23オールドルーキー
23
結局その次の週もまた篠目に捕まってしまった。妙に強引なところがある彼女に連れられて、再びあの隠れ家然とした文芸部室に訪れる。窓の外はプールと東館の間の細い通路に面しているらしい。夏、水泳の授業があるときにのみ通るような、それだけ人通りの少ない通路である。今年はまだ水泳の授業は無いので、去年ここを通った時の記憶になるのだが、この文芸部室の窓なんてあっただろうか。意識して見ていないから気付かなかったのだろう。割と大きい窓なので、外から見ればこの部屋のすべてを見渡せてしまう。
『だから、この部屋のカーテンは必要ない時は閉めるようにしています。開けますか?』
篠目が書いた。いらない、と首を振る。自分の意志の薄弱さにため息が出そうだ。篠目とは関わらないと決めたのではなかったか?
確かに決めた――だが、別に、こうして人の眼を忍んで会うくらいなら、全然問題ないのではないか? まるで言い訳のようだが、自分にそう言い聞かせて、ここに来た。引っ張られるがままに、ここまでやって来た。
『ちなみに今まで必要があったことは一度もないです。ずっと閉めっぱなしですね。窓も開けたことが無いです。除湿機ありますし、冷暖房は図書室の分が効きますし。湿気が多いと本が傷みますから、除湿機は夏場はほとんどずっとつきっぱなしです。』
篠目の定位置である窓側の席、その後ろ辺りに大型の除湿器の姿が見えていた。
「冷暖房完備で湿気も一定か。本当に学校かここは」
『学校です。そして文芸部の部室です。』
とりあえず弁当を広げて箸をつけた。本についての会話が始まってしまうと、また先週のように昼を食べ損ねてしまう可能性がある。まこと先週は会話に熱中しすぎた。
『文芸部は今はわたししかいないので、部誌を発行したりはしていないのですが、過去に先輩たちが発行していた部誌のバックナンバーは一号からすべてありますよ。もしよろしければ、お手に取ってみてください。』
そして彼女はペンを端に持ち替えると、小さな一口サイズのおにぎりを口に運び、再び箸をペンに持ち替えた。
『ちなみにこの部屋にある本のほとんどは過去の先輩方が遺してくれたものです。』
「先輩死んだの⁉」
つい素が出てしまった。
『おっと、誤字です。いい反応ですね。』
抑揚のない文字に褒められても嬉しくない。
『ところで沙前さん、先日、オールドルーキーという本を読んだのですが。』
オールドルーキー? ディズニーが映画化した奴だっけ? 名前だけ聞いたことがあるような。内容については全く知らない。
『――――生まれてこのかた、わたしはずっと無口だった。自分から会話を始めることは多くないし、質問には短く「イエス」か「ノー」で答える。
まず、冒頭の文章がすごく印象に残りました。』
自虐ネタだろうかと少し反応に困り、なんと返事したものだろうかと考えあぐねる。彼女が失語症であることはどこまでの範囲なら触れて良いのだろう。あるいはまったく気にしていないのかもしれないし、反対に気にしすぎるがゆえに自虐して笑い飛ばそうとしているのかもしれない。地雷原だ。地雷原で運動会を開催するようなものだ。慎重に慎重を期さないと絶対に地雷を踏むし、そもそも地雷の数がいくつでどこにあるのかもわからない。どういう返事が理想的なのだろう。どんな反応が最良だろう。
『あ、今のは自虐ネタです。』
面倒だなおい、と思わず心中で呟いた。
『他にはそうですね、「でも君を愛してはいない。愛せないんだ、僕自身を愛していないから」っていうセリフが印象に残っています。』
「恋愛の小説?」
問うた。篠目はペンを止め、少し考えた後、再びペンを走らせ始める。
『いいえ。野球です。でも、スポーツにはあまり詳しい方ではないので、なんとなく主人公がすごいんだなあってことしかわかりませんでした。三五歳でメジャーリーグデビューした選手の実話をもとにした話なんですけど、やはり野球についての知識がないからか、スポーツものとしてはあまり楽しめませんでした。』
自分も野球について詳しいわけではないが、メジャーリーグくらいは知っている。アメリカの大リーグだ。三五歳なんて野球選手の中ではかなり高齢の方ではないのだろうか? それでデビューを果たしたというのなら、確かに「オールドルーキー」だ。今度本屋に行ったときに探してみよう。脳内のとりあえずあらすじだけでも見てみようリストの中にタイトルを記す。
『だから主人公とその妻との結婚生活がうまくいったりいかなかったりすることの方にばっかり目が行ってしまいました。さっきのセリフは主人公と妻がうまくいっていなかったときに、主人公が妻に言い放ったセリフです。』
「恋愛はあんまり読まないな」
全く読まないわけではないが。「世界の中心で愛を叫ぶ」であるとか、「僕の初恋を君に捧ぐ」であるとかは映画から知って揃えてあるが、マイナーなものはあまり持っていない。夏目漱石の「三四郎」であるとか、「それから」であるとか、あれらは恋愛に内包してしまってもいいものなのか。ライトノベルは恋愛というよりはコメディだし。
興味がないわけではない。別に嫌いでもない。でも、本屋というほぼ無限の選択肢がある空間の中で、わざわざ選んで手にする価値があるかと問われれば、自分の中では無いのだと答えざるを得なかった。
『恋愛には興味がありませんか?』
「そうだな、まあ好きなジャンルではない」
『少女マンガとか、買いづらいですしね。わたしもレジに持っていくときは躊躇してしまいます。』
「いや、そういうのではないのだけれど」
まあ、いいか。
『では、実際に沙前さん自身は恋愛についてどうお考えですか?』
「今のところ興味はない。予定もない。三○歳までに結婚できればそれで良いかなと思っている」
『「渡る世間はバカばかり」っていう漫画の主人公と同じことを言っていますね。
いえ、知らないのなら別にいいです。メジャーなものではないので。』
その日も本について熱くなりすぎて、結局弁当を完食することはできなかった。
ああそうそう、オールドルーキー。あとわたバカも。これ書いてた時読んでたんだなあって思うとなんだか懐かしいですね。
ちなみにオールドルーキーは本当にノンフィクションらしいので、興味ある方は是非。
35歳でメジャーデビューはホント驚きです。




