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29/31

29なし

 大学のサークルでは演劇サークルに入ったのですが、インフルエンザやらなんやらで公演直前は毎日帰宅が23:00前後と立て込んでしまいました。

 ちなみに公演は無事(?)に終わりました。

 29



 ポケットに入れっぱなしでついさっきまで忘れていて、慌てて取り出した入部届はぐちゃぐちゃで、もはや書いてある文字もところどころ判読が怪しくなっていたものである上に、そもそも記名すらしていない状態であったが、それがまるで水戸黄門の印籠であるかのように掲げ、自分は、化学室の中に入った。

 簡潔に言うと、篠目は、脱がされてはいなかった。――上は。

 茶巾縛り、と言って一体どれくらいに伝わるかはわからないが、要するにスカートの裾を持ち上げて、頭の上で縛ってしまうという荒業である。これをやられると視界が奪われるうえに手も塞がれ、かなりの無防備を晒すことになってしまうのだ。

 そして、いつだか考えていた、篠目が白い下着を着用しているということがこの場で証明されてしまった――恐らく山根が手にしている布の塊のようなものがそうだろう。机のおかげで小柄な篠目の下半身はすべて隠れて、こちらから見ることはできないのが幸いだ。校則遵守の真っ白い靴下は近くの机の上に放ってある。それが濡れているらしいことを見て取り、廊下水溜り事件の犯人までわかってしまった。見ると頭の上で縛られたスカートも水を吸って体に張り付いている。中からは荒い呼吸音が漏れ聞こえていた。


「沙前……」

「あたしたち今忙しいんだけど、あとにしてくれない?」


 赤沢が相変わらず表情の浮かばない彫刻のような顔で自分の名を呼び、山根がアホ面で、言外に「今なら見逃してやる」と言った。芳賀山は思うことがあるのか、何も言わない。


「そんなことより俺は篠目部長に用がある。お前らこそこの場を外せ」

「は? あたしたちに命令とか、アンタ何様?」

「文芸部所属、沙前健次朗だ。好きな『悪の華』の訳者は安藤元雄」


 何もないよりはましかと、先程芯の折れた6Bの鉛筆を取り出して握る。シャーペンやボールペンなんかだと尖りすぎているので、折れた鉛筆くらいでちょうど良い。


「何の用……?」


 赤沢が言った。


「お前たちに言う必要はあるのか?」

「ある……篠目ちゃんは、わたしたちの、所有物(もの)……だから」


 言い切りやがった。


「おい、赤沢。お前、こいつをどう思う?」


 カバンから取り出したのは、「ドグラ・マグラ」の上下巻二冊。つい最近読んだところなので今日はもう取り出すつもりは無かったのだが、「No.6」と同じジップロックの袋に入れてあったのだ。表紙を強調するように、赤沢たちに突きつけてやった。


「この本は日本読書会を沸かせた日本三大奇書の一角、ドグラ・マグラだ。どう思う?」

「気持ち悪い……」

「そりゃそうだ。この表紙は正直どうかと思う。だって本屋とかで手に取りづらいし、そもそも内容だって最後まで何を言っているのか理解できないシロモノだ。高校生にはまだ難しすぎる。十年後にまた読んでみるつもりだ」

「それで……それが、なにか?」


 そう急かすものではない。

 赤沢、お前は先程、この本を否定したな? 読んでもないのに、だ。


「俺は、読んでもない本を貶す奴が嫌いだ。読んだうえでボロクソに貶すのは読者の特権だが、読んでもない本を貶す奴は最低のクズだ。ビズムニー・シュートだ。それはその本を書いた作家に直接人格攻撃してるのと同じだからな!」


 赤沢は表紙を見て気持ち悪いと言っただけなので、自分の主張はいくらか穴があるのだが、とにかく勢いだけで押し切ってしまう。


「それがどうしたっていうわけ? あたしには沙前が何言ってるかさっぱりわからないんですけどー」


 山根が言う。本当に腹の立つ顔だ。少し整っているから余計に腹が立つ。まだ芳賀山の方が愛嬌のある顔立ちをしているというのに。


「つまり、俺は、お前たちが嫌いだってことだよ!」


 客観的に見て、何言ってんだこいつである。殴れば話は早いのだ。でも、殴って終わる話は無い。こんな、やったこともない口喧嘩という土俵に立っているのだ。しかも三対一だ。少しくらい言動が意味不明になるのも大目に見てほしい。


「いいか、この際はっきり言うが、俺は、部長に危害を加える奴をこっから先許すつもりは無い。この教室から出た後は、女だろうとお前らだろうと殴る。歯が折れても鼻が折れても知るかよ、どうせ不細工なんだからかえって美形になるんじゃねえのか」

「不細工って、一体誰に向かって――」

「不細工は見た目に言ったんじゃねえよ! お前らの! その! 生き方に! 生きざまに! 言ったんだ! 醜いお前らの性根にな!」


 芳賀山、赤沢、山根、左から順番に、指さして、突きつける。


「まずは部長を解放しろ」

「何言ってんのこいつ、キモ――」

「おい、俺は嘆願したんでも懇願したんでも、ましてや哀願したんでもないぞ。命令したんだ」


 傍らの棚を開け、中から適当に薬品の入った瓶を取り出す。ラベルを確認すると蒸留水と書いてあった。なんでこんなものまでわざわざラべリングし直されて瓶詰めされているのかはわからないが、今は都合が良い。


「芳賀山、覚えてないか」


 ラベルの部分を手のひらで隠し、芳賀山に茶色の瓶を見せる。フィルターを通したように、芳賀山の顔に恐怖の色が浮かんだ。


「沙前、お前それ、塩酸――」

「俺は中学校の時、女子生徒に塩酸かけてニュースになった後、停学になったことがあるんだぞ」


 正確には、「女子生徒(が自分自身)に塩酸をかけて(しまう元凶になり)ニュースになった後、(恨みを買って校外で傷害事件を起こしたことにされかけ、いろいろあった後結局)停学になったことがある」だが、別段嘘を言ったわけではない。真実を一部話さなかっただけだ。

 蒸留水の瓶の蓋を開け、一滴、目の前の机に垂らした。赤沢たちと自分との間には二つ、机がある。


「もちろん中身は入っている。脅しじゃないぞ。俺はお前たちを許さんが、今すぐこの場から出て行き、篠目部長を開放するのなら、この塩酸は大人しく棚にしまってやってもいい」


 顔を見合わせる芳賀山と山根。赤沢は話を聞いていたのかいなかったのか、ぼんやりとした表情を浮かべている。相変わらずそのスターサファイアの瞳は美しい。

 協議の末、彼女たちは逃げ出すことにしたらしかった。


「で、出て行くから、その瓶、棚にしまってよ」


 声を震わせながら、芳賀山が言った。


「できるわけがないだろう。いくら男でも、三人に飛びかかられれば勝てるわけがない。いわばこれは自衛の手段だ」

「本当に……かけない?」


 赤沢が言った。微塵も恐怖を感じさせない、平板な声である。それに自分は頷きを返した。

 おずおず、といった様子で三人は俺の脇を通って行く。勝った、という気持ちが入道雲のようにむくむくと頭をもたげ、その精神的優位から蒸留水を彼女たち三人にかけてやろうかという悪戯心が働くが、しかしその必要は皆無だと強い自制心で押しとどめ、彼女たちが完全に化学室を出て行ったのを確認してから瓶を下ろした。


「――ふう……」


 息を吐く。手汗で瓶のラベルが擦れていた。蒸留水の文字が消えかけてしまっている。

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