生誕の光と闇 1
サラリ、と音がした。
それは例えるなら、硬く──堅く。厳重にかためられてきた塊。氷河期の生きものをそのままに固め、閉じ込めてきたような硬さ。しかし、それは時の劣化に耐えられない。
あるいは……強固なものを削る様々な事象によって。人の思いや自然界の動き。それに影響され、左右される世界。
固めているものが、それらに起因するものだから。
世に出すまい、と決意した人の思い。身命を賭した思い。それを封じるために、すべてを投げ打った心。
しかし……思いは風化する。心も、世の中も……人の気持ちも。
塊は、それらに触れて変化する。サラリ──サラリと。欠片のように剥がれ落ちる。やわらかくて脆い、かつては強かったはずのもの。
その音を聞く、一人の守がいた。
時を数えるのも面倒になるほどの、永遠にも等しい時を過ごすもの。守はいつも、その音を聞いていた。
時にはささやくほどの音。時にはとどめようもないほど、大きな音。そして時には、剥がれ落ちまいとひっしな抵抗を見せる音。
すべてが人の思いだ。そして今、守が耳にしているのは、サラサラ、サラリ──と、確実に積もってゆく音。
もうそれは、とどめようのない音だった。
守であるものには、ほんの一瞬きだったか、それとも、眠るように少し前のことだったか。あの人が来た。空間としては時が止まり、しかし、外の影響は受け続ける場所に。
塊が時を刻み続けるそこへ、守以外の者が。
その人は、塊に小さな布を垂らした。まるで──布にしみ込んだ何かをそこに教えるように。だれかの血を。
瞬間──。
時は動きだした。空間ごと息衝くように、力強い脈動で。守であるものにも、それは目をみはる光景だった。
強い、何者にも破られない強固な空間が揺らいだ。いや、動いたのは塊。大きく脈打ちだしたそれに、塊を覆うものが剝がれ出した。
それは、守であるものが今まで見てきた以上に著しいものだった。これまでにも時の情勢に左右して剥がれる頻度は大きかった。しかし、その血がもたらした影響はすさまじかった。
守であるものが見てきた、大小の事象と比べものにならない勢い。
檻は破れる。──それは、守という役目を負ったものにも理解できた。そして、その人が消え、剥がれる音をなす術もなく刻々と聞くだけだったそこに、ふいに別の音がした。
ガシャリ──と、歪な音が。
剥がれ落ちた様々なものを踏み潰す音。積み重なった思いを意にした様子もなく。
その音を奏でた者は、塊に刺激を与えた人とはまた別の者だった。守であるものは、その人物を知っていた。なつかしい匂いだった。しかし、その名を口にする術を失っていた。
そのため、心の中でただ、つぶやいた。
──巽家、十二節の名を。
~・~・~・~・~
桜の香りも散り出した都内。
季節は卯月に入り、ゆるんだ気温で人々を戸外へ誘う軽やかさ。春一番から続けて吹き荒れ、季節が逆戻りしたような冷たい雨が降ったある日。
美桜は都内にあるホテルの一室にいた。
お彼岸の墓参りから聴覚が戻り、自分の人生設計に向けて再始動しだした。もう一度外で働きはじめることや、当初のシェアハウスでの生活準備。そのための引っ越し作業等々、十日足らずの間に目まぐるしく生活基盤を整えた。
美桜はやはり──自分でも自覚していたことではあるが、自分のものは自分で得たいと思った。彼女の立場では、きっと蓉子伯母のように巽家内部で守られ、日々を過ごすのが正しい在り方なのだろう。
けれど、自分を立て直そうと思ったあの時の気持ち。それをあきらめたくないと思った。家族や友人たちにたくさん迷惑や心配をかけた分、立ち直った姿を見てもらおうと思った、あの時の気持ちを。
そのために、今度は伯父や聖魔一族の力を借りてしまうが、今はそれに甘えることにした。自分一人ではどうにもならない時は、だれかの手を借りることも必要なのだと、美桜は学んだのだから。
はじめに──学生時代にコネを使って勤め始めた、大手の旅行会社。そこで知り合い、お世話になった人に連絡を取った。美桜がその後、自身の都合で一方的に退社したことを思えば、到底顔向けできない相手だった。だが、その人は話を聞いてくれた。
彼女のその後を心配していた、と。もっと早く連絡して来い、と当時の不義理より、彼女自身を叱咤する言葉で。
涙ぐみながら美桜も謝罪とありがたさで胸がいっぱいになった。そういった人たちの手も借りて新しい職場への目途も立ち──その最中に月のものもやって来て、タマたちもいない中で引っ越し作業を終えた四月の始め。
週の終わりには五大家の会合があり、その次週からは新しい職場での再出発が決まっていた。自分でもタイトなスケジュールだと思ったが、今はやってみようという意力のほうが大きかった。
それらを控えた週の始め。美桜は久しぶりに逢う小梅に連れられて、都内の隠れ家的な一軒家を訪れていた。
「あの……小梅さん?」
