5 落月
あの子はあたしの薬だった。
二十年の虚無を埋めてくれる、安定剤。
青春のコンプレックスを和らげてくれる、鎮痛剤。
あたしに浸み込んで離れない、麻薬。
きっと、劇薬だった。
あたしの大好きな義妹。大切なお友だち。
生涯、忘れないであろう、
最愛なる、劇薬。――――
『名塚月乃容疑者、出産直後に自殺』
真夜中各局へねじ込んだ一報は、朝を待たずして日本中に拡がった。
九月十二日、午前二時十三分。第一子を出産した名塚月乃容疑者は、その一時間後に変わり果てた姿で発見されたのだ。
盗み持っていたボールペンで喉を一突きにして、分娩台で息絶えていたという壮絶な最期。
出産を終えたばかりだった。
命を、生み出したばかりだった。
いとし子を抱いて、すぐだった。
誰しもが予測も理解もできない彼女の最期は、『I市会社員刺殺事件』をより不可解に複雑に、そしてより衝撃的なモノとして世間を震撼させ、みたび湧かせてしまう。
収束しつつあった報道はトップニュースへ返り咲き、沈静していたスポーツ紙も再び名塚月乃の名を飾り並べる。
投石等の嫌がらせは逆に減ったけれど、代わりに、我が家を包囲する報道陣や記者が、まるで雑草みたいにわらわらと発生した。
ああ。また当分、洗濯物が干せないなあ。あたしは現実逃避のごとく考える。
買い物は……なんとか、なるかな。きっと親戚の誰かが、持ってきてくれるし。大量の野菜とかお米とか、その他食料品日用品を運んできて、「すまないね。私らにはこのくらいしかできなくて」なんて、安っぽい涙を浮かべるんだ。面倒事を押し付けられるならこのくらい安いもんさ、って本音が、透けて見えるんだ。
あたしは、そんなくそったれた施しを有難く頂戴する。
どうせならおむつも持って来いよ、役に立たねえな。なんて本音が透けて見えないように、目を潤ませながら、「ありがとうございます」を馬鹿みたいに繰り返すんだ。
あたしは現実逃避に混じって、現実的なことも、ちゃんと考えている。
角を立てないように。これ以上の面倒は避けるように。敵を作らないように。
それは産まれたばかりの息子のためであり、夫の信念のような選択であったから貫いていたのだけれど、今度ばかりの夫は……ひずるさんは、違っていた。
すべてを捨てると決断した時点で切り替えていたのかもしれない。これ以上義妹に引っ掻き回される日常に我慢できなくなったのかもしれない。
ひずるさんは月乃ちゃんの遺体返還を拒否した。
葬儀は行わず対面さえも拒み、彼女に自害の隙を与えた産院を訴えもしなかった。
ぜんぶ、独断で。
月乃ちゃんは知らないどこかで燃やされた。
あたしは大好きな義妹に泣き縋ることも、大切なお友だちが灰となる絶望も、全部無視して、夫の独断を尊重した。
せわしい感情はもうたくさん。
起こってしまった激動に追い付けなくなったのだろう。この波に飛び込んでしまえば、今度こそばらばらに砕けてしまう。それだけは、困る。
だって、あたしは、
「……旭、…………あいしているわ。」
息子のために、生きなきゃいけないのだから。
母親、として。――――――――
「十時にお約束してます、皆口です。」
受付に声をかけると、事務の女性は好意的な「こんにちは」を挟んですぐに、旭の顔を覗き込んだ。
