3 虧月
“『殺人妊婦、心の闇』”
“『美しき殺人鬼の知られざる過去』”
“『子供の本当の父親とは?』”
……はあ。まだこんな物が売れるのか。世間もよく飽きないなあ。
あたしは憤慨よりも悲痛よりも、辟易して商品棚を一瞥した。
見出しが命、購買欲を掻き立てるためには下卑た言葉も手段のうち、といったスポーツ紙に、最初のうちこそ怒りを覚えたり胸が締め付けられたりしていたけれど、いつの日にか慣れたのか、もしかしたら諦めたのか、なんなら麻痺でもしてしまったのか、世間の下衆な好奇に何の感情も抱かなくなってしまった。
殺人犯、名塚月乃への過熱報道。
とどまる事のない、『I市会社員刺殺事件』の続報。
大衆向けの週刊誌で取り上げられる、低俗な話題。根も葉もない記事。下衆の勘繰り。
日本じゅうが悪意に満ちた好奇で、名塚月乃に注目している。
仕方がない。事件を起こしたのは事実なんだから。
人を殺したのも事実なんだから。
それに……――――
「…………、」
抱っこ紐のなかで珍しく息子がぐずった。外出中はたいてい寝ていてくれる、どこまでも育てやすい子。小刻みに体を揺らすと案の定、またすぐに眠ってくれた。
この子はたぶん、ひずるさん似。顔はこれからまだまだ変わるだろうけれど、耳の形がそっくり。息子の寝顔を眺めているうちに、荒みかけた心が少し落ち着いた。
憂鬱とか、悲観的じゃなくて、今度は穏やかに月乃ちゃんについて考える。
たしか予定日はもう再来月だ。九月上旬って言ってたし。性別は、たしか、男の子。
この子と……旭と同じ年生まれの、同じ男の子。
楽しみだなあ。
面会できるかどうかもわからない現実を無視して、あたしは穏やかに待ち望む。旭の従弟……早く会わせてあげたいなあ。
もはや現実逃避な妄想に、心躍らせる。
月乃ちゃんの子なのだ。絶対に可愛い。大きくなったら、絶対、ぜったいイケメンになる。
絶対、絶対絶対かわいい。だって、月乃ちゃんの子なんだもの。
…………。
……今は、もう八ヶ月かあ……
胎動、一番激しい時期、だよね。
さすがに、悪阻も、もう楽になったよね。もともと軽かったって、言ってたし。
食欲は、どうかな。体重、増えすぎて、ないかな。
……なまえ、きめた、かな。
…………。
……月乃ちゃん、
からだ、冷やさないようにね。
獄中で、大きな胎を抱える殺人犯へ、あたしは随分と頓珍漢な思いを馳せた。
どうしても視界に入ってしまうスポーツ紙の陳列棚から逃げるように、急いでコンビニを出た。
月乃ちゃんの赤ちゃんの性別判明は、標準よりずっと早かったのを思い出す。あたしの子は八ヶ月目でやっと見せてくれたというのに。
「陽ちゃんに似て、恥かしがり屋さんなんだよ。」
一緒にケーキをつつきながら月乃ちゃんはそう笑ってくれた。
前回の健診でお互い、体重には気をつけるよう注意されたばかりだったというのに、この日は『祝・同じ男の子だったよ記念』だなんて屁理屈を掲げて、久しぶりにお気に入りのケーキ屋さんに足を運んだのだ。
ご無沙汰だったミルフィーユを、食べづらそうにも頬張る月乃ちゃんの至福顔が、すごく可愛かったのを憶えている。
「なまえ、決めたの?」
口のはたにカスタードクリームを付けたまま、月乃ちゃんは小首を傾げた。
「ええ。」
あたしは紙ナプキンを差し出しながら、返事と一緒にふふっともらす。
「えっと……聞いても、いい?」
照れ臭かったのか、もしかしたら気を遣ってくれたのか、月乃ちゃんは口元を拭きながら遠慮がちに尋ねてきた。
「旭。」
あたしはあたしで、照れ臭く改まる。
「あさひ、くん?」
「ええ。あたしも、ひずるさんも、お日さま由来の名前だから。」
「あさひ、くん……うんっ、すてきな名前だね。」
