1 潭月
血だまりの真ん中で義弟は斃れていた。
身体じゅうに滲む無数の赤が、どこか安らかに見える彼の死に顔とまるでアンバランスで、目前に広がる非日常が、凄惨、であると認識するのに時間がかかった。
死を目の当たりにしているのだと気づかせてくれたのは、臨月を迎えたあたしの胎。
内側から蹴ってくる振動。まだ見ぬ我が子が起こす、胎動だった。
呼びかけの際、肩を叩かれるようなものだ。胎動によりふと我に返ったあたしは、目の前で起きている殺害現場にようやく戦慄する。
赤々と広がる血だまり。鼻をつく鉄臭さ。ぴくりとも動かない血塗れの義弟。
邂逅する、殺人犯。
義弟の死に顔を、義妹はまるで、すこやかに眠る愛し子を慈しむかのような眼差しで、穏やかに見据えていた。
真白いワンピースに血飛沫を飾り、両の手もその美しい顔にさえも紅を鏤めながら、包丁を握りしめたままぼんやりと、あたしのほうを向く。
あたしは、ふだんと同じ声で、彼女を呼んだ。
「……月乃……ちゃん、」
義妹も、いつもと何ら変わらない透明色の瞳を艶めかせ、
「……陽ちゃん。」
あたしを呼ぶ。
その瞳も、声も、彼女そのものも怖いくらい無垢に透きとおっていて、今一度恐怖できた。
白くて、白くて、透明すぎてわからなくなる。
この美しい、名塚月乃という義妹が。────────
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『3日朝、I市の住宅で名塚暁さん(28)が胸など数十箇所を刺されているのを親族が発見。搬送先の病院で死亡が確認された。通報を受けた警官により、妻・名塚月乃容疑者(26)を現行犯逮捕。月乃容疑者は現在妊娠6ヶ月であり、警察は慎重に捜査を進めている。』
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もはやテンプレート状態のトップニュースは今朝もまた、聞き飽きた概要を垂れ流す。
時刻は午前八時。カーテンを閉めきった薄暗い部屋で、あたしは現実逃避のごとく「初夏の日差しが勿体ないなあ」なんて考える。
今なら日本中の誰もが既知しているニュースのVTRが明け、番組出演者の神妙な面々が映ったあたりで息子がぐずりだした。
先月半ばに産まれたばかりの長男は、初産のあたしにも育てやすい子で、無駄泣きをしない。ぐずる時はたいてい、おむつかおっぱいのどちらかだ。
『────はい、連日お送りしております『I市会社員刺殺事件』ですが、月乃容疑者は依然動機について黙秘しているようです…………●●さん、この犯行にはどういった背景が窺えますか?』
おむつ替えの最中にも、報道は容赦無く耳を貫き続けた。
番組MCが眉間に皺を寄せながら、犯罪心理学なんちゃらなんてゲストコメンテーターに意見を求めている。そんなコメンテーターも、しごく当たり前のように眉間に皺を寄せ、指をすいすい動かした。
『いやね、こんな事ね、あまりテレビで言うもんじゃないんだけど、その、けっこう美人でしょ? この月乃容疑者って。近隣の取材だと夫婦仲は良かっただの、家族間にトラブルは無かっただの言っていますけどね、外野が予期せぬような事件ってことがそもそもの問題なわけですよ。おなかには赤ちゃんもいるって……ねえ。』
は?
あたしはあたしで、MCともなんちゃらコメンテーターとも全く違う皺を寄せる。
「犯罪心理学、関係ないじゃん。」
ぽつりと溢したとところで窓硝子が割れた。
けたたましい破壊音と同時に部屋にはガラス片が散らばり、床に転がった石が、外からの攻撃であると報せる。
慣れというものは、怖い。
あたしは、直で攻撃されるなんてリスクすら思いつかずにカーテンをめくった。割れた窓の向こうでは、一目散に遠ざかってゆく背中が三人ほど。
逃げるくらいならやめればいいのに。こんなこと。投げ込まれた石を拾いあげながら、あたしはぼんやりと息をおとす。石にはこれまた、見慣れた赤い文字が乱雑に刻み込まれていた。
『うせろ』 『人殺し一家』
「…………。」
罵倒の投石を持ったまま、ぼんやりと視線をベビーベッドへと移す。
……よかった。破片は飛んでないみたい。
ごめんね。こんな、おちついちゃって。慣れちゃって。でも、こんな騒動に泣かないあなたも大概よ?
ベッドで健やかに眠り続ける息子の寝顔に、あたしは、感嘆と降参の間くらいの薄い笑みをこぼしてから、ゆっくりガラス片を拾い始めた。
先月末に産まれたばかりのあたしの長男、
「あなたはほんとうに、育てやすい子。……愛しているわ、旭。」
名前は、旭。
名塚 旭。
「ねえ、旭。
どうして、あなたの叔母さんは、叔父さんを、殺しちゃったのかしらね。」
言葉もわからぬ赤ん坊相手に、答えなんて出ない疑問を、あたしはあてもなく囁いた。