1ハイスクールパニック
有名小説や漫画の引用がバンバン出てくるんですけど、これは大丈夫なんですかね。二次創作には入らないですよね? いえ、あくまで引用ですので!
有名じゃない海外小説も多数出ますけど、その辺は僕の本棚に並んでいる本のみからの抜粋ですので、ああ、こいつの本棚はこんな感じなのかくらいに思ってくだされば。
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ごきげんな朝だった――気分のいい五月の朝。気分よく過ごせたのは、朝食をちゃんと食べられたせいと、代数Ⅱの時間にリスを見かけたせいだ。
スティーヴン・キングの「ハイスクール・パニック」はこんな書き出しから始まる。この書き出しは良い。好きだ。しかし、とても好きであるというわけでもない。とても、すごく、滅茶苦茶……そんなオーバーな「好き」ではない。少し、あるいはまあまあ。そう、まあまあ好きなのだ。
ごきげんな朝、というのがどんなものかはわからないが、おおむねこんな感じの朝なのだろうと思う。教室の窓からわずかに見える春の空。廊下側からだと五列目、運動場側からだと二列目のこの席からは、春の晴天が見えるのみであった。ちなみに自分は、その列の前から三番目の席を頂戴している。
朝食は欠かしたことがない。十七年間ずっとだ。エネルギー補給が欠けたというよりは、もうすっかり習慣と化したそれが抜けること自体、調子が悪いといえるかもしれない。ということは、その習慣が欠けていない以上、自分は気分が良いのだ。
スティーヴン・キングの言葉を――正確には訳者である飛田野裕子の、であるが――借りるついでに言うと、確かに不機嫌ではなかった。今が代数Ⅱの時間ではないことだけが悔やまれる。もし今が古典の授業ではなく、代数Ⅱの時間であれば、リスを見かけられただろうか。窓際から二列目のこの席からでは、もし中庭にプレイサーヴィル・ハイスクールの芝生があったとしてもそれが見えることはないし、そもそもここは「ハイスクール・パニック」の舞台たる高校などではないし、見えようはずもないのだが、それでもそんなことを思う。日本の都道府県のどこでも適当なところを覗けば必ず目に入るであろう、なんの変哲もない公立高校なのである。無理矢理にでも探して特徴を挙げるならば体育館が二つあるとか、その程度だろうか。
体育館が二つ、ということは、それなりの敷地を持っているのだろう、という推測に至るかもしれない。少なくとも自分は、入学するまではそうだと思っていたし、入学して一年と少しが過ぎた今も、そうなのだろうとは思っているのだが、実際この高校の大きさは、どこにでもある一般的な公立高校のスケールを大きく逸脱することはない。体育館が二つあるのも、ここが田舎で土地が余っているからではないし、リスが住んでいないのもここが中途半端な住宅街のど真ん中にあるからだ。
さて、体育館が二つというのは、三年前の春休みの間に体育館を新設しようとしたものの、諸々の事情で着工が遅れ、スケジュールが狂った結果の産物である。老朽化で床の一部が抜け、出入りを禁止された旧体育館も、その諸々の事情のせいで取り壊しが伸びてしまったのだ。物好き以外誰も近づきやしない、危険エリアである。いつ崩れるかわかったものではない。そういえば一か月以内に崩れるのではないかという噂を耳にしたことがある。
老朽化で使用できなくなった旧体育館の取り壊しは今年の夏休みに行われる予定らしい。今朝、リスを見かけられなかった代わりにそのお知らせの貼り紙を見かけた。体育以外で体育館に行く用事のない自分にはまるで関係のないことかもしれないが、なぜだか鮮明に記憶している。
教室の背後で、静かな笑い声が生まれた。
古典の教科書を読み始めた先生は、その笑い声には気づかないような調子で本文を読み上げる声を止めない。代数Ⅱのアンダーウッド先生は真っ先にチャールズに殺されたが、銃国家でない日本でそんな危険と出くわすことなんて考えたこともないに違いない。まあ、実際そうなのだろうが。面倒そうなことには首を突っ込まない、実にクレバーな生き方だ。自分だってそうするし、クラスメイトだってそのクレバーな生き方を学校の先生から学んできた。
危険からは逃げましょう。逃げて身を守りましょう。決して向かって行ってはなりません、だ。
ましてや銃国家ではない日本で「銃があるから」という安心感を得られる機会が来ることはない。もしもチャールズのように、親父のデスクから銃をくすねることができたのなら、果敢にも危険や面倒に首を突っ込むことができたのかもしれないが、日本ではどだい無理な話である。心理学用語に集団心理という言葉があるのだが、とにかく「個」でなにかに立ち向かうには、日本人はひ弱すぎた。
