6それから
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赤沢たちの、篠目に対するいじめを一度邪魔したことで、特に自分の生活が変わることはなかった。芳賀山は相変わらずプリントを回さなかったが、自分が先生にもらいに行くよりも早く、赤沢が自身の分をこちらに押し付けて、言うのだ――――先生、一枚足りません。
赤沢たちも考えた、の、だろう。恐らく。
もしこれが、自分の「自分に対する被害にのみ」対処するという習性というべきか信条と言うべきかを把握したうえでの対処であるのなら、素直にシャッポを脱がざるを得ない。昔親友であったはずの代助に、自分の妻をよこせと言われた時の平岡のような心情である。「それから」――しまった、夏目漱石とは袂を分かったのであった。
とにかく、一度篠目を助けたことで、赤沢たちのいじめの標的に自分が選ばれるようなこともなかったのであった。彼女たちにとっては、一度くらいいじめ損ねたくらい、ということなのであろうか。あるいは少し面倒だが沙前はこうしておけば黙る、とでも思っているのだろう。実際その通りなので閉口せざるを得ないのだが。
おそらく、席順がこうならなくとも、芳賀山はプリントを篠目に回さないし、山根は宿題を篠目に押し付けるだろうし、赤沢はあの手この手で篠目を困らせるのだろう。今回はたまたまこんな席順になり、ごく近くに部外者である自分が座っているだけなのだ。
人並みに持っていたはずの正義感を封印したのは、一体いつのころなのだろうか。
小学校に入学する前だろうか。入学した後だろうか。
中学校に入学した時にはまだ持っていただろうか。もう手放していただろうか。
自分を偽ることを覚えたのは中学校に入ってからだったような気がする。――面倒なことからは逃げなさい、自分の身が一番大事です。
悪いことをしているクラスメイトがいたら、正す。しかし、そんなことができる人はほとんどいないので、実際は先生に告げ口する。小学校の時はまだ正義を持っていたはずだ。
それなら中学校入学後……いや、後半は?
たとえば悪ぶっているクラスメイトがいて、そいつに何やら命令口調で言われた時、反抗しただろうか? それは間違っていると、正面から言えただろうか? それができないまでも、先生に告げ口をしただろうか?
しなかった。
どうやら正義感は、中学校の中盤かそれに差し掛からないかのうちに失われてしまったらしい。だが、失われたと思っていたそれは、実は自分の心の奥底で眠っていただけであったようだ。それはおそらく、この先一生目覚めることはないのだろうが、しかし時折寝ぼけて寝言を言ったり、寝返りを打ったりする。そのたびに自分は「らしくもない」行為を取ってしまうに違いない。
篠目への、あまりに目に余る、いわゆる「いじめ」は少なくなったように思えた。相変わらずプリントは止められ、昼ごはんのパシリはさせられていたが、それだってこれまでの習慣として、今までやっていたことの延長戦として続けているだけのように思われた。この場合、「延長戦」よりも「延長線」の方が日本語としては正しいのだろうが、ニュアンス的には「戦」のような気もする。何と何が戦っているのかと問われれば間違いなく答えに窮するような穴だらけの理論――いやそもそも、理論と呼べるかすら怪しい代物ではあったが。
しかし。
クラスの掃除当番で教室のゴミ袋をゴミ置き場に持っていくじゃんけんに負け、しぶしぶ重いゴミ袋を引きずらないように持って行ったその場所で。
篠目へのいじめが少なくなったなどということが幻想であったことを、知ることになった。いや、こういう場合にこそこう言うのだろう。知る羽目になった、と。
ウサギを模したキャラクターの袋。
学校指定の体操服・ジャージの上下。
体操服は男女共通なので、当然見覚えがないはずがない。そしてその上着の胸に書いてある文字にも、不幸いなことに――そんな言葉があるかどうかは知らないが――見覚えがあった。「篠目」の刺繍。こんな珍しい名字、篠目千日紅以外にはいないだろう。少なくともここの高校では。
体操服があった。
学校なのだから、それは当然体操服くらいあるだろう。適当なホームルーム教室を覗けば、絶対に見つかるに違いない。夏場はさすがにないとは思うが、まだ六月である。絶対に置いて帰っている生徒はいるはずだ。
まだ部室棟の近くに落ちているとかも、よくではないにしろたまにくらいにはあるだろう。あるに違いない。たとえば干していたものが飛んで行ってしまった、とか。
他にも更衣室に忘れて帰ったとか、廊下に落としたとか、そんなこともあるかもしれない。
半袖短パン、長袖上下のジャージのすべてを落とすことだって、まれにはあるかもしれないだろう。
だが、それらが落ちている場所がゴミ置き場の中なんてことが、あるだろうか。重い金属の蓋がついているこのゴミ置き場の中に、体操服が飛んで入っているなんてことが、「偶然に」起こりうるだろうか?
