2 盈月
あなたを愛しているわ。
旭を産んだ日から、あたしはあたしに母性を浸み込ませるみたいに、それを口癖としていた。
ほんとうに口癖となっていたのか、意図した自己暗示だったのかは、正直判断できない。空洞みたいな意識の中、曖昧に浮かぶ最上級の感情は存在を主張するかの如く、あたしに幾度となくそれを口にさせた。
「愛しているわ。旭。」
あいしてる、あいしてる、あいしてる……
……少なくとも、旭の寝顔を眺めている瞬間だけは、その口癖が悪くないと思えた。
色々あったけれど、無事に産まれてくれてよかった。今も結局、いろいろ、あるけれど、この子が産まれてくれてよかった。
「ただいま、」
差しこんだ照明と一緒に、ひずるさんが現れた。
「窓、またやられたんだ、」
連日の晩い帰宅。心身共にくる疲労から、降参したみたいな微笑をこぼす。最近はもはや仮面みたく貼りついてしまった降参顔。
「旭なら無事よ。」
せめて少しでも和らげればと、あたしはまず息子の安否を報せた。
「きみは?」
夫のこういうところが、あたしは半分好きで半分嫌いだ。いわゆるライオンハートというのか。素直に子供を最優先にできない、中途半端な男らしさ。
「あたしはもう慣れたから。」
だからちょっぴり意地悪をいう。夫の場合、単純に純粋に、優しいだけなんだって理解した上で、ひどいことを言う。
「迷惑をかけてしまって、すまない。」
ひずるさんは心底申し訳なさそうに謝罪した。
基本的に人間ができているからこそ、あたしは夫が半分嫌いで、半分大好きだ。
義妹の起こした事件からもう一ヶ月以上。
実弟を殺された夫は被害者遺族でありながら、同時に加害者親族として連日事情聴取を受けていた。
本来ならば第一発見者のあたしが応じるべき聴取も、事件当時あたしが臨月だったこと、産褥期の母体には身体的にも精神的にもあまりに負担が大きいことを理由に、夫は全てを買って出てくれた。
義妹に、嫁ぎ先である我が家、名塚家以外に身寄りが無かったのも要因の一つだ。
妊娠中の妻が夫を滅多刺しにして殺害。
衝撃的と言えば衝撃的ではあるものの、義妹の起こした事件が何故これほどまでに日本中から注目され、連日聞き飽きるほどトップニュースとして取り上げられ、果ては被害者遺族のはずなのに『加害者親族』としての烙印ばかりを的とし、無関係な野次馬共が名塚家に罵詈雑言を投石として撃ち込むような事態になってしまったのか。
そんな疑問、懐くまでもない。
事件の容疑者である義妹、名塚月乃容疑者が、
月乃ちゃんが、きれいだったから、だ。
三つ年長の義妹である月乃ちゃんが、あたしは大好きだった。
「お友だちになってください。陽ちゃん。」
夫の弟嫁である月乃ちゃんとの出逢いを、今でも鮮明に覚えている。
何を言い出すの、この人。……本来ならば真っ先に浮かぶはずの感情が二番手に回ってしまったのは、彼女があまりにも眩かったからだ。
透明感のある女だった。
じっと見つめる眼差しも、陽気にてらされた肌も、ゆれる髪も、唐突な言葉を奏でた声さえも、透きとおるほどに美しいひと。
名塚月乃という年上の義妹が、あたしの世界を暖めてしまうのに時間はかからなかった。
『おともだちになってください』『あきらちゃん』
奏でられた二つの言葉は、あたしの半生において、なかなか縁の無いものだった。
自衛官の父と専業主婦の母。年の離れた長兄と病弱な次兄。あたしはそんな家庭の末娘として生まれた。
父の職業柄、物心ついた時には筋金入りの転勤族。幼稚園の舎や先生やお友達が定期的にリセットされてしまう謎の現象が、『引っ越し』というものだと気づいたのは就学手前。
そのくらいの年齢になると悪い『慣れ』が『癖』として定着してしまって、積極的に学友を作ることをしなくなっていた。
やがて、その悪い『癖』が今度は『冷め』に変わる。一丁前に思春期を迎え捻くれたあたしは、今度は「どうせまた転校するし」なんて『冷め』を理由に、ますます友達ってものに執着しなくなっていった。
思春期を通り過ぎたあたりで、ようやくあたしは後悔する。
大人一歩手前までやってきた頃に、友達がいないという惨めさに気づく。
