↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
知性がなしたものを見よ  作者: 宮沢弘
第三章: 知ハ悪魔ノ誘惑ナリ
PR
13/23

3−3: 若者と法務博士

 先生を胡麻化せたとは思わない。ただ、負担には思われたくなかった。

 先生が本を手に持ち、床にノートを広げて話をしていたのを見たとき、それまでの苛立ちは消えた。先生のノートが、ι(イオタ)の老人が標を書いた岩に見えた。その岩の下にある。たとえ埋もれていても、そこにある。先生の前に座って話を聞いている人々が、きっとそれを見付ける。連中が奪おうとしても、奪えないものがそこにある。

 だから、彼とだけは話しておかなければならない。もし知恵の結晶だと彼が信じているものがあるのなら、話しておかなければならない。それには、軍の協力もあった。

 そうして今、避難所の脇で、軍のテントの裏で、彼と二人で立っていた。

「なんの真似だ」

 彼は一層強く本を抱えて言った。

「話をしたいだけだ」

「その、横にいる兵はなんだ」

「あぁ、念のために。でも君に対してのじゃぁない」

「こんなことをして、あの人が知ったらどうなるか」

「そう、その『あの人』が問題だ」

 そう言って彼の目を見た。

「あの人は律法云々と言っているな? だが、それは君が信じる、人間の英知の結晶としての律法と同じものなのか?」

「律法に間違いはない。なら、誰が言っているなど関係ないだろう」

「本気でそう言っているのか?」

 私の問いに、彼は何回かうなずいた。

「いいか、もう一度聞くぞ。本気でそう考えているのか?」

 彼はやはり何度かうなずいた。

「今も軍を使っているし、教父とも繋がっていることは聞いているぞ」

 彼が話しはじめた。

「軍がやっていることは何だ? 人々を抑えこんでいるだけだろう? それでも規則に従って動いている。その規則がなかったらどうなる?」

「それで?」

「教院はどうだ。古臭い教えの書トリロジーにしがみ付いている連中だ。原始人が書き残し、それをさらに都合によって好きなように書き換えた代物だ。それでも連中も規則に従って動いている。その規則がなかったらどうなる?」

 私は首を振った。

「じゃぁ聞くがね、律法だとか権利だとか契約という概念はどこから来ている?」

 私は彼が抱えている律法全書を指差した。

「り・律法は、人とともに、あり」

「なんだそれは? 法学、いや法務はトリロジーをテトラロジーにしようとしてるのか? やめてくれよ、まったく…… そうじゃない。トリロジーの中のどこからだと聞いているんだ。トリロジー以前のものを引いてももちろん構わないが」

「トリロジーが編まれたころにはすでに法の概念があり、それが組み入れられて」

「あぁ、そのとおり! だがな、俺が聞いているのは、それはどれを指して言っているのかってことだ」

 彼は焦点が合わない目で私を見ていた。

「おい、やめてくれよ。それでも専門職課程を出た法務博士なのか? それとも、法学部ですら今じゃぁそんなことも教えていないのか?」

「律法は公共の安寧のために……」

「やめてくれ。おい、あんた、やっぱり司法資格は持っていないんだな? 宣誓したことがないんだな?」

 彼の両肩を掴み、揺った。

「せ・宣誓が存在しない、君たち理系の人間に言われることじゃない」

「戻ってきたか。ヒポクラテスの誓いってのはあるぞ? それ以外にも、誓いはしないが叩き込まれる」

「君は医師じゃないだろう……」

「残念ながらな、医師免許くらいなら持ってる。ついでに医学と工学の学位もな」

 彼は私の目を見た。彼の両肩にかかる私の手も、腕も。

「それが…… それがなんだ。律法のことは知らないだろう」

「あぁ、知らない。だから、あんたに聞いているんだ。あんたが信じる律法は、あいつと同じなのか?」

 私は手を戻し、彼が抱えている本を指差した。

「そして、律法の基盤はどこにある? トリロジーを捨てるのか?」

「律法をトリロジーなんかと一緒にしないでくれ! あんな戯言なんかと!」

「そう言うなら、基盤を捨てればいいさ。だがな、あいつはどうなんだ? 他にもテロリストも」

「た・正しい律法による…‥ た・正しい社会を作るには必要なんだ」

 彼の目を見た。じっと見た。彼はすぐに目を逸らしたが。

「それがあんたの信念なんだな? 何があろうと曲がらない信念なんだな? あの先生のように、こんな状況でも続けようとする信念なんだな?」

「私の信念は…… 律法とともにある。だからこそ、あいつを、あの連中を利用してでも……」

 彼の頬に手を当て、こちらを向かせ、彼の目を見た。

「それがあんたの信念なら、あんたが信念を持っているという点だけは信頼しよう」

「信頼するのか?」

「あんたが信念を持っているってところだけはな。それは俺たちの信念とは違うかもしれない。だが、あんた自身の信念に沿って、あんた自身の信念から外れることがないなら、議論の相手にはなる」

「互いの信念に齟齬があったら?」

「言っただろう? 議論するのさ。それは法学や法務の中でだって同じだろう?」

 彼は何回かうなずいた。

「じゃぁ、戻ってくれ。あとから俺はまた先生のところに行く」

 彼は小走りで去って行った。

 彼一人ではこの状況に対応できるものではないかもしれない。だが、そういう信念を持つ人は彼一人ではないだろう。今はただ種を蒔けばいい。先生がそうしているように。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。