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知性がなしたものを見よ  作者: 宮沢弘
第三章: 知ハ悪魔ノ誘惑ナリ
15/23

3−5: 法務博士

 こんなことになるとは思っていなかった。彼が私に信念を訊ねたとき、ただ、やはり彼は危険だと思った。

 議論は勝つか負けるかだと思っていた。あるいは、議論によって得られるのは妥協だと思っていた。信念もとづいた議論など存在しないと思っていた。利益、利害、それらを勝ち取るか妥協するか。そこには信念など必要ない。もしあったとしても、それは自分こそが、あるいは自分の側こそが正しいという信念だろうと思っていた。

 律法と科学は違うのだろうか。科学には妥協も勝ちも負けもないというのだろうか。律法は限られた時間で結論を出さなければならない。世の安寧のためには、そうでなければならない。そうでないなら、不法や不道徳が世に満ちるのを横目に見るしかない。科学においても派閥が勝つことによっているのではないのか。そうでなく、どうやって結論を出しているというのか。

 だが、そうなのだろうか。妥協せず、勝ちも負けもない議論は存在しないのだろうか。

 彼は黙って私刑を受け入れていた。その彼と一回だけ目が合った。それは偶然だったのだろう。それとも、私が逃げていたからか。その目が蘇える。彼が言った信念と、私が思っていた信念は同じものだろうか。

 辞典を開いても、律法全書を開いても、そこには彼が言った信念についてはなにも書かれていないように思えた。それは、言葉にするなら信念としか言えないのだろう。だが、その言葉にしてしまうと、彼が言っていたことの一部たりともそこには含まれていないように思えた。

 もし彼が私を信頼したというなら、何を信頼したのだろう。律法によって議論に勝ち続けることか。私が、あるいは律法が正しいと論破しつづけることだろうか。

 そうではないように思える。言うなら、負けても残るもの。負けようとも信じざるをえないもの、それが彼が言う信念のように思えた。

 しかし、負けたらどうなる。負ける信念になんの意味が、なんの価値があるだろう。

 それは、信念ではなく、信仰ではないのか。間違いすら信じ、負けることすら受け入れる。自分の正しさを、あるいは自分が正しいことを信じる律法とは違う。私とは、あるいは私たちとはまったく異なる理解だ。

 信じるに値するなにかがある。それは私とは違う。信じるなにかは、利益、利害から作り出し、そこに据えるものだ。そうでないなら、それはやはり信仰と同じではないのか。

 だが、昨日の夕方、あの男に彼のことを話したのはどうだったのか。利益、利害、確かにそれらがあった。私が目指すものに害となるという気持はあった。彼は害をなす。それは私の信念であったのではないか。

 それではあっても、彼が言った信念、信頼という言葉が、腹の中で落ち着かずに蠢いている。一目だけ見た彼の目が訴えている。私の信念を信じると。

 ならば、私が信念と思い、信頼と思っていたものは、信念でも信頼でもなかったのか。議論――もし、それが議論たりえないとしても――に勝つために信じたことは信念ではなく、利害の一致するものと共に論を張るのは信頼ではなかったのか。

 それでも、私はこの本を信じる。信念とはそういうことなのだろうか。律法全書がすべてである思っていた。それがすべてを指し示していると思っていた。信念とはそういうことなのだろうか。

 もし議論の勝ち負けとは関係なく、私が信じるものがあるとすれば、それは律法全書だ。ならば、この、律法全書を信じるということが、彼が言った信念なのだろうか。それとも、律法が必要だと、律法を信じるということが、彼が言った信念なのだろうか。

 だとするなら、そこには信じる形あるものはない。寄る辺となるものはなにもない。

 それでなにを信じるというのか。形を持たないものを信じるのが、信念なのか。心構え、姿勢、それがどうあるのかを信じるのかを信念なのか。

 それは、教えを信じるというのと同じに思える。教えを信じよ、自分の信念を信じよ。なにが違う。

 違いはある。教えは共にあり、そして教えは私たちを見ている。そう考えるなら、律法もそれに似ている。律法が見ている、あるいは見ている者がいる。ならばこそ正しい行ないが必要とされ、正しい行ないをすることができる。

 だが、彼が言った信念とはなんだ。自分自身を見るものはいない。信念など、好きなように変えられる。それが行動の基準になるだろうか。

 それとも…… あの科学者を思い起こした。信念とはあの若者が持ち、あの科学者が持っているものなのだろうか。見られなければならない人間でありながら、自分自身で見ている。そんな頼りないものを信念と呼ぶのだろうか。

 この避難所にいる人々を見ればいい。そのような人がいるだろうか。あの男に扇動され、それを受け入れ、彼を頂点とみなしている。そうしていないのは軍と医師と教父、そしてあの科学者とあの若者だけだった。軍は彼らの規律がある。それらから外れるのは医師、教父、そしてあの科学者とあの若者だけだった。

 宣誓も信仰も信念もそれほど強いものだろうか。

 もし、誰もがそのような信念を持つなら、その世界に律法は必要だろうか。

 それとも、テロリスト、原理主義者は彼らなりの律法に則っている。では、律法とはなんなのか。

 彼の目が蘇える。信念、信頼。彼が言ったそれらは、いったいなんなのだろう。

 もし、私が信じる律法というようなものとは違う、何か信念そのものと呼べるものがあろうのだろうか。もし、あるのだとしたら、それを見付けなければ、彼の目は私を見続けるのだろうか。


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