3−3: 若者と法務博士
先生を胡麻化せたとは思わない。ただ、負担には思われたくなかった。
先生が本を手に持ち、床にノートを広げて話をしていたのを見たとき、それまでの苛立ちは消えた。先生のノートが、ι(イオタ)の老人が標を書いた岩に見えた。その岩の下にある。たとえ埋もれていても、そこにある。先生の前に座って話を聞いている人々が、きっとそれを見付ける。連中が奪おうとしても、奪えないものがそこにある。
だから、彼とだけは話しておかなければならない。もし知恵の結晶だと彼が信じているものがあるのなら、話しておかなければならない。それには、軍の協力もあった。
そうして今、避難所の脇で、軍のテントの裏で、彼と二人で立っていた。
「なんの真似だ」
彼は一層強く本を抱えて言った。
「話をしたいだけだ」
「その、横にいる兵はなんだ」
「あぁ、念のために。でも君に対してのじゃぁない」
「こんなことをして、あの人が知ったらどうなるか」
「そう、その『あの人』が問題だ」
そう言って彼の目を見た。
「あの人は律法云々と言っているな? だが、それは君が信じる、人間の英知の結晶としての律法と同じものなのか?」
「律法に間違いはない。なら、誰が言っているなど関係ないだろう」
「本気でそう言っているのか?」
私の問いに、彼は何回かうなずいた。
「いいか、もう一度聞くぞ。本気でそう考えているのか?」
彼はやはり何度かうなずいた。
「今も軍を使っているし、教父とも繋がっていることは聞いているぞ」
彼が話しはじめた。
「軍がやっていることは何だ? 人々を抑えこんでいるだけだろう? それでも規則に従って動いている。その規則がなかったらどうなる?」
「それで?」
「教院はどうだ。古臭い教えの書トリロジーにしがみ付いている連中だ。原始人が書き残し、それをさらに都合によって好きなように書き換えた代物だ。それでも連中も規則に従って動いている。その規則がなかったらどうなる?」
私は首を振った。
「じゃぁ聞くがね、律法だとか権利だとか契約という概念はどこから来ている?」
私は彼が抱えている律法全書を指差した。
「り・律法は、人とともに、あり」
「なんだそれは? 法学、いや法務はトリロジーをテトラロジーにしようとしてるのか? やめてくれよ、まったく…… そうじゃない。トリロジーの中のどこからだと聞いているんだ。トリロジー以前のものを引いてももちろん構わないが」
「トリロジーが編まれたころにはすでに法の概念があり、それが組み入れられて」
「あぁ、そのとおり! だがな、俺が聞いているのは、それはどれを指して言っているのかってことだ」
彼は焦点が合わない目で私を見ていた。
「おい、やめてくれよ。それでも専門職課程を出た法務博士なのか? それとも、法学部ですら今じゃぁそんなことも教えていないのか?」
「律法は公共の安寧のために……」
「やめてくれ。おい、あんた、やっぱり司法資格は持っていないんだな? 宣誓したことがないんだな?」
彼の両肩を掴み、揺った。
「せ・宣誓が存在しない、君たち理系の人間に言われることじゃない」
「戻ってきたか。ヒポクラテスの誓いってのはあるぞ? それ以外にも、誓いはしないが叩き込まれる」
「君は医師じゃないだろう……」
「残念ながらな、医師免許くらいなら持ってる。ついでに医学と工学の学位もな」
彼は私の目を見た。彼の両肩にかかる私の手も、腕も。
「それが…… それがなんだ。律法のことは知らないだろう」
「あぁ、知らない。だから、あんたに聞いているんだ。あんたが信じる律法は、あいつと同じなのか?」
私は手を戻し、彼が抱えている本を指差した。
「そして、律法の基盤はどこにある? トリロジーを捨てるのか?」
「律法をトリロジーなんかと一緒にしないでくれ! あんな戯言なんかと!」
「そう言うなら、基盤を捨てればいいさ。だがな、あいつはどうなんだ? 他にもテロリストも」
「た・正しい律法による…‥ た・正しい社会を作るには必要なんだ」
彼の目を見た。じっと見た。彼はすぐに目を逸らしたが。
「それがあんたの信念なんだな? 何があろうと曲がらない信念なんだな? あの先生のように、こんな状況でも続けようとする信念なんだな?」
「私の信念は…… 律法とともにある。だからこそ、あいつを、あの連中を利用してでも……」
彼の頬に手を当て、こちらを向かせ、彼の目を見た。
「それがあんたの信念なら、あんたが信念を持っているという点だけは信頼しよう」
「信頼するのか?」
「あんたが信念を持っているってところだけはな。それは俺たちの信念とは違うかもしれない。だが、あんた自身の信念に沿って、あんた自身の信念から外れることがないなら、議論の相手にはなる」
「互いの信念に齟齬があったら?」
「言っただろう? 議論するのさ。それは法学や法務の中でだって同じだろう?」
彼は何回かうなずいた。
「じゃぁ、戻ってくれ。あとから俺はまた先生のところに行く」
彼は小走りで去って行った。
彼一人ではこの状況に対応できるものではないかもしれない。だが、そういう信念を持つ人は彼一人ではないだろう。今はただ種を蒔けばいい。先生がそうしているように。