「えっと皆口旭くんは、今日はヒブと肺炎球菌とB型肝炎と……あとは四種混合ですね。旭くん、いっぱいだけど頑張ろうね~。」
本日受ける予防接種を確認しながら、優しい笑顔を旭に向ける。これから四本も注射を刺されるなんて知りもせず、旭は丸い目をぱちくりさせた。
良い小児科を見つけることができてよかった。と、待合室で腰をおろすなり息をつく。今日でまだ二回目なのに、あたしの顔も覚えてくれているし、何より子供への対応も素敵だ。受付のひとも、医者も、看護師さんも、みんな優しい。
他人に暖かくされるのって、やっぱり、いいな。
素直にあたしは思う。
同時に、これまでいかに壮絶な日々を送っていたのかを思い知る。他人や世間から、棘の如き感情や視線を刺されていたかを、痛感する。……もう過去の話だ。考える必要なんて無い。
「皆口旭くーん、」
診察室から、担当医の穏やかな声が届く。しまった。まだ抱っこ紐だ。そそくさと準備するあたしに、看護師さんが「ゆっくりでいいですよ」と、おだやかに笑った。
本当に、みんな優しくて良い病院……
でも、
このひとたちも、事実を知れば、冷たくなってしまうのだろうか。
悪意の好奇を象った、棘みたいな視線を、あたしたち親子に向けるのだろうか。
あたしたちの、ほんとうの名前が、『名塚』だと、
名塚月乃容疑者の関係者だと知ったら、
また、あの壮絶な日々に戻ってしまうのだろうか。
月乃ちゃんの訃報後すぐに、あたしと息子と夫の三人は逃げるように東京へ移住した。新しい土地で、戸籍上の苗字も名塚から皆口に変え、文字通り新生活を始めていた。
東京では、誰もあたしたちに石を投げたりしない。人殺しの身内だと、陰口を叩いたりしない。監視するような目も無い。自宅前で待ち伏せる記者も、追っかけ回してくる報道陣もいない。お天気の日には思う存分、洗濯物が干せる。
皆口ひずるを、皆口陽を、そして、皆口旭を受け入れてくれる。
ここで一生を生きよう。一生を終えよう。
越してきてまだ半月も経っていないというのに、あたしは大げさに決意していた。毎朝、朝陽の射しこむ部屋で健やかに眠る息子を見るたびに、全然大げさなんかじゃないって確信しながら、決意していた。
「おはよう、旭。愛しているわ。」
最近ではこの口癖も、だいぶ本音に近づいてきた。
きっと、幸せだった。
あたしは今、紛れもなく母親になれている。穏やかに平穏に、皆口旭の母親・皆口陽をまっとうしている。
この幸せを嚙み締めれば噛み締めるほど、もしあのまま、あの地に残っていたらと考えるだけで、身が凍った。
言うまでもなく、名塚月乃容疑者自殺の一報はテレビやスポーツ紙だけでなく、あの、下卑たネットの世界を祭りの如く沸かせた。
それはそれは大盛況だった。いいや、現在進行形で賑わっている。
あたしは今でも、そんな下卑た世界の狂った文字羅列を、性懲りもなく覗く。
だけど以前と違い、その行為には後悔も眩暈も無かった。
だって、そこには、
いつだって、月乃ちゃんが存るから。
[ぶれねーな名塚月乃]
[産んで自害やばwww]
[ここまで突き抜けてくれるとは]
[期待に応えてくれるな]
[分娩台で自害とかエグすぎません?]