周りの女の子たちはみんなきらきらしている。
友達という相手と一緒に、目一杯おしゃれしておでかけして、恋愛相談や内緒話に華を咲かせて、幸せいっぱいの笑顔でケーキなんか食べたりしている。
胸を張れるような事ではないのは百も承知だけれど、あたしにはそんな相手、一人もいやしない。
一緒におしゃれして出掛けるような相手も、恋愛相談や内緒話をしてくれる相手も、ケーキを食べに行くような相手も、きらきらと笑い合ってくれる相手も。
あたしには友達がいなかった。
虚無のような花盛りはあっという間に過ぎ去って、気づけばあたしは二十歳を跨いでいた。
二十一歳のころ、世話焼きな伯母が『良い話』を持ってくる。田舎の時代錯誤な風習、お見合いだ。
友達ゼロ、という惨めさと虚しさに直面していたあたしは、現実逃避の一環だったのか、気まぐれにその見合い話を受けた。
人生とはわからないものだ。
流されるように乗った『良い話』で、あたしは後の夫となるひずるさんと出逢い、あろうことかふつうに好きになり、とんとん拍子で婚姻が決まった。最高のドラマチックを感じたわけじゃないけれど一片の悔いも無いあたり、選択は間違っていなかったのだと思う。
あたしたちが婚約した直後に、次兄が死んだ。
もともと体の弱い兄だったがあまりも突然すぎる訃報だった。
両親は完全に憔悴もしくは抜け殻状態。長兄は見事に代わりを果たしてはくれたが、彼は彼で既に家庭を持つ身であった為、すべてをこなすのにも限界があった。
せわしい葬儀をなんとか終え、無論、末妹の婚約話になど触れることのないまま親族が解散したあとで、あたしはあらためて次兄と向き合った。
骨箱となった彼の前で、ようやく落ち着いて手を合わせる。
おにいちゃん、おつかれさま。
兄への労いを心で唱えた直後だった。
「ごめんください、」
玄関から届く若い女の声。この地方では、血縁でない近所の者が葬儀後にも線香をあげに訪れるといった習わしがある。したがってこのタイミングでの来客はさほど珍しくもないし、こういった想定があるからこそあたしが留守番を任されていた。
役目をまっとうする心持ちで向かうと、玄関先では若い女が喪服姿で佇んでいた。知らない女だ。
「不躾な訪問で申し訳ございません。」
見知らぬ女。近所の人間じゃない。
それなのに、この瞬間あたしの頭に警戒の二文字は浮かんでいなかった。
「わたし、名塚と申します。」
なんてきれいな女だろう。
遠慮がちながらも、じっと見つめてくる眼差し。陽気にてらされた肌。ゆれる髪。すべてが透きとおるほどに美しい、知らない女。
「えっ? 名塚……?」
警戒をすっ飛ばして彼女のなまえに意識を置く。聞き間違えでなければ、彼女が名乗ったのは、婚約者であるひずるさんの苗字だ。
「はい。名塚ひずるの義理の妹、月乃です。」
婚約とはいえ、この時の段階ではあたしとひずるさんの口約束程度。見合いを取り持ってくれた世話焼きの伯母以外、親族間の顔合わせもまだだった。
そこも自覚してなのか、ひずるさんの義妹を自称する名塚月乃なる女は、やがておずおずと話し始めた。
「ほんとう、突然……こんなタイミングでごめんなさい。その、まだ正式に親族じゃないし……でも、無関係ってわけでもないし……でも、お義兄さんと同行っていうのも、ちょっと違う気がして……」
遠慮がちに連ねる曖昧な配慮と矛盾した行動が、不思議と理解できた。ほわほわと心地良い麻痺が心臓を包む。あたしは何の迷いもなく彼女を中へと招き入れた。
「そんなお気になさらないでください。御足労、ありがとうございます。」
スリッパを並べ、「どうぞ」と促す。彼女から目を離したのは一瞬だったはずなのに、再び視線を向けるやいなや、あたしは身動きができなくなってしまった。
愛らしい大きな瞳がじっと見据えてくる。きらきらとあたしを捕らえてしまう。
「────あのっ、」
その甘美な束縛に追い打ちをかけるがごとく、彼女は少しだけ声を張って、はっきりと告げた。
「お友だちになってください。陽ちゃん。」
兄の葬儀後、喪服姿。
初対面の、現時点ほぼ他人の、
後の義妹となる月乃ちゃんとの出逢いを、あたしはきっと生涯忘れない。