4−2: 法務博士と大学課長
夜になり、やはり大学課長に呼び出された。聞かれることは決まっている。
課長に先導されて避難所の裏手に回った。数人が既に待っていた。避難所と周辺の夜間照明で、薄暗いもののおよその人相はわかる。あの若者を私刑にした連中だ。
「教父のところに行ったそうですね。何を話したのか教えてもらえませんか?」
薄暗いからこそだろうか。課長の笑顔が歪んで見える。
「不安だ。いつ状況が好転するかも見えず、不安だ。ただ、そういう話でした」
「好転? もう好転しているじゃないですか? 同志とも連絡が取れる。あとは消耗戦で軍が疲弊し解体していくのを見守るだけだ」
そう言いながら課長は私の後に周った。
「そのあとに、正しい秩序による正しい世界を作るだけです」
「その正しい秩序は、誰にとってのものなんですか?」
振り返ることができないまま訪ねた。
「誰にとってもですよ」
若者の目が私を見ていた。教えの目が私を見ていた。だが、それらにはいつもの怖さは感じなかった。
「正しい秩序とはどうやって担保されるんですか?」
「そのときに、できる範囲で最善の選択を」
「でしょうね。ではその最善とはどういうものですか? 情報の流通は滞り、それでどうやって最善の選択をするんですか? 知りうる限りを知り、考えうる限りを考え、議論の限りをつくす。最善の選択とはそういうものではないのですか?」
「もちろん、そうですよ。知りうる限りを知って、考えうる限りを考えます。ですが律法者の君にはわかるはずだ。現実という制約がある。その中で最善の選択を」
若者の目が私を見ていた。教えの目が私を見ていた。それらが、むしろ信念に似たものを与えてくれる。
「それを最善と呼べるのですか?」
「できる限りの最善、ですね。それ以上を望むことができますか?」
「いいや、違う。それはせいぜい次善だ。科学技術がそれを可能にしたかもしれないのに」
若者の目が私を見ていた。教えの目が私を見ていた。それらは確固とした立脚点を与えてくれる。
「最善が存在するとしても、それを実行するのは不可能でしょう? 律法者であるあなたにはわかっているはずだ。戦争前の科学技術があったとしても、その実現は不可能ですね。さまざまな意見がある。それをまとめる? 無理なことだ」
「無理? どういう根拠でそれを無理と言うんですか? それを無理だ、不可能だと言えるのは…… 言えるのは、すでに最善をつくした人だ」
「ですが、最善の結果、どう統治できたというんですか?」
「最善の結果の一つとして律法がある」
課長は声をあげて笑った。
「えぇ、えぇ。律法には期待しています。たとえば、私が、私は正しいと叫んでも無駄でしょう。ですが律法にこうあると言うなら話は違う。だから律法者のあなたにも期待しています」
「それならはっきり言いますよ。科学技術があなたの手に負えなかったように、私たちが持っている律法もあなたの手に負えないでしょう。私がいつも持っている律法全書を知っていますね? すこしでも理解でき、かつ運用できると思いましたか?」
正面にいる男の一人が突然殴ってきた。
「私に科学技術が使えなかたですって? もちろん使えていましたとも。君だって計算機を使っていたでしょう?」
「使えていたのと、科学技術を知っていたのは別の話だ」
私は頬に手を当て、立った。
「物を投げれば放物線になることは知っている。だが、それはニュートン力学を知っていることとは違う」
また正面の男が殴ってきた。
「つまり、あなたが産業革命前後を目指すというのは、あなたに理解できるのがせいぜいそこまでだからだ」
私はまた立ち、そして殴られた。
「私が中世のルネサンスの前を目指すのは、それとは違う。そこが律法による楽園だと信じるからだ」
若者の目が私を見ている。教えの目が私を見ている。
「あなたが産業革命前後を目指すのは、あなたの限界がそこだからだ。もっと正確に言うなら、あなたに理解できるという幻想の限界がそこだからだ」
私はまた殴られた。若者の目が私を見ている。教えの目が私を見ている。私はまた立った。
「あぁ、俺たちは単純だからな!」
「あ、あなたは、そう、単純だ。なにも理解できないし、していない。科学技術も律法も。あなたにあるのは、支配欲だけだ」
「そうとも。どれほどの群だとしてもアルファが必要だ。忌々しいが、連中が言っていたことだ。単純でいいじゃないか。そしてこの場でリーダーに相応わしいのは誰だ」
「だとしても、それはすくなくともあなたじゃない」
私はまた殴られた。目の前にいる何人かから。
「私だよ」
上から声がした。
「私以外の誰が相応わしいんだね?」
今度は蹴られた。何本もの足に、何回も。
「わかるかね? 私が相応わしいんだ」
若者の目が私を見ている。教えの目が私を見ている。
こんなことで折れる自分自身が悔やしい。
若者の目が私を見ている。教えの目が私を見ている。それらが恐い。それがどれほどのものかがわかりかけ、恐ろしくなった。
「わかっただろう? 君は私の横で律法を唱えていればいいんだ」
そう言って大学課長と、ほかの何人かは去っていった。
律法よりも重要なことがあるとわかった。もしかしたら教えの理解に近づいたのかもしれない。もしかしたら若者が言っていた信念に近付いたのかもしれない。
私は大学課長にも劣っていた。
ほかの避難所や、テロリスト、原理主義者と現実に相対したときに、彼がどういう行動に出るのかはわからない。だとしても、今の彼には信念がある。それは信念とは呼べないのかもしれない妄執、妄想、それとも心理学でいう補償行為や防衛機構なのかもしれない。
だが、それでも、若者の目が私を見ている。教えの目が私を見ている。この目は消えることはないだろう。若者が言った信念とは違うのかもしれない。あの科学者のように、見られなければならない人間でありながら、自分自身で見えいるのとも違う。
それでも、若者の目とも教えの目とも違う目を感じはじめていた。それは私自身の目なのだろうか。




