗に金と人権を要求されたのだった)。とすると、あれだ、魔法少女とは独立した、神隠し的な魔法災害に見舞われて、別の場所にワープしてしまったのではないかと、足りない頭で推測を働かせる。
間違っている可能性はあるが、俺を襲った謎の事象の正体に一先ず当たりを付けられたことで、心の不安が多少取り除かれた。あくまで「多少」だ。まあ当たってるに賭けるとして、俺は何をすればいいのだろう? 迷子を母国に返してくれそうな、親切な人を探すしかないのか? 時間旅行をしたのでなければ、日本とは標準時刻も違いそうだし、ここが外国だという蓋然性は厳としてある(「蓋然性」という言葉使うの、自分で言うのもなんだけれどすごくオタクくさいな)。せめて英語圏ならいいのだが……最悪、日本人旅行者が来るまで張り込み続けて、国際空港まで案内してもらうか。あるいは、日本大使館で保護してもらうのもありだろうか。
ここが、祖国と国交がない国ではありませんように。国交があっても、旅好きな日本人でさえまったく足を伸ばさないほどの、治安の悪い場所ではありませんようにと、普段は一切祈らない神へと、精一杯にお祈りしまくる。神頼みに追いやられるくらいには、俺は苦しめられていた。当然だ、平和な日本でのんべんだらりと、不規則なようで規則正しいルーティーンを送っていた人間が、いきなり見知らぬ場所に連れて来られて、平常心を保てるわけがない。ガクブルと動揺する体と魂があって、精神だけ無事だなんてこと、あるはずがないのだ。さてさて、行動指針を立てたのであれば、動かないなんてのは怠惰である、よしっ切り替えていこう! と出来るのであれば、俺はインドア式魔法少女学派になど属していない……属していなかった。魔法少女は好きだったかもしれないが、しかしもうちょっと社会に熟れていたはずだ。透明ではなかったはずなのだ。
せめてあと五分……三十分は、心の整理をうじうじとでもつけるために、ここを離れたくなかった。
が。
「わんっわんっ!」
犬が吠えてきた。
背筋をビクリとさせながら、「ひっ」と叫んで後退り、建物で囲まれた細道を、脱出せざるを得なくなる。なんだこいつ、どこからやってきたと、自分ばかりで周りを見ていなかった俺は、心の中でそう叫んだ。馴染みのない場所で注意散漫になるとか、自分の危機管理能力の無さに絶望しそうになるが、反省は後でするとして、とにかく逃げることを優先する。だってあの犬、毛並みと顔つきがめっちゃ悪いし、絶対なんかの病気持ってるもん。ウイルスに罹っているとは限らないけれど、狂犬病を発症して死ぬのはさすがにごめんだった。これは、魔法少女に出会う直前、狼頭の化け物に追いかけ回されたのを思い出すな。冗談きついぜ。たった一月二月の間に、犬と命賭ける追いかけっこする学生が、今時どれほどいるってんだ。畜生、畜生風情がっなどと、人間風情が喚いたところでどうにもならないことは、前回も今回も変わらない……と思ったら、走り出して幾ばくも経たずに大通りへ出て、犬は出口付近で唸るだけ、それっきり追いかけて来なくなった。
「俺の勝ち! バーカバーカ! どうだっ人間様の底力!」
犬に向かって、このような勝利宣言する俺は、どこからどう見てもダサかった。いや、角度を変えればあるいはと、客観的視点に対してどうにもならない反論をしたところで、気を取り直して辺りを見回す。
人が絨毯に乗って、空を飛んでいた。
「ぱ?」
ぶつからぬよう屈んで避けたのち(割とマジで危なかった)、洗濯機が壊れたために仕方なく桶で洗い物をした時のように、ゴシゴシと強く、目を擦る。おかしいな、俺はいつの間に、幻覚など見るようになったのだろうと。再度目を見開けば、空では紙飛行機が、ブルーインパルスを行っていた。大事なことなのでもう一度言うが、紙飛行機と言われて真っ先に想像される紙飛行機が、ブルーインパルスを行っていた。宇宙にまつわる真理の一端を垣間見たかの衝撃に、モノローグが一時空白となる。そのまま大通りをふらふらと歩けば、すぐに市場と思われる場所に出た。
ラッシュの時間帯じゃあないのか、人の姿は疎らだった。ちょうど、午後二時ごろの都会のスーパーという塩梅だ。青果店に並ぶ果物は、青、赤、黄色、紫にピンクととてもカラフルでお洒落だったが、どれもこれも見たことがない。腹は空いているはずなのに、食べ物認定出来ずに食欲が湧かない……八百屋もあったが、同様である。そもそも俺は、日本円しか持っていないので、買い物など出来ようはずもなく。まずは両替場所を探さないとだな、俺を日本に返してくれそうな人及び大使館探しの前に。
ん? と、遅きに失するに違いないけれど、とてつもない違和感を覚えて、来た道を振り返る。
確か、絨毯が空を飛んでいたなと。紙飛行機が編隊飛行をしていたなと。あんな薄っぺらい材質の物品が、人を乗せて宙を舞ったり、エンジン噴かせて高速で宙を移動したりということは、現在の科学技術で可能なのかという疑問が、頭のど真ん中で存在感を増し始める。いや、もしかすると出来るのかもしれないが、生まれてこの方、漫画やアニメではない現実において、俺はそれを目にした試しがない。この国、すごく科学が進歩している? あるいは、日本は技術進歩の波から完全に取り残されてしまった? アメリカや中国などと比べて、日本に科学者を冷遇している面があるという事実は、SNSサービスを通じてよく目にするけれど、だからと言って、実用化面でこんなに大きな差がつくものなのか? とすると、俺、ひょっとして未来旅行でもしちゃったのかな?
