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5空気の研究

 5



 席替えしてから土日を挟んで月曜日。

 一時間目は世界史だ。

 額が禿げあがり、申し訳程度にわかめのような髪がしがみついている老男性教員がパソコンとケーブルを持って教室に入ってくる。各教室備え付けのプロジェクターにパソコンをつなぎ、黒板にそれを投射してプリントを埋めさせるのが、その先生の授業の常であった。廊下側の列から順にプリントは配られていき、最後に自分がいる席の先頭、剣道部の佐伯にプリントが手渡される。そしてほかの列がそうであり、恐らく日本全国――もしかしたら世界中――の学校でもそうであるように、順々にプリントは回ってくる。佐伯、喜世きせ瀬能せのう、上田、芳賀山。当然そのプリントは芳賀山から篠目へ渡り、自分に回ってくるはずであった。


 その時である。


 先週席替えをしてからはそんなことはなかったので、もう違うことに興味が移ったのだと思っていた。しかしそれは、自分の思い違いであったことが証明されたのだ。

 芳賀山は、篠目のプリントとともに、本来自分にもまわるはずであったプリントを止めたのである。


「な……っ」


 驚きに思わず漏れた声は、まだ先生が口を開いていないが故のクラスメイトの雑談に紛れ、恐らく誰の耳に入りもしなかっただろう、と思ったのだが、机の上に畳まれた紙が投げ込まれ、自分の声を聞いていた者がいたことを知った。紙が飛んできた方――右側に視線を向けると、スターサファイアの瞳に射抜かれた。中にルチルなどが含まれ、六放射の星形が現れた、とても美しいサファイアのことをスターサファイアというのであるが、その美しさとは裏腹に、赤沢の視線は突き刺すようであった。曰く、それを読め、と。

 まさしく鉱石のような、その冷たい、射るような視線に圧され、自分は折り畳まれてある紙を開く。

 書かれていたのは、特に自分に宛てて書いた言葉ではなかった。


――篠目ちゃんいじめるのに、沙前、邪魔じゃない?

――別に無視しとけばいいんじゃね

――プリント回さないの、できないよ、このままじゃ

――沙前の分も止めればいいんじゃない? 別に

――え、二人もはさすがに面倒じゃね?

――まあ別にとめるのはどうせ席順的にちぃ(・・)だし、いいけど

――じゃあまかせた

――まかせた


 どうやらこの前、彼女たちがまわしていた手紙の一部であるらしかった。この部分が、ご丁寧にピンクのマーカーで囲まれている。その中に、沙前さまえ、という自分の名前を見つけて眉を顰めた。

 誰がどの文章を書いたのか、名前の書かれていない文面だけでは判別できないが、恐らくこの「ちぃ」というのは芳賀山のことだろう。彼女の名前は……一体なんであったか、「ち」がつく名前だった気がする。彼女のことを「ちぃ」などというかわいすぎる名前で呼ぶ者は少なくともこのクラスにはいないが、芳賀山は、自分のことをちぃと呼ぶのだ。時計回りで手紙は回っていたので、芳賀山、山根、赤沢の順番だろうか?

 順番はさておき、要約すると、自分にもプリントを回さないことが決まりましたよ、という回覧板である。

 慈愛という石言葉を持つサファイアのような瞳を持っているクセに、まるで慈愛に富んでいないこの仕打ちに、うまく表せない黒い感情が湧きあがった。一応「誠実」という石言葉も持っているので、こうして自分に事情を説明――といえるかどうかは怪しいものだが――をしてくれるあたり、それだけはその通りなのかもしれなかったが。

 とにかく沙前には、篠目をいじめる為に、犠牲になってもらうから、ってことか?


