5−1: 知性革命と教院
そうして、二十年が過ぎた。
先生が言ったように、私は教院の庇護下に入った。
教院は備えていた。だが、いつから備えていたのだろう。なにに対しての備えだったのだろう。なぜ備えていたのだろう。教父の言葉を信じるなら、それは一冊のフィクションに基くものだった。それが書かれた時代の情勢はあったのだろうと思う。だが、それが書かれてから時代が変わり、情勢も変わった。にもかかわらず、なぜ備え続けていたのだろう。それとも、情勢が変わったからこそ、備え続けていたのだろうか。
この二十年で教院は、正確には教院という組織を捨てていた。中枢はもはや存在しない。いくつもの修道院によるネットワークがあった。急造された修道院もあった。隠遁を装うには、一つの形なのだろう。
それでも、知性革命から逃れられたとは言い難い。教院を継ぐかぎり、教えの書トリロジーが基盤にあった。質素な暮し、教えの書トリロジー。それは知性革命の一部には受容された。
だが、教えの書トリロジーすら捨てようとする一派には受容できるとは限らなかった。それには、私も一定の責任があるだろう。律法をこそトリロジーに置き換えようとする一派だった。
さらには、修道院でありながら汚染地域に出向くことも疑いの対象となった。表向きは、それらの地への祈りであった。だが、そのための装備には疑いを持たれてもしかたがなかっただろう。そして、隠してはいたものの、汚染地域から持ち帰る本やメディアがあった。なんのためにと訊かれた。多くの本は汚染地域の境界で燃やされ、メディアは壊された。知性革命のために、と答えていた。だが、一人が一冊、あるいは二冊を隠していた。時にそれらが見付かり、調査隊が消去されることもあった。
それでも、すこしずつ本やメディアが集まった。プロジェクト・フランシスが長く続いた。だが、それが長く続くほどに、さまざまな機器も技術も失なわれていった。
先生との約束である論理法は、ほかの法学者と科学者と話し合っても、その進展は芳しくなかった。ある律法の理由は、別の律法によって説明できる。だが、そうであるかぎり、どこかで理由もなく、説明もできない事柄に辿り着く。ならば、それが論理法における公理なのか。それは、まだいくつもの要素からなっているように思える。国民、いまとなってはむしろより現実的に人間としてそれを考えることができるが、それはどう言えるのだろう。人間についての記述すらできない。人間とはなんなのかの公理すら記述できない。それができないのだから、律法についての記述すらもできない。律法とはなんなのかの公理すら記述できない。律法に従う理由についての記述すらできない。律法に従う理由についての公理すら記述できない。
おそらくは、なにかを間違っている。法学と法務が主導するかぎり、論理法はその端緒にすら着かないのかもしれない。
そして今に至り、プロジェクト・フランシスからプロジェクト・リーボウィッツへの部分的な移行がはじまった。技術が失なわれないうちに、すこしなりともはじめておかなければならない。隠された太陽電池、風車に偽装された風力発電機、風見鶏に偽装された風力発電機、そしてアンテナ。効率も無視された偽装だった。地下室にある整流器、インバータ、バッテリー、それらは樽に隠されていた。見る者が見ればわかるのだろう。
見付かってしまうまでに、技術が失なわれるまでに、できるかぎりの転記と復元を行なわなければならない。
もし、知性革命がなされたなら、隠しおおせるのかもしれない。機器の予備は、皮肉なことに汚染地域にある。機器の寿命や劣化が追い付いてしまうまでは。




