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8  宵月




 流しっぱなしの蛇口の音よりも大きく、赤ん坊の泣き声が届いた。声になりきれない未熟な音が、部屋中に響き渡っている。

 あらあら起きちゃったのね。あたしは食器を洗う手を止めて、子ども部屋へと向かった。


 二つ並べたベビーベッドの片方では、星史(せいじ)が身をくねらせながら顔を真っ赤にして泣いていた。


「おっぱいかなー? おむつかなー?」


 鼻歌まじりにおむつを替える。すぐに泣き止んではくれたけど、あたしはもう少しだけ星史を抱っこし続けた。ゆらゆらと、身体ぜんたいを揺らしているうちに、星史は静かに眠りにおちた。


 この子は本当によく泣く子。

 夜泣きもけっこう、すごい。

 (あさひ)は全然手のかからない子だったから、星史のお世話は最初のうちこそ大変だったけれど、同じ赤ん坊でもこうも個性というか、性格みたいなのがハッキリするものなのかと実感できたのが妙に嬉しくて、いつの間にか苦だと感じなくなっていた。

 大変なのには変わりないし、夜中も心配で三時間おきに起きてしまうけれど、やっぱり嬉しい。



 星史がうちの子になってくれて、うれしい。





 星史を……暁さんと月乃ちゃんの子を、あたしたち兄夫婦が引き取る申し出には、言うまでもなく親戚中から猛反対をくらった。

 戸籍上の名を変えたとはいえ、名塚との関係が完全に切れたわけじゃない。『名塚月乃』の残り香を親族内に置いておくのは、彼らにとって死活問題なのだろう。


 そんなの、知ったことか。


 あたしは生まれて初めて、あのくそみたいな親戚共に楯突いた。我慢をやめて歯向かった。案の定、義両親との仲は険悪になってしまったけれど、唯一、ひずるさんが味方をしてくれたのは救いだった。


 ひずるさんは既に戸籍名を変えていることと、居住地を東京に移したところを前面に出して説得してくれた。結局わだかまりを残したまま、円満とは言えない状況が今日(こんにち)まで続いているけれど、そんなの知ったことじゃない。


 あたしは今、幸せだ。

 旭と星史を一緒に育てられている。二人一緒に、愛せている。


 この子たちがいる。


 それだけでこんなにも、日々がみちている。



 すっかり眠ってしまった星史をベッドに戻して額を撫でた。隣のベッドでは口を半開きにした旭が、健やかに寝息をたてている。さっきの大声にも動じないなんて、手がかからない、を通り越して、なんだか図太い奴。あたしはくすりと笑いを溢した。

 二人の違いを並べて眺めるだけで、幸福が膨れあがってしまう。



「……おやすみなさい、星史(せいじ)(あさひ)。……愛しているわ。」



 今なら胸を張って言える。

 あたしの、この口癖は、まがい物じゃない。





 かわいいなあ。

 星史の薄っぺらい(はだ)をつつきながら、ふと雨宮先生を思い出した。

 養子に迎えたいと言ってくれた先生に、感謝しながらの反発は、正直名塚のクソ親戚に歯向かう時よりも心苦しかった。


 ごめんなさい。この子は、あたしが育てます。


 あたしの涙ながらの断りに、雨宮先生はやっぱり、華の無い、凛とした、穏やかで物寂しげな眼差しで、ちいさく微笑みながら頷いてくれた。


 そのあとは実に平和なものだった。あたしと、雨宮先生と、桂木さんで、順番に星史を抱っこしたり、談笑なんかもしたり、和やかな時間を過ごした。


 何気ない話の中で、雨宮先生にも旭や星史と同じ年の娘さんがいると知った。

 たしか、八月に生まれたばかりだって。先生は娘さんと一緒に星史を育てるつもりだったのかなと考えると、やっぱりちょっと心苦しいものがあった。


 旭や星史と、同じ年の女の子かあ……

 女の子もいいなあ。

 いつか、女の子も産んでみたいな。あたしはずいぶん気の早い妄想をする。


 そしたら一緒に目一杯おしゃれして、おでかけするんだ。恋愛相談や内緒話だってするんだ。可愛い服選んだり、ケーキも食べるんだ。

 せっかく女の子産むのだったら、女同士、いっぱい笑うんだ。



「…………。」



 いけない。いけない。今のままでじゅうぶん幸せなのに、あたしは贅沢ものだ。

 健やかに眠る旭と星史を前に、心の底から思う。幸せがとまらない。いとしさがとめどない。


 これはあたしの、最愛の、かたち。

 並ぶ二人の赤ん坊に、今一度かみしめる。



 あたしと、月乃ちゃんに、血の繋がりは無いけれど、


 この子たちがいる。



 旭には、あたしの血が、

 星史には、月乃ちゃんの血が、

 流れている。


 あたしたちは、この子たちで、つながっている。


 旭と星史、には、

 同じ血が流れている。



 この子たちが、あたしたちの、証。



 こんなにも、こんなにも、こんなにも、普通じゃない日々がみちている。

 (ひび)割れた日常が、狂おしいほどに愛おしい。




「旭、星史。愛しているわ――――」





『午後1時になりました。ここからはニュースをお伝えします。』




「――――…………。」




『B区の学生マンションで大学生の男性が監禁暴行された事件で、逮捕された少女が、「『I市会社員刺殺事件』に感化された」などの供述をしていることが明らかになりました。この事件は先週水曜、都内在住の十代の少女がアルバイト先の同僚を刃物で脅すなどして監禁、暴行を加えたとして――――』