そんなことが、あるはずがない。
まだ交番に行けば今までのお賽銭を全額返金してくれるということの方が信憑性がある。つまりゼロだ。そんな確率はない。ありえない。
明らかに、何者かの「故意の」犯行だ。
何者か、なんて白々しいと思うだろうか。それならはっきり言葉にするべきだろうか。誰が見たって誰が聞いたって、こんなことをするのは赤沢グループ以外に居やしないだろう。御丁寧にも篠目の体操服一式は半透明の白いゴミ袋の中に纏められていて、ゴミ収集車に持ち去られるのを待つばかりである。
どうせなら気づかなかったら良かったのに、なんて思うのは、やはり自分の中で正義感が眠っているからなのだろう。
気付いてしまった以上、このままにはできない。ゴミ袋を拾い、わずかについた埃を払うと、その中の篠目の体操服を畳み、ウサギのキャラ袋に詰める。たまたま自分がほかのクラスに先んじてゴミ置き場に到着したおかげで、週に一度の掃除だけではどうしても取り去ることができない土埃以外に汚れは付着していないのが不幸中の幸いだろうか。使用された形跡のないところから、今日の六時間目の体育を見学する篠目の小さい体が思い浮かんだ。彼女が赤沢グループ以外の人間に話しかけられているシーンを見たことはない。ましてや違うクラスの人間と話す機会などあるだろうか。恐らくあっても赤沢が摘んでいるに違いない。つまり無い。だから彼女は友人に体操服を借りることすらできないのだ、と思うと、胸が張り裂けそうな思いがした。同時に湧いてくる赤沢たちへの怒り。
確かに眠っていたと思っていた。
一生目覚めることはないのだろうとも。
「沙前の? それ。可愛いカバンだな、似合わねえ」
しかし目覚めかけた正義感は、背後から突然かけられた声によって再び黄泉への扉を閉じてしまった。ここに自分の正義感は永眠したのである。
「……そんなに睨むなよ」
「いや、すまん、目がかすんだだけだ」
「本の読みすぎだろ、どうせ」
声の主は自分のよく知る人物であった。いきなりかすんだ右目を手で揉み解しながら、振り返って応対する。
自分のではない、ということを示すために、袋に縫い付けられたネームタグを声の主に突きつけた。
「篠目……せ、せん、センニチコウさん、って読むのか? これ」
「ちかこ、だ」
向こうから聞いておいて、もう興味は失ったとばかりに返る「ふーん」という言葉。
「ムラマサもじゃんけんに負けたのか」
彼が手に提げたゴミ袋を見て、言う。ちなみにムラマサというのは彼のあだ名である。
彼はその名を村江と言った。村江弘雅、だから縮めてムラマサだ。小学校からの付き合いで、自分が友人と認めている数少ない人間の一人である。小学校一年生のころからずっと同じクラスであり、高校に入学して去年度も同じクラスであったのだが、記録は二年生に進級した時に途切れてしまった。自分が文系に進んだのに対し、ムラマサは理系に進んでしまったのだ。
ムラマサは自分の質問への答えの代わりに、こちらへの質問を返す。
「盗んだの?」
柄にもなく、「違うわ!」と叫んでしまった。
自分のその返答まで予期していたのか、ムラマサは顔に張り付いてでもいるかのようにいつでも浮かんでいるニヤニヤ顔を引っ込めると、声のトーンを落とした。
「それって、『あの』篠目さんの体操服か?」