「未来……?」
と呟いて、キョロキョロと周囲を眺める。前時代的な市場の光景が、建造物群と完全に調和していて、その街並みの中には、ビルどころか、コンクリート製の家すらない。人力で造られたと思しき木組み、石組み。せいぜい七、八階建てまでならあるものの、日本で求められる耐震基準はまるで満たしていなさそうだ。地震の少ない土地柄であっても、ここが未来の世界なら、もうちょっと丈夫に造られていていいと感じるのだが。言葉は悪いが、こんなボロッボロでしみったれた風のストリートが、人類の未来の行き着く先なのかと聞かれれば、否と答えざるを得ない。物資不足、とかなら紙飛行機でブルーインパルスはしないだろう。
ふと、「科学じゃなくて魔法」という便利な言葉が、俺の脳裏を掠めた。
幼稚な仮説だ、普通なら唾棄して然るべき発想なのだが、しかし、俺は魔法少女という超常者を一人見ている。あれのせいで、物理法則(と法律)を超越した何かが厳として存在するのを、俺は知ってしまっているのだった。ただし、ただしだ、やはり俺の生きているうちに、魔法なるものが公然として世に憚っているのを、俺は見たことがない。魔法が蔓延っている文化圏は、少なくともお日様の下では、ほぼ確実にあり得ない。あったら話題になっている。
ではここは、日本どころか、地球でもない?
ゾッと背筋が冷たくなった。帰れない、帰れない、帰れないのか俺は? 父と母の待つあったかい家に帰れば、あったかい夕飯が出迎えてくれるなんてありふれた幸せは、もうどこにもないってのか? ブルブルと力強く首を振る。まさか、地球ですらないなんて、そんなわけ。まだ希望はある、あるさ、希望を捨ててはいけないと、空元気で前を向いて、懸命に前に進んでみる。日本人観光客を探して、大使館を探して、両替所も探して。
だが、見つからない、アジア系の顔もない。前後不覚に陥って、ふらふらふらと、まるで花粉が破裂して出た微粒子のように無茶苦茶な挙動で歩き回り、このまま精神も破裂してしまうのではないかと危惧を覚えたところで、とある店に行き合った。そこには、
数枚重ねの浮かぶ絨毯、自力発光する透明な石、
真っ黒で底のない袋、
一時間待てば満タンになるという水筒、
翼の生えた靴、
次々と形を変える上着、
身代わりと銘打たれた人形、
牙を磨く獰猛な本、
毒を吸い込むチューブ、
蛇みたく塒を巻く望遠鏡、
カタカタ震えながらも自律するおかしな動物の骨、
檻に閉じ込められた四足歩行の小さな時計、
などなどなどなど、絨毯や石はまだしも、二回くらい生まれ変わっても理解出来なさそうな物品でいっぱいだった。表情を引き攣らせて、店の前で立ち尽くしていると、こちらを見つけた関係者と思しき人から、
「ウチに興味があるのかな? こちら青の町ラビリンス出土品取扱グループ出張露店、よりどりみどりの彩り愉快! 希望の品はおありかい?」
と尋ねられた。聞いたこともない言語だったけれど、見たことのない文字で書かれた商品説明文と同じく、なぜか意味が、手に取るように分かる。苦笑いしながら「またの機会に」と退散して、すぐ近くの道路脇に積まれていた大きな木箱の上に座ったのち、摩訶不思議な陳列棚に最後のとどめを刺された俺は、暗鬱とした低い声でこう独り言ちた。
「ここ絶対、異世界だ」