5−3: 知性革命と社会
避難所が設けられてから二年が経ったころ、変化があった。傍目には、大きな変化ではなかったかもしれない。だが、避難民の移動が増え、軍の兵の失踪もあった。軍は、軍としての機能を失いかけていた。
どこかに明らかな戦場があるなら、軍も持ち堪えられたかもしれない。だが、すくなくとも汚染地域以外のどこもが潜在的な戦場だった。ときには汚染地域であってさえも。
誰かが明らかな敵であるなら、軍も持ち堪えられたかもしれない。だが、テロリスト、原理主義者に限らず、誰もが潜在的な敵だった。それはときには暴動であった。ときにはどこからか、あるいは誰からか武器を与えられた戦闘であった。
なにを、そして誰を守ることが明らかであったなら、軍も持ち堪えられたかもしれない。だが、それも明らかではなかった。
それからしばらく、大学課長は一時の世を謳歌した。だが、どこからか来た者たちがその上に立った。彼らのやりかたは、大学課長のようなものではなかった。すべての本を燃やした。先生は連れ去られた。それでも、もし無事なら、先生は幸運だったのかもしれない。修士、あるいは博士の学位を持つ者は、全員消去された。あるいはそのように聞いた。大学生、あるいは学士の学位を持つ者は、知識を用いないとの宣誓をさせられた。宣誓を拒んだ者は、やはり消去された。
大学課長は、それでも私を守ろうとしていた。あくまで利用しようとしたのか、それとも思うところがあったのか、それはわからない。律法は、律法全書にあるようなものだと考えていたのか、それともトリロジーにある戒めのようなものも想像できなかったのか、それはわからない。
彼は避難所に残っていた。彼には家族がいた。二人の息子がいた。彼が二人の息子に言っていたことを聞いたことがある。
「お前たちは、今から高卒だ。大学など出ていない」
それは、家族を守るためだったのだろうか、それともただの目安としてであっても知性への憎しみのようなものからだったのだろうか。それはわからない。
彼の上に立つ者たちが来たとき、そして来てから、彼は上に立った者たちに従ってはいたようだった。それで彼の居場所を確保できたのかはわからない。どのように確保しようとしたのかもわからない。
ちょうどその頃だった。私は教父に率いられて逃れた。何箇所か転々としながら、最後にはこの聖ライプニッツ修道院に辿り着いた。
古い修道院だった。だが、看板は新しかった。最近名前を変えたのかもしれない。建物は古くとも、私であっても敷地内を教父に案内されていると、いくつか目につくものがあった。隠された太陽電池、風車に偽装された風力発電機、風見鶏に偽装された風力発電機、そしてアンテナ。効率も無視された偽装だった。
修道院の中に入っても、私にもわかる偽装があった。建物内部に設置されたいくつもの雨樋とたて樋。すこし外との様子と比べてみればわかる。建物が増設されたものだったとしても、内部にそれらがある理由はない。教父に、そこには何種類ものケーブルが通っていると聞いた。
地下室の二つには、上からたて樋が通って来ていた。それはいくつもの大きさの樽の後へと隠れていた。樽には整流器、インバータ、バッテリー、計算機などが隠されていた。
書庫も見せられた。通常の書庫と汚染対策がなされた書庫があった。
教父は一通り修道院を案内すると、私に端末を渡した。
私は掌にある端末を見て思った。これが備えなのかと。たったこれだけが備えなのかと。私には見せていない部分もあるのだろう。だとしても、たったこれだけが備えなのかと。
それから数年が経った。ときにやって来る人に聞くと、現在、地上に組織と呼べるものがあるなら、それはテロリストと原理主義者によるもののようだ。そして、それらの下位に位置する地方自治体。人々にはなにも変わらなかったように思えたかもしれない。多くの人を消去したことを思い出しさえしなければ、なにも変わっていないように思えたかもしれない。そして、その消去は正しいことだった。この世界においては。この正しい世界を作るためには。
教院は中枢を捨て、修道院のネットワークが残った。そのネットワークは隠されていた。なにが幸いしたのかはわからないが、修道院はまずは安全だった。そして、そのために修道院のネットワークもまた隠されており、安全だった。ネットワークの通信が傍受されていることを疑う理由はない。だが、デジタル暗号化されており、それはテロリストや原理主義者の間の通信、あるいは自治体の間の通信と区別はつかなかっただろう。もちろん、三角測量という単純な方法はある。にもかかわらず、追求されることがないということは、知識を用いないとの宣誓をさせられた者は、その宣誓を守っているのかもしれない。それとも、そうであるように相互監視しているのか。