[妊娠→殺人→出産→自殺のパワーコンボ]
[何がしたかったんだこの女]
[真相は闇の中か]
下衆の声が連なり続けるかぎり、月乃ちゃんはこの世に存続ける。
それがどんなに不名誉な言葉であろうと、もうどうでもよかった。月乃ちゃんが消えちゃうくらいなら、そのくらいどうでもよかった。
それに、
「…………。……[彼女なりの 事情があったのかも]……、」
あたしが庇えばいい。それだけのことだ。
「……[一概に悪と決めつけられない]、」
名乗らず、正体も明かさない安全地帯からの不様な叛逆。そんなみじめな抗いのために、あたしはこの下卑た世界へ躊躇わず飛び込むようになっていた。
覗くたびに、無機質なタイピング音を奏で、自分の意志をキーボードに込めて彼女を擁護する。
[メンヘラ同胞さんは帰って]
[どうみても悪です]
[えぇ……]
反応は当然、批判的なものばかりだった。そんなの、物理的な攻撃を受けてきた立場から言わせてもらえば、動じるほどでもないんだけど。
[てか子供どうすんの]
「…………。」
……ああ、もう。これにばかりは口を噤むしかない。あたしは逃げるように視線を逸らせた。
だめだ。相反する。矛盾してしまう。
せわしい感情はもうたくさん。母として、そう吹っ切れたはずだったのに、母に成ったからこその葛藤が襲い掛かる。
月乃ちゃんの味方でいたい想いと、月乃ちゃんが産んだ子への慈悲が、どうしても共存できそうにない。
論破されたみたいに、あたしはその後の書き込みを止めた。
次々と流れ込む批判意見はまさに四面楚歌、容赦なくあたしを袋叩きにする。この世界において、上質な玩具である名塚月乃を庇うなんて愚行でしかない。
現にあたしも、子供の件を持ち出されると尻込んでしまうわけだし……
こんな、相反した、矛盾した、とっ散らかった庇護欲みたいな、決して清らかでない親愛の情なんかで、月乃ちゃんを擁護する資格があるのだろうか。
自己満足なのは自覚している。無益な行為だと理解もしている。
それでも、
もしかしたら、もしかしてと、根拠のない期待が膨らむのだ。
もしかしたらこの世界には、あたし以外にも……――――
[わたし支持できる]
「――――……!」
[同じく けっこう擁護派]
諦めの間際に飛び込んだ、たった二つの、かきこみ。
連なる批判と否定、幾多の揶揄や暴言の中で埋もれそうになりながらも、確とあたしの目に焼き付いた、期待のかけら。
その二つの書き込みは、紛れもなく、名塚月乃を肯定するものだった。
「あは……あははは……」
自然と笑った。勝手に上を向いた口角と震える唇。壊れたスピーカーみたいに漏れる声。……ちがう。壊れてなんかいない。
確固たる意を持ってあたしはキーボードを叩いた。
「[なにか あったんだよ]、」
あたしは壊れてなんかいない。
「[殺す 理由 が]。――――」
名塚月乃。
月乃ちゃん。
あたしの大好きな義妹。大切なお友だち。
誰よりも無邪気で、人懐こくて、甘くて、可愛くて、きれいなひと。
透きとおるほどに美しいひと。
白くて白くて透明すぎて、わからなくなる、ほどに、
……わからなくなる……?
…………わからない、ものか。
あたしは知っている。誰よりも理解している。
思想も、苦悩も、孤独も、愛情も、彼女そのものも、あたしだけが、知っている。
あの美しい、名塚月乃という義妹を。
「……[名塚月乃は]、」
あたしは壊れてなんかいない。何も間違ってない。
道を外してなんか、いない。
「[殺人犯なんかじゃ ない]。」
この劇薬よ
もっともっと拡がってゆけ
トゥルルル トゥルルル トゥルルル
隙をつくような着信音。固定電話のコールには嫌な思い出が多くて、今でも身じろぐ。おそるおそる受話器を取ってみると、電話口の向こうには確かな気配があった。
「皆口さんのお宅でお間違いないでしょうか?」
聞き覚えの無い男の声。無言電話でなかった事と、皆口の名で呼ばれた安堵感から、薄まった警戒心で「はい」と応えた。
「みなぐち……あきらさん、ですね?」
男があたしの下の名前も確認する。あたしはもう一度、「はい」を告げた。
「私、雨宮医院の産科医、雨宮七生と申します。」
さんかい? アメミヤナナセ……?
心当たりの無い名前に疑問符を浮かべながら、記憶をまさぐっていると、電話口の、声の主は、小さな空白を挟んで、きりだした。
「本日は、名塚月乃さんの、ご子息の件でお電話させていただきました。」