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知性がなしたものを見よ  作者: 宮沢弘
第四章: 人間ハ悪魔ノ使イナリ
18/23

4−3: 法務博士と科学者

「先生」

 その兵の声に、目を開けた。まだ暗く、静かだ。ところどころで咳の音がする。

「先生、来ていただけますか?」

 私は毛布と上着を除け、あらためて上着を着た。

 兵のあとを着いて歩きながら考えた。

 昨夜はよく眠れなかった。医師は言っていた、「普通なら、もう一剤くらいは出せますが」という言葉を考えないでもない。もう一剤、あるいは二剤の追加があれば、もうすこしは楽になるだろうとは思う。

 先日、医師の診察を受け、薬を貰っているときに大学課長が言った言葉も思い出した。

「あんな人工物に頼るのはな、免疫が不活性になっているからだ」

 何人かがその男を取り巻いていた。

 面白いことを言うものだと思った。産業革命前後、あるいはルネサンス期でも、紀元前後でも、あるいは紀元前5,000年ごろでもかまわない。効能のほどはともかく、薬を使わなかった文明があっただろうか。

 ウィッチ・ドクターであってもかまわない。プラシーボ、変性意識、なんであってもかまわない。効果のほどはともかく、医療がなかった文明があっただろうか。効果のほどはともかく、薬を使わなかった文明があるだろうか。

 あの男は産業革命前後ほどを目指すと言っていたように思う。その当時、どれほどの病が命を奪っただろう。その当時、栄養状態からどれほどの命が奪われただろう。

 兵のあとを着いていくと、軍のテントの裏手に着いた。テントから漏れる明りがあった。そこには、律法と唱えている若者がいた。その若者は会釈をした。私も右手を挙げて応えた。

「こんな時間にすみません」

「今日は律法全書は持っていないのか?」

 私は笑みを浮かべたつもりだった。

「今日は、先生に警告に来ました」

「警告? それならいらないよ。もう充分に経験している」

「でしょうね。ですが、もっと激しいものになります。それに先生だけを対象にしたものからも変わります」

「もう変わっているだろう?」

 その若者はしばらくうつむいていた。

「彼には、なにかを教えてもらいました。まだ、それがなんなのかはわからないのですが」

「なら、彼は、彼を継いでくれる人を育てたのかもな」

 若者はまた、しばらくうつむいていた。

「あの男は産業革命前後と言っています。ですが、他のテロリストや原理主義者には、ルネサンスの頃、それ以前の時代、紀元前後の時代、さらには石器時代までの退行の思惑があるようです。おおむねルネサンス期への退行を目指す方向になりつつあるようですが」

「ルネサンス期? どういう時代だったのかを知らないのかもな。まぁ、現在と比べれば、どれであっても大差なかろう? いや、石器時代はさすがに違うか。君にとっても」

「かもしれません。ですが、あの男が考えているのは、あるいはテロリストや原理主義者が考えているのは、結局はそういうことではないんです。おわかりでしょう? 単純であることが至高だと考えている」

 あの男が言った「俺たちは単純だ」という言葉を思い出していた。

「それなら、実質的に現在と変わらないだろう? それに、人間は何回かそういうことを繰り返している。それでもやり直していたんだ。千年かかるかもしれないが、人間はまたやり直すだろう」

「先生、それは文明の残滓が残ったからだし、文明の一部が他の土地に保存されていたから……」

 私は右手を振って、若者の言葉を遮った。

「あぁ、そのとおり。なら、なぜ今回はなにも残らないと思うのかな?」

「この状況では、どれだけ残るでしょう?」

「残るんだ。残るんだよ。それでも残るんだ」

 若者は私を見た。私の目を見た。

「彼に言われました。信念はあるのかと。先生の行動も、残ると言うことも、信念なんですか?」

 私は考えた。私はなにを信じているのか。

「わからないな。私は、私があるようにある。それだけだよ」

 私はまた考えた。律法を唱える若者に、これを言っていいのかと。

「あの男は、こう言っていたな。『知性の結晶たる律法によって正しい世界を作る』と」

 若者はうなずいていた。

「まず第一に、律法は知性によるものではない。愚者による、愚者のためのものだ」

 若者はなにかを言いかけたが、また私は右手を振ってそれを遮った。

「第二に、『正しい世界』などというものはない」

「でも、犯罪などがない……」

 三度、私は右手を振ってそれを遮った。

「そう、なにを犯罪とするか、それは律法によって定められる。律法が正しいことと、誤ったことを定める。なら、その律法の正しさはどうやって確保、あるいは証明できるのかな?」

「ですが、絶対に正しいことや絶対に悪いことというのはあるはずでは」

 私は首を振ってから答えた。

「そんなものはないんだ。科学的に禁止されていないことなら、なんでもできる」

 人差し指で若者を指差した。

「君たちがやっているように」

 若者は、「君たち」と今も言われることをどう思っただろう。

「もし、君が信じる対象に値する律法というものがあるのなら、それは論理法とでも呼べるものだろうな。法論理ではないよ。それは愚者による、愚者のためのものを、愚者がこねくり回しているだけだ」

「それでも……」

 私はまた首を振った。

「それでもと言うなら、教父と話しなさい。彼なら適切な答えを言えるだろう」

「先生は、こう感じたことはありませんか? 正しいことをなせ、信念に基いてことをなせ、そうみつめる目があるような」

「ないな。さっきも言ったが、私は、私があるようにある。ただそれだけだ」

「教父さまは、答えを教えてくれるでしょうか?」

 驚いて、私は若者をみつめた。

「答えを教えてくれる? 教父になにを求めているんだ? こんなことに答えなんかないぞ。私は、私があるようにある。同じように、君は、君があるようにある。それだけだ。もし、君があるようにあるのでないなら、そのありかたは君の認識能力の外にあるということだ。紫外線を見ることができないように、超音波を聞くことができないように」

「あの若者は信念があるのかと訊きました。ですが先生は信念などないと言っているように思えます」

「律法を必要とする者もいるだろう。信念という言葉を必要とする者もいるだろう。彼は、君にはその言葉が必要だと考えたんだろうな」

 若者は黙っていた。

「考えなさい。私はもうすこし横にならせてもらうよ」

 私は避難所の中に戻って行った。わからない人にはわからないだろう。あるようにある。ただそれだけのことだ。それの説明のしようなどない。それを知っているかどうかだけだ。教父になら、もしかしたら説明できるのかもしれないが。

 上着を脱ぎ、横になり、毛布と上着を被った。まだしばらく、眠れない辛い時間が続く。


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