修道院には表向き通信手段はない。ときに人がやって来た。ときに馬がやってきた。ときに早馬がやってきた。それらは修道院への要求を伝えていたようだった。それでも修道院長はのらりくらりと不干渉と孤立を維持していた。
さらに何年か経つうちに、修道院間のネットワーク以外の通信は減っていった。機器の故障によるのか、それとも技術の放棄によるものかはわからない。修道院で使っている機器にも、あやしいものが現われるようになった。修道院にも予備がある。汚染地域にも予備がある。それが動けばだが。
先生や、先生を手伝っていた若者が言っていた、そして教父が言っていた、失なわれていくという言葉の意味がわかってきたと思う。先生や、先生を手伝っていた若者が、失なわれていくことをどれほど怖れていたのかがわかったように思う。
私が教父とともに修道院に来るまでに失なわれたものは、掌にすくいきれない水だった。だが教院により、多くの掌が差し延べられていた。今は、掌に残ったものすら消えていっていた。継承する者がいなくなる。そうなったら、それは断絶だった。復活への望みは遠退く。
人々はどう思っているのだろう。
人が修道院にやって来たときに訊ねたことがある。指導者の恵みによってであるとか、神の恵みによって善い世界、あるいは正しい世界が得られたと言われているらしい。
それだけでは、外の世界が結局どの時代に落ち着いたのかはわからない。外の世界を見る必要がある。そう思い教父に相談した。だが返ってきた答えは簡単なものだった。
「もちろんやっているよ。不干渉、孤立のために公開していないだけで」
せめてどういう状況なのかだけでも訊ねてみた。
「どう言えばいいのかな。昔はよかったという人もいる。だけど、なにができて、どうよかったのか、どのようになっていたのかの説明ができない。経験を共有している人の間ではそれで通じるけれど、子供たちには通じない。端末は言うまでもなく、コンクリートはもう作れなくなったそうだよ。現代的なものにしてもローマン・コンクリートにしても。アスファルトもない。原油の採掘ももうされていないのかもしれなね」
紀元以前に戻ったことなのかとも思う。さまざまな要因があるだろうから、それだけでそうと判断することもできないだろうが。たとえば、銃はまだあるだろう。弾薬も。古代ローマにそれらはなかった。
では、子供たちはどう思っているのかと訊ねた。
「そこには社会上位の連中のかかわりかたに二種類あるようだよ。一つは、だからこそ邪悪な魔法を駆逐したのだと、親や自分たちを英雄視させる方向。多少なりともそういうことを話せることや、英雄視させる方向を考えると、まぁ、原理主義じゃない連中だろうね。もう一つは、似てはいるが、自分たちは楽園に帰ったのだというものかな。知恵の実を食べるまえの純粋な状態に戻ったとね」
大学課長の「俺たちは単純だ」という言葉が蘇える。今の世は楽園だろうか。おそらくはそうなのだろう。理解できないものは世からおよそ消えただろう。だが、それでも理解できないものは残っているはずだ。それらはどう思われているのだろう。それは上位のものの御業、神の御業なのだろう。あるいは唾棄する対象なのかもしれない。
そうして、日一日と本当の楽園へと近付いていく。修道院、あるいは修道院のネットワークにおいてさえも。
失なわれていくことへの怖れから、私は祈った。聖ライプニッツに祈った。
「神ノ御世ハ偉大ナルカナ。論理ノ灯ノ消エザルコトヲ」
そして、それは習慣に、日課になった。
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設定資料はこちらからどうぞ。リンクを知っている人のみ閲覧可なので、右で領域選択して飛ぶとかしてください。
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1oSPPT3uJMPf9sZ-Hc56AGKt0lYYb7FnMyypUptqjehI/edit?usp=sharing
基本的にミラー Jrの「黙示録3174年」と「Methuselah」(http://ncode.syosetu.com/n9320cn/, https://scifi.skoba.org/methuselah-%E7%9B%AE%E6%AC%A1-36b0fc5a6e8d#.nv8r2z4of)を読んでいただいていることを前提としています。




