6 霽月
あの日はミルフィーユを買ったんだ。
たしか前日に、お互い健診で褒められたって報告し合ってて……それに、あたしはもう臨月だったし、二人一緒のマタニティライフも残り僅かなんだなって、変に物憂くなってて、たまたま、お気に入りのケーキ屋さんの前を通りかかって……
月乃ちゃんの大好きなミルフィーユを買って、あたし、あの子の家に行ったんだ。
暁さんが死んでたんだ。
床も、部屋も、暁さんも血まみれで、
なのに、暁さんは眠っているだけみたいな顔してて、
月乃ちゃんも、やさしい、かお、してて、
血まみれで。
…………なのに、
それなのに、どうして、だったんだろう……――――
くだんの、雨宮先生からの連絡に、ひずるさんは案の定、眉間に深い皺を作った。
『私の立会いのもと、月乃さんのご子息と面会していただけませんか。』
雨宮先生の用件は、掻い摘んで言うとそういうものだった。
本当はもっと話の中に、県警は管轄外でどうのとか、前居住市と現居住区の保健師がどうのとか、特例で預からせてもらっているだとか、小難しい事情をたくさん説明されたのだけど、どれも大した問題でないというのがありありと伝わってきて、その反面、『月乃ちゃんの子に会ってほしい』という目的が、よほど重要な件であるということもひしひしと感じられた。
夫が渋るのも当然だと思う。
実弟の忘れ形見であり、仇の化身。一目会いたい気持ちもあれば、情でも沸いてしまったらと危惧する葛藤もあるのだろう。
わかっている。あたしはこれまでだって、妻として夫の気持ちを推し量ってきたつもりだ。
だから石を投げられる生活にも耐えてきたし、くそみたいな親戚たち相手に我慢もしたし、月乃ちゃんが知らないどこかで燃やされた絶望も無視できた。
だけど、
「ひずるさん、……あたし、会いたい、」
今回ばかりは譲れない。
「月乃ちゃんの子に、会いたい。」
半分くらいなら嫌われてもいいと、あたしは覚悟した。
面会の場にと足を運んだのは、都内に構える個人医院だった。いうまでもなく、例の雨宮医院だ。先方は出向いてもいいと言ってくれたのだけど、結局腹を括れなかったひずるさんへの配慮として、あたしは一人、雨宮医院を訪れた。
旭も今日はひずるさんとお留守番。軽い身なりで外出するのは随分と久しくて、不思議と足取りも軽くなった。
これから向かう場所には、割と由々しき事情が待ち構えているのだけれど。
『本日休診』の札が下がった自動ドアの前で、一呼吸おく。続けて、真横のインターホンに目を向けた。たしかこれを鳴らせばいいと言っていた。もう一呼吸挟み、ボタンを押すと、反応はすぐに返ってきた。
「はい。」
「あっ……み、皆口、ですっ、」
変な受け答えをしている自覚はあった。
「お待ちしていました。今降りますね。」
しどろもどろなあたしに比べ、電話口で聞いたのと同じ彼の声は、冷静に、でも穏やかに返ってくる。通信が切れてから数分としないうちに、本体が現れた。
「ご足労いただきまして。」
育ちの良さそうな、凜とした佇まいをした黒髪の男。噂の雨宮先生は開錠するなり、まずそれを言った。
あたしは色々と面食らってしまった。
まず、先生が直々に出迎えてくれたこと(偏見ながらこういう役割は看護師さんか受付事務がやるものだと決め付けていた)。
次に、雨宮先生のお姿が電話でのイメージどおりだったこと(華やかさは少ないけれど隠し切れない上流感がにじみ出ている、みたいな)。
そして、そのイメージどおりのはずの雨宮七生なる医師が、違和感の塊だったこと。
いやに若い。三十前半……もしくは三十路になりたてといった齢だろうか。産科医としては珍しくないのかもしれないが、先日の話が事実であるのなら、彼は……雨宮医師は、名塚月乃の担当医だったという。
こんな、いわく付きの妊婦の担当になるには、些か不相応な気もする。
案内してくれる彼の背中を疑惑の目で見つめていると、どこかから赤ん坊の泣き声がした。
まだ声としての形も成していない未熟な音。新生児の泣き声だ。産院なのだから当然か。
「こちらです。」
泣き声に気を取られているうちに、一室の扉前まで辿り着いていた。他の産婦と同じ、入院用の個室だ。個人医院だからかホテルの部屋みたいなドアだけど。
雨宮先生に案内されるまま個室に入ると、一人の中年女性がソファに腰掛けていた。
あたしに気づくなり目を細め、微笑みながら会釈し、ゆっくり立ち上がる。
「地区担当保健師の桂木です。」
小さな声で囁くように自己紹介する女性の腕には、
「…………――――、」
真っ白なおくるみに包まれた、赤ん坊が抱かれていた。
「非常に特殊な事例なのですが、一応形式として、立ち会わせていただきますね。」
少々申し訳なさそうに、保健師の桂木さんは言う。
「――――……えっ? い、いえ……、とんでも、ないですっ……、」
あたしは明らかに動揺していた。
目的はこれだったはずなのに、そのためにやってきたはずなのに、もう十月十日……いや、それ以上に待ち望んでいたはずなのに、心臓がばくばくしてしまう。
