19傷物語
19
「ドグラ・マグラ」の表紙は言葉を選んでいうと奇抜である。たとえば古本屋でこの本を探しているときなどには、女の店員には聞かない方が良い。というか店員に聞かずに自分で見つけてしまうのが一番良い。西尾維新の「傷物語」において、主人公である阿良々木暦はエロ本を買いに行った帰りに吸血鬼と遭遇するのだが、まあその引用と今回の話とは関係があるようで無い。要するに、
――――これから死ぬってときに、エロ本なんて持ってられるかよ――ああ!
という話である。別に「ドグラ・マグラ」はエロ本などではないが、その表紙がいくらか「奇抜」であることがなんとなく伝わってほしい。
だから篠目に手渡すのは早々にやめにして、教室に帰るなり彼女の机の中に押し込んでおいた。しかし押し込むにしては手ごたえが軽すぎることに疑問を感じ、机の中を覗き込むと、そこには何も入っていなかった。机の横には体育館シューズすらかかっていない。教卓の上にある座席表、その「篠目」の文字だけが、この机が、席が、場所が、篠目のものであることを保証していた。学校は、少なくとも教室は、とりわけこの座席は、彼女の居場所じゃないのだと誰かに囁かれたような気がして、嘯かれたような気がして、うすら寒くなって逃げるように鞄を引っ掴み、教室を後にした。最後に教室を出る者が戸締りと消灯をしなければならない決まりだが、そんなことに気を回す余裕など一片も残っていなかった。
彼女に関わるのはやめよう。いじめられている? そんなこと知らない。自分には関係ない。ムラマサも言っていたじゃないか、面倒事に首突っ込むのはやめろと。平江が教えてくれたではないか。暴力は正論に正義に正しいものに屈しないと。強いやつこそが正義だと、負ければ悪なのだと。
それに、学校に居場所がないのは――中学校時代の自分を見ているみたいで、なんだか気持ちが悪かった。芳賀山はさも実体験であったかのように沙前健次朗と村江弘雅に「されたこと」を語り、騙り、数日の停学の間に中学校での自分たちの座席を消してしまっていたのである。どうせやらされたのだろうが、やらされたからなんだというのだ? やらせた奴も悪い。やらされた奴は悪くない。この理論は少し異常ではないか?
とにかく自分はもう、中途半端に篠目を助けたり、思い出したように彼女をいじめから救ってやるようなことはやめようと決意した。鳥肌が立つのだ。気持ちが悪いのだ。同族嫌悪だろうか――明らかにトラウマか。これ以上篠目に関わるのはやめにしようと、そう思ったのだ。
そもそもガラじゃなかったのだ。だから中学校の時にはイタイ目を見たではないか。調子に乗るとだめだ、もっとクレバーに生きろ。大人になるというのはそういうことだ。他人よりも、我が身を一番可愛がる。毎日が自分のために精一杯で、他人なんかに気を回していると自分の船が転覆してしまう。そんな中で生き残るためには、たとえ他人を蹴落としてでも自分のために生きなければならない。いじめにわざわざ加担するつもりもないが、それを阻止する必要もないだろう。どうせ大学受験が始まれば飽きていじめもなくなるに決まっている。
芳賀山――エラ不細工の時もそうだった。中学校三年になったとたんに皆受験に手いっぱいになって、今までいじめなんて無かったですよ、みたいな顔で、雰囲気で、空気で、自分のために、自分の行きたい未来のために、受験のための足掻きを始めたのだ。示し合わせたみたいに、一斉に。虐めの主謀グループはもちろん、それを面白がっていた奴らも、無関心だった奴らも、等しく、公平に、公正に、公明に、正大に、均等に、「他人への興味をなくした」。もちろんこれは比喩であってまったくのディスコミュニケーション空間が生まれただとかそういうわけではないのだが、とにかくそういうことだ。
大人になるためには、他人が虐げられているという些末なことくらい、目を瞑らなければならない。迂闊に手を出せば、差し出したその手を火傷してしまう。
クレバーな生き方を心がけることが大切なのだ。
ちなみにドグラマグラ。僕はブックオフで買いましたが、場所がわからなかったので店員さんに聞いて探してもらいました。僕はタイトルしか知りませんでしたのでまあ、ええ、そんなまさかあんな表紙だとは思いませんとも。若い女の店員さんがドグラマグラ手に持って、「こちらでよろしいでしょうか?」ってよろしくねー!
あと傷物語、映画化2012年からずっと待ってましたよ。センター試験終わったその日にその足で見に行きましたとも。夏の続編も楽しみですね。
物語シリーズはオフシーズンあたりからなんだかなーって感じはするんけれど、それでも出たらついつい買っちゃうから卑怯。