たとえば山本七平は著書「空気の研究」の中で、集団心理をはぐくむ土壌はその場の「空気」であると述べている。「空気」は「水を差せば」抜けるが、水を差した者はその場にふさわしくないものとして追い出されるのだ、とも。自分は実際に「空気の研究」を読んだわけではなく、集団心理について調べていた時にたまたま目に入っただけであるのだが、これは面白いたとえだと思っている。つまり何が言いたいのかというと。
助け船を、出せないのである。
出せない、という言葉が不適当であるというのなら、「出さない」に言いかえても自分の言いたいことは十全に伝わるはずだ。
クラスメイトの皆が皆、誰かが助けるだろうと思っている。その誰かにどうして自分がならないのかと問われれば、口を揃えて「面倒事に巻き込まれたくないから」と答えるに違いない。
自分もそうだ。
隣の席に座っている山田君だってきっとそうだ。このクラスの委員長になる際に掲げた「みんな仲良く楽しいクラスにします」というマニフェストはどこへしまいこんでしまったのだろうか。うつむき気味に光源氏の活躍を追う彼の眼は、重たい前髪に隠れてこちらからは見えない。
教室の後ろで何が起きているのか、というと、プリントが一枚足りていないのだ、という義務教育の九年と高校一年生の十年間の間にも、もう数えきれないくらい経験した、ごく普通にある現象である。もしも窓際最後席に座っているのが「彼女」でなかったのなら、こんなヘドロのような空気の中で古典の授業を受けることもなかったのに、と、きっと誰もが思っているに違いない。先生もきっとそうだ。お気の毒に、とは思わないまでも、こんなクラスで授業をすることになってご愁傷様です、とは思わなくもない。いや、やっぱり思わない。そういえば先生はこのクラスの副担任のはずだ。担任同様、このクラスに責任を負ってしかるべきである。
失語症。
何らかの原因により声が出なくなる症状のことを言う。
このクラスの皆は「彼女」が失語症であることを知っていた。
そのことをからかって喜ぶ低俗な輩が二、三人ほど彼女の周りをうろついていることも。今も「彼女」の目の前のあまり可愛いとは言えない微妙なあだ名を頂戴している女生徒が、先生が回したプリントを止め、声が出ない以上どうすることもできず、困る「彼女」のさまを見て笑う、という低俗すぎる遊びにご執心であった。しかもそのうえ、「彼女」にとって更に悪いことには、彼女の右隣の席にも、プリントを止めた女子と同じグループの女生徒が陣取っていたのだ。助けを求めることもできない。ちなみにこちらの女生徒は、プリントを止めた生徒がややエラの張った不細工(実際は愛嬌のある、と言いかえられないこともなさそうだが)であるのに対し、なかなか整った顔立ちをしている。手入れの行き届いた細い黒髪に、自前の碧い目。人間性とその人間の外見の美醜に因果関係は無いことの証明のようであった。
「彼女」にちょっかいを出すもう一人は廊下側の方に座っているので、三方をいわゆる敵に囲まれることはなかったことがもっけの幸いだろうか。しかし「彼女」の右斜め前にいる男子生徒も、「敵ではない」というだけで味方でもなかったので、結局彼女は古典のプリントをこの時間中に手に入れることはできないに違いない。先生が気づかぬふりをして前から回しても、またエラ不細工が途中で止めてしまうに決まっているからだ。かといって先生に、直接「彼女」にプリントを持っていくほどの勇気がないことはクラス全員が知っていることである。もちろんエラ不細工こと芳賀山も、欧州系の血が混じっているせいで碧眼を持つ、整っている方こと赤沢も、そのことは十分承知していて、たとえば怒ると怖いことで有名な保健の関西先生の時には「彼女」にちょっかいを出さないように決めているようだった。
芳賀山にも赤沢にも気付かれないように、そうっと後ろを見やると、この時間中に完成させて提出させねばならないプリントを手に入れられない「彼女」が、困り果てて肩を震わせているところである。
リスを見られなかった代わりに、嫌なものを見た。
確かに朝食は食べてきたし、窓の外の青は鮮やかではあるのだが、ただ、今の気分では口が裂けても「ごきげんな朝」などと言えそうにはなかった。
野卑な笑い声が先生の教科書を読み上げる声をちょうど掻き消して、騒音の中間にいる皆は頭が痛そうに顔をしかめている。根拠はないが、自分がそうなのでほかの皆もそうなのだろうと思う。
「彼女」は、その名を篠目千日紅といった。
センニチコウ、花言葉が「変わらぬ愛情」である花の名を持つ彼女の受ける、とても愛情ありとは言えぬ行為は、ある種皮肉のようですらあった。
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