月乃ちゃんの……子だ。
とたんに襲ってきた緊張感と躍動しだした鼓動に足が固まる。体が支配されて身動きはおろか、おくるみの中を覗き込むことさえできない。
「…………。
“せいじ、です。『星』に歴史の『史』で、『星史』。”――――」
後方にいた雨宮先生が唐突に呟いた。
「えっ……?」
「生前の、お母さんが最期に遺したことばです。」
振り向くと雨宮先生は、やっぱり華の無い、でも凜とした佇まいで、それはもう穏やかな表情のなかに、溢れんばかりの哀しみを宿して、あたしをみつめていた。
「皆口陽さん、」
そしてあたしの名を呼ぶなり、跪き、額を地面へとすりつけた。
「……星史くんから、お母さんを奪って、申し訳ございません……」
か細い声を震わせて謝罪を滲ませる。
深々と頑なにへばりつく彼と、動揺の名残で硬直したままのあたしの思想と感情は、きっとすれ違っていた。
この人ときたら、なんにもわかってない。
律儀に、あたしを皆口陽なんて呼ぶくせに、なんにもわかってない。
「…………雨宮先生、」
きっとすれ違っていた。
あたしが、此度の面会に携えた思想と、この年若い医師へ懐く感情に、名前を付けるのであれば、
「顔を、あげてください。」
それはきっと、感謝だ。
「たまたま、先生だった、だけです。」
彼が今、どんな思想を胸に謝罪していようと、月乃ちゃんの件でどんな感情に押し潰されていようと、この人が許しを請う必要など一欠片も無い。
あたしは、会えるだけでも良かったんだ。
月乃ちゃんの子に一目会うだけで、じゅうぶん幸せだったのに……この人ときたら、
「……月乃ちゃんを、おかあさん……って、呼んで……くれて、……ありがとう、ございます……」
一度たりとも名塚月乃と呼ばなかった。
この子の、星史の、お母さんだと、認めてくれた。
「ありがとうございます……ありがとぉ、ございっま……」
彼の土下座と張り合うみたいに、あたしは頑なな「ありがとうございます」を繰り返してやろうと画策したのに、三回目でもう言葉が崩れた。
ぷつりと切れた緊張か、とめどない謝意なのか、あたしは伏せる彼の前で、同じく地に伏せて泣き崩れた。湿っぽい吃逆まじりの泣き声に、雨宮先生はつい顔を上げて小さく慌てる。
「あらまあ、入れ替わってしまいましたね。」
収拾のつかないあたしたちを宥めるように、桂木さんが優しく笑いかけてくれた。
「ほらほら、もうこの件はきれいにお終い。」なんて言いながら、あたしたちに前を向くよう促す。
そして顔を上げたあたしにもう一度微笑んで、両腕の中で眠る乳飲み子を差し出した。
「お抱きになりますか、」
水気を帯びた表情のまま、あたしは無意識に腕を伸ばし、小さくて柔らかい命を受け取った。
「…………かわいい。」
薄手のおくるみに包まれた星史を見るなり、こぼれた。
かわいい、かわいい……ほんとうに、かわいい。手元で眠る硝子細工みたいな赤ん坊は、目尻と口元が月乃ちゃんそのもので、可愛くて可愛くて、愛おしくて愛おしくて、また涙が溢れてきた。
「今はこんなに色白だけど、黄疸が出ていたんですよ。」
あたしの背中をさすりながら桂木さんが言う。あたしは泣き声を押し殺しながらこくこくと何度も頷いた。
泣いているのが勿体ない。涙を流している時間さえ惜しい。今はただ、この、狂おしいほどに愛おしい命に、目を凝らしていたい。
かわいい、かわいい。ほんとうに、可愛い。
純然たる母性に支配され、星史に心奪われたまま立ち尽くしていると、雨宮先生がおくるみを覗きこんだ。
「星史くんは、私の父が取り上げた最後の子です。」
星史を見つめながら言う。さいご? 言葉の意味がわからず聞き返した。
「先代の医院長です。……この子が産まれた翌週に、他界しました。」
他界。今度は意味が分かった。その簡潔な説明だけで、先ほど懐いていた彼への違和感とか、やけに若い雨宮医師の事情とか、律義で頑なな謝罪の意味なんかが、大方察せられた。
「父からの言伝です。」
お悔やみを申し上げる間も無く、彼が切り出した。
「“こんなにも美しい子に、石をぶつけるような人生を、歩ませてはいけない。”」
「…………。」
「……皆口さん、不躾なご相談なのですが、」
お父様の言伝を唱えてすぐ、雨宮先生は視線をあたしへと移して、再度切り出した。
「この子を雨宮家に、養子として迎えさせて頂けませんか。」
唐突に向けられた懇願と、信念にも見紛う覚悟に、まぶたが固まる。
唖然とするあたしに雨宮先生は続けた。
「こういった経緯で生まれた子供は、施設へ送られるか親族に引き取られるかのどちらかです。……皆口さん、無礼を承知で月乃さんの身辺と、あなた方の現状を調べさせて頂きました。月乃さんに実家及び身寄りは無く、嫁ぎ先である名塚家側も彼女を切り捨てている。そしてあなた方ご夫婦も、絶縁ともいえるかたちで戸籍名を変えていますね?」
摯実に語る雨宮先生に圧倒されていると、腕の中で眠っていた星史が微かに蠢き、注意がそれた。
まるで、呼びかけの際に肩を叩かれるのと、似た感覚…………あれ……?
