8Missing
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話は木曜日まで遡る。
その日は朝から空が泣いていた。真っ黒い雲、頬に張り付く前髪。
忌むべき自分の席にリュックサックを投げだすと、その中からタオルを取り出し髪の水分を取った。ついでにメガネの水滴も落とす。
雨の日は嫌いだった。天然パーマほどではないにしても、やや主張の激しいクセ毛があっちこっちにはねて鬱陶しい。そのうえ、本が湿気てしまう。更にこれが一番雨が嫌いな原因なのだが、自転車通学であるために下校時に古本屋に寄れないのだ。もはや日課と言っても良い本屋通い。毎日のように本屋に通っては、気に入った本を買って帰り、未読の山を増やしていく。一度未読を全部片づけるまで買わない、というマイルールを決めたことがあるのだが、西尾維新の物語シリーズの最新刊が出たときにあっさりと挫折した。自分は本を読む以上に、読む本を買うことに対して快感を得ているらしい。もちろん読むのも好きだが、買う方が好きなのだ。埋まっていく本棚を見れば満足な気がするし、新しい本棚を組み立てるときにはもうすでにどんな本が何冊入るかを計算していたりする。つまり集めるのが好きなのだ。
まあそれはさておき、自分は普段、席に着くなりすぐに本を取り出すようにしているのだが、今日は本の代わりに、ビニール袋に包まれたあるものを取り出した。
「おはよう、篠目」
席についてノートを広げている篠目に、自分でも不躾と感じられるぶっきらぼうな声をかける。
「おい、沙前が挨拶したぞ」「しかも相手は篠目だろ……一体何が起きたんだ?」「沙前くんが挨拶しただけでも驚きなんだけど」「篠目が何か気に入らないことでもしたんじゃないか……?」「〝魔王〟が動くのか」「魔王ってなに?」「知らないのか、中学校ん時の沙前のあだ名だよ」「なにそれダサーい」「あいつずっと本読んでるだろ。そのくせみんなの話はちゃんと聞いてて、なにか問題が起きたりしたらズバッと解決したりしてたから、誰だったか面白がってそんな風に呼び出した、ん、だっけな」「あ、お前それムラマサに聞いただろ? 俺も聞いたぜそれ」「そんなことよりやべーんじゃねーの、あれ。いくら〝魔王〟陛下でも、今のこの席順だったら、周りが全部敵なんだぞ」「芳賀山と山根はまだ来てねーけど、赤沢はもう座ってんじゃん」
途端に騒然とする教室。口々に言いたい放題言いやがって、大体魔王ってなんだ。そんな呼ばれ方をされた事実はないし、そもそも中学校時代自分は教室の隅で静かに読書しているだけの人畜無害であったはずだ。いったいどこからそんな噂が出回っているというのか。恐らくムラマサが面白がってないことないこと(全面的に虚偽である)吹聴して回っているのだろうが、それにしても尾ひれをつけすぎだ。
「Missing」の主人公じゃないんだから、一生徒に魔王なんてあだ名がつくわけがない。事実は小説よりも奇なり? そんなまさか、事実は小説じみていないし、現実では息をするようにトラブルに巻き込まれたりしない。リアルは平板で、つまらない世界が延々と続いていくだけなのだ。
「篠目千日紅。おはようと言っている」
なおがやがやとうるさい級友の声を完全に無視して、再び篠目に声をかけた。言われた篠目は、本当におずおず、と言った調子で顔を上げた。そうして困ったように眉をハの字にし、少し首を傾げて見せたが、もちろん困らせようと思って声をかけたわけではない。失語症であることは分かっているのだから、なにも返事を返せ、という意図で言い直したわけではないのだ。
取り繕うようになんとか笑みを浮かべ、ビニール袋の中から取り出した篠目の体操服を、驚く彼女に押し付けた。
「落し物だぞ」
と、言う風なことが先週の木曜日にあった。
「それがどうしたというんだ」
「ん、なんだ、話を聞く気になったの」
「余計なことは喋らなくていい。要件を簡潔にまとめて話せ。話だけでも聞いてやる」
読みかけの「人間失格」に栞を挟み、本を完全にしまう。
「ちょっと場所を変えようじゃん」
「ここで済ませろ」
こちらは忙しいのだ。お前みたいなのと話している今この時間が、ただひたすらに惜しいといっても過言ではない。正直もう、話を聞く気も失せてきた。自分が再び「人間失格」を取り出そうとしたのを察知してか、芳賀山が動く。
「あー! 待って! じゃあ、ここでいいけど」
「早く済ませろと言っている」
別にそんなつもりはないが、自分が他人と目を合わせると、睨まれているように感じるらしい。ムラマサに言われるまでそんなことを思ったことはなく、かつ言われた後もそうとは思えないが、ただ目を見ているだけでも凄んで見えるというのを利用しない手もない。意識して睨めば相手を怯ませることも可能だ。多分視力が落ち始めてから、目を眇める癖がついたせいだと思われる。
一瞬息を呑む芳賀山から、目を逸らさない。
赤沢と山根が視界の隅で座ってこちらを覗きこんでいるような気がしたが、今は無視だ。こちらの様子をうかがっているのだろう。
「そもそもお前は、なぜそちら側にいる」
向こうがなかなか話そうとしないので、こちらから口を開いた。
「どうしてお前が、虐める側についているんだ」
繰り返して言った。
「それはいいだろ、いろいろあったんだって」
「まあ、俺には関係のない話だがな。……そんなことよりも早く要件を言え」
芳賀山がどうして赤沢についているのかはこの際どうでも良い。重要なのは芳賀山が、自分に何の用なのか。その一点だけだ。
「ああ、うん、そうだった。沙前に言うことがあったんだった」
「……そうか」
「あのな、お前、あんまり調子に乗ってたらシメるぞ、って言いに来たんだけど」
「言いたいことはそれだけか」
くだらない、と、故意に侮蔑を含んだ言い方で返答する。
こういう時、有川浩の「塩の街」に出てくる秋庭だったら「Go ahead, make my day.(やれるもんならやってみろ)」とで言うのだろうが、ここで芳賀山を挑発することに得があるとも思えない。犠牲になった読書時間分くらいの嫌味は言うが、言いっ放しで終わり、言ってしまえばもう満足だから、あとのことはどうでも良い。
言葉を失った芳賀山の代わりに返ってきたのは、赤沢の舌打ちのみであった。
自分は「人間失格」を取り出すと、再び文字列を目で追い始める。
芳賀山は自席へ戻ったようだった。
Missing(電撃文庫)はラノベレーベルから出てはいるけれど、純ホラー系小説としてかなりの良作だと思います。ちょっと古いけどおすすめです。