両手を合わせながら表情を輝かせる月乃ちゃんに、あたしの感情は忙しかった。
そんな、こっちが恥かしくなっちゃうから、とか、本当にアイドルみたいな顔しているんだからこの子、とか、赤面不可避な感情が主だったけれど、やっぱり一番際立っていたのは、
「ありがとう。」
嬉しい、これに尽きた。
「お義兄さんと一緒に考えたの?」
「もちろん。」
「早く会いたいなあ。あさひくん。」
「あたしも、早くその子に会いたいわ。なまえ、決めてるの?」
「まだだよー。わたしも、暁くんと一緒に考えるんだあ。」
幸せいっぱいに笑う月乃ちゃんは、透明色だった。濁りも陰りもない、きれいなきれいな透明色。
こんなにも無邪気で、人懐こくて、甘くて、可愛くて、美しい、きれいなひとを、あたしは後にも先にも知らない。
月乃ちゃんはきれいだった。
だから、
名塚月乃容疑者は、世間の関心を掻っ攫ったのだ。
月乃ちゃんの並外れた美貌は、マスコミの格好の獲物だった。
どのメディアもここぞとばかり事件を取り上げ、必ずと言っていいほど彼女の写真が必要以上に晒され、世間も見事に食いついた。
妊娠中の妻が夫を滅多刺し。加害者の妻は、抜きん出た美人。
面白いに決まっている。無関係であればあるほど、祭りにしたがる案件なのだろう。事実、大衆向け雑誌やネット上なんかは、目も当てられぬほど露骨で低俗な話題で盛り上がっていた。
事件への過剰な関心は、やがて遺された名塚家……ひずるさんとあたし、そして産まれたばかりの旭にも向けられた。
容赦無い突撃取材。鳴り止まない電話。常につきまとう好奇の目。果ては悪意に満ちた投石。加えて連日の事情聴取。最悪の環境下で幕を開けた、初めての子育て。
被害者遺族として苦境に立たされながら、加害者親族として扱われる理不尽に、ひずるさんもあたしも、とっくに限界を超えていた。
「全部捨てて、逃げよう。」
ひずるさんがそう決断したのは、旭が産まれて二ヶ月になる手前だった。
「ぜんぶ、」
彼の意図をほぼ察した上で、あたしはおうむ返しをした。
「そう。全部、全部だ。地元の知り合いも、親戚も、今の仕事も、なまえも……全部捨てよう。」
そこまで言うと、ひずるさんは徐々に、饒舌に詳細を語り始めた。
仕事なら都会のほうがもっと僕のキャリアも生かせる。むしろ今より経済的に余裕が出るくらいだ。本家の為と思って我慢してきたけれど、報道陣への対応を僕らに丸投げする親族なんてもう絶縁しても構わない。産後のきみや、旭がいるってわかっているくせに。……そもそも、名塚家が無関係な人間にも掌握されているのもおかしな話なんだ。もう、こっちの人間は誰も信用できない。戸籍も、新しい苗字に変えて、三人で静かに暮らそう。
「僕と、きみと、旭だけでいい。あとは何もいらない。」
憤りと悲観と、もしかしたらほんの少しの希望も含んだ饒舌の最後を、ひずるさんはそんな台詞で締めくくった。
反対する理由なんてなかった。
聴取が一段落着いたものの、『I市会社員刺殺事件』の報道は、未だ収束をみせない。ネット上では今もなお、低俗に盛り上がる名塚月乃容疑者の話題。定期的に受ける、野次馬精神の嫌がらせ。
そして何より、赤ん坊を抱いた外出中の母親を、玄関先まで付き纏い続けた報道陣に対する怒りが、ひずるさんのトリガーとなったらしい。
「……巻き込んでしまって、すまない。
僕と一緒に逃げてくれ。」
お話の、本当に最後のさいごに、ひずるさんは声を震わせながら謝ってきた。
耐えられなかったこと、我慢できなかったこと、逃げるという選択肢に、あたしと旭を巻き込んでしまったこと。
あたしはこの夫がやっぱり半分大嫌いで、半分、愛している。