「私は……目に見えた不遇を前に、この子を手放したくはないんです。」
……なんだっけ……? たしか、前にも、こんな場面、あったような…………
「だけど、あなただけは違う。あなたは、名塚家の誰もが取り合ってくれなかった此度の面会に、唯一、応じてくれた。……あとは、あなただけなんです。」
…………。
――――そうだ。思い出した。
「私が星史くんの親権を交渉できる相手は、あなただけなんです。」
彼の真摯な説得に、無礼にも意識を飛ばしていたあたしは、ちゃんと最後の、いちばん、いちばん核心的な、あたしに与えられた『選択』だけを、ぎりぎりで掬い上げた。
思い出した。
あの場面に似ていたんだ。同じ感覚だったんだ。
あのとき、あのとき、あのとき、
暁さんが死んでたんだ。
床も、部屋も、暁さんも血まみれで、なのに、暁さんは眠っているだけみたいな顔してて、月乃ちゃんも、やさしい、かお、してて、血まみれで。
…………どうしてだったんだろう。
殺されていて、殺していて。二人の状況は一目瞭然だったのに、あたしの戦慄は遅れたんだ。恐怖も遅かったんだ。
それどころか、最初は、すこし、
少しだけ、理解、してしまいそうになったんだ。
暁さんの死に顔が安らかで、月乃ちゃんの眼差しが慈愛に溢れてて、二人が穏やかで、嘘偽りなく深く深く、愛し合っているんだって、そんな、言い訳にするには可笑しい確信がきっと胸の奥にあったんだろうけれど、結局それが邪魔してて、あたしは悲鳴もあげず、救急車も呼ばず、ただただ茫然と二人を見つめてたんだ。
胎を蹴られて気づいたんだ。
呼びかけの際に、肩を叩かれるような感覚で、目が覚めたんだ。
この心は、違うと。
戦慄を探したんだ。恐怖を引き摺り出したんだ。
胎の子のためにも、あたしは、まっとうな女でいなければと、
ただしい母でいなければと、感情を正したんだ。
「……月乃……ちゃん、」
宿したての恐怖で身を震わせながら、あたしは普段と同じ声で彼女を呼んだ。
「……陽ちゃん。」
義妹も、いつもと何ら変わらない透明色の瞳を艶めかせ、あたしを呼ぶ。
その瞳も、声も、彼女そのものも怖いくらい無垢に透きとおっていて、今一度恐怖できた。
今度は正しく、恐怖できた。
「……ねえ、月乃ちゃん……、」
目の奥が熱い。指先が悴む。優秀な恐怖が、あたしに正常を与える。
「どうして……あの日、友達になって……なんて、言ったの……?」
脈絡もない問いかけも正しく優秀な混乱。あたしが慄いている証明。取り乱しているんだ、あたしは。月乃ちゃんとの、いちばん古い記憶を引っ張り出している。
月乃ちゃんはどこまでも穏やかなまま、くすりと小さく笑い溢すと、
「ふつう。」
いつものように、明るく言った。
「陽ちゃんが、普通の女の子じゃなかったから。」
いつものように、無邪気な笑顔で、
「わたしね、ふつう、に執着しすぎてたの。今までの、人生。」
いつものように、人懐こい仕草で、
「普通の家庭に憧れて、普通の女の子として育って、生きて、普通に恋をして……ぜんぶ失くしちゃった。」
いつものように、甘い声で、
「だから、もう普通はやめたの。普通じゃないものを探したの。」
いつものように、可愛らしく、
「陽ちゃんをみつけたの。」
美しく、
「……ねえ、陽ちゃん、」
きれいな、きれいな、透明色の月乃ちゃんのまま、
「わたしと陽ちゃんの始まりは、普通じゃなかったよね。」
慈しみながら、あたしの手を握った。
包み込むように捕らえてくる彼女の手を、あたしには、振り払うことが出来なくて、
「わたしたちの関係って、ふつう、じゃなかったよね。」
なすがままに、包まれた手は、彼女の微かに膨らむ胎へと当てられる。彼女もまた、あたしの充分に膨らみきった胎へ、そっと手をあてがう。互いの掌が、互いの胎へと添えられる。
「きっと、この子たちも、――――――――」
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ねえ あきらちゃん
あなたなら わかってくれるでしょう?
わたしね
暁くんが 大好きなの
いちばん 大好きなの
…………そうだったのね。
月乃ちゃん。やっとあなたをみつけたわ。
あなたは、あたしの劇薬だと思っていた
だけど、ほんとうは、…………――――――――