 ふざけるな。


 世界史の授業は、配られたプリントの空欄を埋めていく作業である。そのプリントがなければ、一時間を無駄にすることになってしまうではないか。

 篠目がいじめられるのは、あまり大きな声では言えないが「自分に被害がないのならどうでもいい」くらいに思っていたのに。

 可哀想だなあ、とは思えど、どうせ長くとも高校二年と三年の間しか関わることのない相手であるし、放っておけば良いだろうとたかを括っていたのに。

 しかし、自分に悪影響を及ぼすというのなら話は別だ。

 氷点下のサファイアのような、冷たいのに肌が焼けるような視線を視界の隅に追いやって、先生、と声を上げる。


「プリントが足りません」


 言い終わるか終らないかのタイミングで飛来する赤沢の舌打ちに、わずかに視線が篠目の方へ向き。

 二重三重四重……何重にも理論武装して、誤魔化して隠して大人しくさせていた正義感が、首をもたげてしまった結果。

 血迷った、とか。

 気が狂った、とか。

 そんな風に自己分析するような行動を、多分つい五分前までの自分なら絶対にしなかったであろう行動を。

 取ることに、あるいは取るはめに、


「――――二枚、足りません」


 なった。


 驚いたようにこちらに振り替える芳賀山のアホ面に唾でも吐きかけたい気持ちを堪えて席を立ちあがり、先生のいる教壇まで直接受け取りに行く。前から回してもらっても、どうせ芳賀山が止めるのだろう。そんな一悶着は誰にも必要とされていない。

 自席に戻る途中、先ほどまでうるさいくらいに聞こえていたクラスメイト達の声が一切聞こえなくなっていることに気付いた。皆の視線がこちらに向いていることに、居心地の悪さを感じる。


――「空気」は「水を差せば」抜けるが、水を差した者はその場にふさわしくないものとして追い出されるのだ。


 痛いくらいの静寂、冷たい空気の中を泳ぐように自席に戻る途中、篠目の机に叩きつけるようにプリントを置く。やけにその音が響き、篠目はまた怯える子猫のように飛び上がったのだが、それが気にならないくらい、自分は、赤沢たちの発する、いわゆるプレッシャーのようなものに圧倒されていた。

 いかついレスラーのような芳賀山の睨みと、可愛らしく愛嬌のある容貌であるがゆえに、歪められたことで残虐に見える山根の顔。それらを足して五乗してしてもまるで足元にも及ばないような、氷でできた彫刻がごとき赤沢の冷凍視線。一瞬それらにたじろいだが、特に足を止めるようなこともなく帰還、再び自分の席に着く。

 席替えによるこの席順は、彼女たちの作為ではなく、確かにくじという偶然の産物であったのだろう。しかしこの時自分は、やはり神の存在を信じずにはいられなかった。神はいる。それも、悪いことばかりを引き起こす神様がだ。こちらにしてほしいことがあるときはなんにも干渉してこないクセに、絶対に起こってほしくないことの確率は偶然から必然にまで引き上げておいて、その様をせせら笑うような神様だ。そんな神様になんて、一円の賽銭の価値もない。むしろ今までの賽銭をすべて返してほしい。どこに訴えれば返ってくるだろうか。地方裁判所では無理そうだから、やっぱりどこかの高等裁判所に持ち込むべきなのだろうか。そもそも神を訴えることは可能なのだろうか。できないに違いない。

 一度座って深呼吸すると、そんな混乱した思考はすっかりどこかへ消え去ってしまい、かわりに今まで押し込めていた正義感がじわじわとその体積を広げていって、自分の心の中を満たした。

 芳賀山と山根は何か別のことを考え始めたのか、もうすでにこちらを向いてはいなかったが、透き通った瞳でこちらを見つめる赤沢の視線は、まるでモルモットを観察する学者のそれであった。特に怒りがこもっているわけでもなく、かといってほかの感情がこもっているわけでもなく。氷の彫刻に嵌め込まれた、スターサファイアの瞳は、ネズミを捕獲する猛禽のように鋭くまっすぐこちらを貫いていた。

 体温が一、二度くらい下がったような気がして目をそらしたのだが、そちらの方を意識して見ないようにしているのに自分が見られていることがわかる。一見すると何も考えていなさそうな静かな瞳であるはずなのに、その奥では青い焔が燃えているのだ。そしてサファイアからわずかに漏れ出した焔の冷気は、半袖のワイシャツから露出する首元と右腕をちりちりと焦がす。液体窒素のように、冷気に身を焼かれる感覚は、もしかしたらこれが俗に言う「殺気」なのではないかと思わせるには十分すぎた。



 空気の研究は1話文中で述べましたが、集団心理でを調べているときに出会っただけで、読んではないです。ただ、面白そうではあるので機会があれば是非読んでみたいと思います。

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