2悪の華
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「彼女」は、白い下着を着用している。
誤解がないように言わせてもらうと、別に篠目の着替えを覗いたとか、そんなことは一度だってない。ただ、
――「かわいい娘」たちは白いパンティをはくものだってことは、誰でも知っていることだからだ。
という、「ハイスクール・パニック」のチャーリーの言葉に当てはめるのならばそうなのだろう、と、思ったまでだ。その通りでいくと赤沢も白いパンティを着用していなければならないことになるのだが、どうもそうは思えないので、やっぱりこの理論はメイン州のプレイサーヴィルでしか通用しないのだろう。
たとえば廊下ですれ違ったとしよう。
一般的な異性への興味を持っている男性諸氏が篠目とすれ違った時、おそらくその目はまず、彼女の唇に向かう。紅を引いたわけでもなさそうなのに、その唇は桃色に輝いている。そこで初見の人間は一度足を止める。そして萎縮したように一瞬だけ送られた視線の先にある、黒曜石のように透明な瞳に足だけでなく思考を縫い付けられてしまうのだ。
美か醜かでいえば当然美のほうに軍配が上がる。街中を歩けば雑誌のスカウトに声をかけられるほど大袈裟な美人ではないにしても、それでも断然かわいい部類には入る。
それではどうして、彼女に浮いた噂らしきものがまったくと言っていいほどないのかというと、もちろん赤沢のグループがいじめているからであって、それでもどうして彼女があまり目立たないのかというと、黒々とした髪でその顔面の半分以上を隠してしまっているからに他ならなかった。わずかな髪の割れ目から、怯えた左目がのぞいている。
そういえば彼女の素顔が見られたのは入学式から幾日かくらいであるらしい。赤沢にいじめられるようになってからはずっとマスクを着用して登校しており、彼女の唇が美しいというのも今となっては誰にもわからないことなのであった。去年は幸いにも違うクラスだった自分もそのことについては伝聞でしか知り得ておらず、脳内の彼女の唇は、あくまで想像の――創造の妄想の産物でしかないのである。
人間は生きるのにカロリーを消費する。腹が減れば食べるのは当然であり、それなら、昼休みにでもなろうものなら当然篠目も昼を摂るためにマスクを外すのではないか。それなら誰も見たことがないというのはおかしな話ではないか。
いいや、そんなことはない。
なにせ、彼女は食べないのである。
弁当にしろコンビニで買ってきたパンやおにぎりにしろ、食堂で買ってきた料理にしろ、とにかく、彼女は、「昼を食べない」。
彼女の身長が百五十に満ちるか満たないか、ということとそれに因果関係があるかどうかはさすがに判別しかねるが、篠目は、少なくともこの高校に入学してからずっと、平日は昼を食べていないらしかった。少なくとも教室で見かける限りでは。
なぜか、など、今更説明するまでもないことであるかもしれないが、まあ要するに、よくある話なのである。簡単に言うとパシリだ。赤沢とエラ不細工、それから篠目をいじめるもう一人こと山根の三人分を、毎昼休み、四時間目の終業のチャイムが鳴るのと同時に買いに行かされる。最初は奇異の視線でそれを眺めたクラスメイト達も、今ではすっかりその「いつもの風景」に眉をひそめることもなく、友達との談笑に興じていた。そういう自分だって、三島由紀夫の「金閣寺」に目を落としながら弁当箱をつついている一人なわけだが。
篠目は弁当を持ってこない。一年生の時には持ってきたことがあるらしいが、赤沢にいたずら――というには陰惨なものだったらしいが――をされて以来、持ってくるのをやめてしまったのだ。買ってきても同じである。それなら食堂で食べてから、赤沢たちの「お願い」を完遂すれば良いのでは――
「遅い」
赤沢は本日もご立腹である。四時限目が終わってから私たちのところに昼ごはんが運ばれてくるまでに、五分もかかっている、とかなんとか。
二年生の教室は三階にあり、一階にある食堂まで駆け下りて、どれだけ早くとも一分はかかる注文を済ませ、料理を受け取って、再び階段を駆け上がって五分である。きっとどんなスプリンターだって、こんな記録は「出さない」に違いない。出す意味がないからだ。まるで従者と主である、という比喩すら烏滸おこがましい。より正確な表現になるように言葉を選ぶと、奴隷と女皇である。
――たくましい美女がかよわい美女の前にひざまずく姿で、得意げに、すすっていたのだ勝利の酒を。
シャルル・ボードレールの詩集、安藤元雄訳「悪の華」禁断詩編、地獄に落ちた女たちより。たくましい美女とかよわい美女の構図が逆ではあるが、ふとそんな詩があったことを思い出した。驚くべき速度で、三人分の昼食をかけらも溢さず持って帰ってきた篠目に、それこそ重箱の隅をつつくように文句を言う彼女たちの顔は得意げである。ちなみに不細工なのは芳賀山だけで、山根はまあまだ見れる顔ではある。
たくましい美女が一人、いかめしい女が一人、まあまあの女が一人、かよわい美女をかしずかせる姿で、得意げに、すすっていたのだ汚い快楽を。
どこかシンデレラ的でもある、などとふと思って、口にした麦茶を吹き出しそうになった。赤沢と山根が美人の姉で、芳賀山は意地悪な継母なのだ。
まったく似合わないドレスに身を包み、気合を入れた芳賀山の、どこか滑稽とさえいえる姿を想像してしまい、しばらく笑いを表情に出さないようにするのに必死になった。
我が家の金閣寺の装丁は真っ金金です。金一色のカバーに、朱色で「金閣寺」「三島由紀夫」とだけ印字されているのですがどなたかご存知ない?