 ピロピロピロピロ



 ニュースの音に被さって、インターホンの呼び出し音が鳴る。


 エントランス画面では保健師の桂木さんが会釈をしている。

 あたしは「お待ちしていました」と一言添えてから、解錠ボタンを押して、テレビを消し、彼女を迎え入れる準備を整えた。





「体重は順調に増えていますね。今はミルク? 混合?」

「いちおう、完全母乳(かんぼ)でやれてます。」

「あら。旭くんもいるのにすごいですね。」

「けっこう出る体質みたいで。」

「すばらしい。」


 桂木さんは拍手をしながら褒めてくれた。

 星史の発育面と栄養面の確認後は、母体(あたし)の確認も始める。「赤ちゃん二人で大変じゃないですか? 睡眠時間は取れていますか?」とか、「家事なんて手抜きで良いんですからね」とか、「お父さんは協力してくれますか?」とか、いかにも保健師訪問といった内容の中に、時折談笑もまじえて、あたしたちは和気あいあいと喋り続けた。


 桂木さんがこうして訪問してくれるのは、あの産院での日以来、今日で二回目だ。

 地区担当保健師としては少々過保護な業務かもしれないが、これはいわゆる特例というものなのだろう。その「特例」が、星史という赤ん坊のためなのか、あたしという養母へのケアなのか、あの事件に関しての事情なのかは、判らない。


「それで、お母さんの気持ちのほうは、どうですか。」


 あるいは、全部ひっくるめて、なのかもしれない。


「気持ち、ですか。」


 それを裏付けるように、桂木さんはこうやって、あまり深刻でない雰囲気を醸しながらダイレクトに聞いてくる。


「とても落ち着いています。」

 だからあたしも嘘を言わないようにする。事件のことも、事件後のことも、月乃ちゃんのことも、全部ひっくるめて。二人の()()がこれまでの不幸を帳消しにしてくれていると、素直に幸福を謳う。


 そう。と、桂木さんは意味深に眉をさげて笑った。


「でも、何かあったらなんでも相談してくださいね。」

 そして含みのある言いぐさで、念を押した。




「もしかして、『信者』のことですか、」




 あたしはあえて自分から、その含みを引きずり出した。

 桂木さんの顔色が変わる。一瞬の強張りを経て、みるみるうちに慈悲をともす眼差しが、あたしをあわれんだ。


「……ごめんなさい。余計なお世話だとわかってはいるのですが、どうしても心配で。若い人って、()()()()()()が目につきやすいと思って……」


 桂木さん世代のような、ネットに疎そうな年代の人にも『信者』は浸透しているということか。

 申し訳なさそうに視線を流す桂木さんを向かい合いながら、あたしはつい先ほど流れていたニュースを思い出していた。



 『信者』とは、ネットを中心に拡がった「名塚月乃の信者」のこと。

 殺害事件直後は好奇の(まと)、あるいは批判の対象だった月乃ちゃんだったが、彼女の自害からしばらくして、この『信者』と呼ばれる層が爆発的に増えた。


 妊娠中に夫を刺殺し、出産直後に自害した『I市会社員刺殺事件』の、「名塚月乃容疑者」……。不可解なまま幕を閉じた事件の中心に立つ、類い稀な美貌を持つ殺人犯は、当初とは別の意味で注目されだしたのだ。


 彼女の美貌の虜になる者。彼女の動機に憶測を立てる者。擁護する意見。同情する声。支持する言葉。

 神聖視されてゆく、「名塚月乃」。




 挙句には、

 ついに『信者』たちによる模倣犯罪が頻発し始めた。





「先週でもう三件目ですものね。……桂木さんが心配してくださるのも、当然だと思います。」

 桂木さんには決して悪意は無いと汲んだうえで、あたしは理解を示した。この人は、あたしの大切な義妹が原因で、あたし自身が傷つくのがきっと居た堪れないのだ。そのくらいちゃんと理解している。


「ご心配、痛み入ります。」

 だから、ちゃんと感謝も示した。



「……違うんです、陽さん。」



 すこし間を挟んで、桂木さんはぽつりと言った。



「私が心配なのは、あなただけじゃなくて……

 これは、心配よりも……懸念、と言うのでしょうか、」


「……懸念?」


「ええ。」


 桂木さんはそこまで言うと、おもむろに立ち上がり、二つ並ぶベビーベッドを覗き込んだ。



「……この件は、時代を、世代を渡ると思うのです。」


 旭と星史を、順番に撫でて言う。



「あなたの子供世代、私の孫世代。この子たちの耳に決して入れてはいけない。」



 懸念を、不安を、危惧を口にした最後に、桂木さんは震える声でもう一度、「ごめんなさい」を呟いた。



「桂木さん、」



 あたしはちゃんと彼女を汲んでいた。理解していた。善意を受け止めていた。感謝していた。反発も悪意も、これっぽっちも持ち合わせてはいなかった。


 だから、




「お心遣い、ありがとうございます。

 あたし、この子たちには、ふつうの幸せをいっぱい与えます。」




 これ以上不安がらせないためにも、笑顔で騙しぬいた。


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