年に一回見られるか見られないかの、珍しくまじめな表情である。自然と自分の表情も引き締められた。
「あの、っていうか、俺は篠目を一人しか知らないぞ」
「赤沢に……その、いじめられているらしいっていう、女子生徒の、だよな?」
周囲を見渡して、誰もいないことを確認したというのに声を潜めるムラマサに合わせて、こちらも首肯を返す。
「体操服をゴミ置き場に捨てるなんて、漫画だけの話だと思ってたぜ」
「おもわず拾い集めてしまったんだが、これはどうすれば良いと思う?」
問うと、こちらよりはるかに高いところにある両目をぱちくりさせて、ムラマサは、
「悪いことは言わんから、見なかったことにしとけ」
そう言った。
「ゴミ置き場に戻せとまでは言わんから、せめて見つかりやすいところにおいておくとか……そうすりゃ誰か先生が見つけて、落とし物として処理してくれると思うしな」
中学校に入学するまでは自分の方が大きかったはずだ。今だって自分は、決して小さい方というわけではない。百七十二センチメートルはある。しかしムラマサは、中学二年生になるころに急激に伸びた。百八十を優に超え、百九十にリーチをかけたところであるらしい。彼のこの発言を聞いて、逆転したのは単純に身長としての目線だけではなかったのだ、と気付かされた。より「合理的で」「賢く」「大人みたいな」思考ができるようになったのだ。十円玉十枚の方が百円玉一枚より価値があると信じて疑わなかった頃のムラマサはもういないのである。
「それじゃあ俺は部活があるから、もう行くけど、ジロー、お前、また厄介なことに首突っ込もうなんて思うんじゃねえぞ」
沙前健次朗を縮めて「ジロー」。小学校の時の友人は皆、自分のことをそう呼んだ。ちなみに、一人っ子なのに「次」郎である理由はいまいちよく知らない。
さて、ムラマサは言うだけ言うと、軽々担いできたゴミ袋をゴミ置き場に文字通りぶち込み、バスケ部の部室がある方へ歩いて行ったのだった。そういえば中学校でバスケットボールを始めてから、彼の身長は伸び始めたような覚えがある。中学入学当初はなんなら百四十にも満たなかったのではなかろうか。それが中学の三年間で三十センチ以上伸び、卒業までには百八十を超えていたのだから、人間の成長というのは凄まじい。
篠目の袋を焼却炉のすぐそばに置くと、体操服を拾い集める為に一度外に置いておいたゴミ袋を持ち上げ、焼却炉の中に放り込んだ。重い金属の扉を苦労して閉め、やっぱり腕立て伏せなどをした方が良いのだろうかと、そんなことを本気で考える。水泳をやっていた中学の時は良かったが、帰宅部に甘んじている高校生の今となっては筋力も体力も日に日に落ちていく一方なのだ。
すっかり細くなってしまった腕を見下ろしながら、運動をするならどんな競技が良いだろう、とかなんとか考えつつ、教室への帰路につく。
ところで――もしも袋をゴミ捨て場の横に置いておけば、誰でもいい、職員室のゴミ袋でも捨てに来る先生はその存在に気付くだろうか。
気づいてくれると良いな、と、心の底からそう思う。
今日から更新頻度落ちます、毎日18時です。最後まで完成はしているんですが、一日二話はさすがに読んでくださる方がついてきてくれない気がしますので……
あと後日談まだ書いてないのに追いついても困る。