美桜ちゃん、と彼女より頭ひとつ低い女性は、それは不敵な笑みを見せた。まさに、ニヤリと絵に描いたような顔で親指を立てて。
「ウェディングエステならぬ、五大家会合エステよ。万年苔が生え腐って、もはや原石も見えない化石老人たちの度肝を抜いてやるのよ。使い古された言葉がなによ。だれもが夢見る言葉だから使い回されてきたのよ。今日から五大家会合日まで、私があなたのフェアリーゴッドマザーよ!」
えぇ……、と美桜は正直恐れおののいた。小梅の迫力に。
新居で荷解きを終え、一息ついていたところに現れた小梅は、有無を言わせず彼女を隠れ家的なエステサロンへ連れて行った。そこで二日ほど、まったりゆったり、アハハンな時間を過ごさせた。
もともと……巽家にいる間に、筋力を愛する戦闘兵第二部隊長、征木嘉哉に筋力トレーニングを受けていた。彼は隼人とはまた違って、はっきり言って筋力バカだった。伯父から、「座り仕事ばかりでは身体がなまる。少し鍛えろ」と紹介された時には正直、「シュウの特訓のとばっちり……!」と、うらめしい思いしか浮かばなかった。
紹介された彼は、アスリートの専属コーチ張りの指導を施したので。
その特訓から解放され、筋力をほぐされ、全身を労われるエステの時間は、極楽以外の何物でもなかった。『──程よく引き締まった筋力ですね』、と言われる評価には釈然としなかったが。
小梅の御用達らしい、隠れ家的なリフレッシュサロンから都内のホテルへ移ったのが、水曜日の夜。次の日には眺望も素晴らしいスイートルームで目覚めて、映画で見たような広々とした室内での朝食にホテル内でのスパやヘアカット、さらには衣服のコーディネートまでされて、ほんとうに現代のフェアリーゴッドマザーがいるようだった。
「あの……小梅さん……」
フフ、と出来栄えをながめる小梅は、どこか遣手婆のよう――なんてことを口にしたらとんでもないので、口をつぐんでいる。
『一匠に了解は取っているから』と言う小梅に、美桜の護衛に付いていた聖魔たちも異論なく従ってきた。それはあらかじめ、話が通っていた証しだろう。美桜を磨くことに専念する小梅にさすがに途中説明を求めると、おのれを責める表情を垣間見せた。
『これぐらいはさせて』、と罪悪感混じりに。
ふと思い出した。下総の山荘で、絢音が口にしていた言葉。美桜のことは、一条家の小梅から聞いて、あらかじめ知っていたのだと。情報を漏らした小梅。ゆえに、これは小梅なりの精一杯の詫びのしるしなのだと思い至った。
そんなこと、何も気にすることないのに。小梅と絢音は別の人で、抱えている思いもそれぞれに違うのだから。美桜だって、それは友人の早智との関係で知っている。彼女は美桜の傷に関して、責任と罪悪感を負っている。そんなこと、まったく彼女のせいではないのに。
「小梅さんって……けっこう律儀なタイプですよね」
世間の常識を無視するような面があるのに。人との関係は大切にしている。美桜の微笑に小梅は頬を染め、『フェアリーゴッドマザーに生意気なことを言うんじゃありません!』と、次なるレッスンを課した。
彼女が普段は履かない、ピンヒールでも姿勢を崩さず立って歩き、さらに余裕をもってふるまう態度を強いられた。自分に自信が持てない美桜には、これが一番の難関だった。様々な人の前でもその姿勢を保つこと。
人の目にさらされても、好奇な目にさらされても。──自身の誇りを失わない。その覚悟をおのれに強いること。
小梅は、外資系の高級ホテルのクラブラウンジからはじめた。都内の一等地にあって、五十階以上の眺望も素晴らしいラウンジ。
そこでアフターヌーンティーから夕食までの軽食と、様々にクオリティを満喫できるサービス。ラウンジは会員が条件をクリアすれば利用できる。そこまで肩肘を張らなくても済む。しかし、明らかにそのエリアで談笑する人々は、彼女が普段生活する場所と異なる空気、──世界だった。
階級社会の象徴的なものに感じたが、ふだん頑張っている人が特別感や贅沢空間を味わって活力にできるのなら、否むものではないと思う。こんな一時やサービスを受けられるのなら、また頑張ろうと思えるのだから。
美桜の場合は、伯父からの誕生日プレゼント、という贅沢時間だった。
彼女のお給料なら、一月の半分以上を払って体感する、特別空間。クラブラウンジと名を打つそこは、最上層階とは思えない異空間の場だった。吹き抜けの空間には流れ落ちる滝と涼やかな音が広がる和のエリアと、プライベートに歓談する場と分けられている。昨今の外国人客層を意識した、和のテイストで整えられた切子細工や色調。そして、設えられた小物類や提供される茶器等も日本の一級品で整えた抜かりのなさ。
一見、初心者には堅苦しく息が詰まりそうなそれらも、五十階以上という眺望のそこで供されるだけで緊張がゆるむ。視界に開放的な都会の高層風景が広がるからだ。昼間は映像でもよく見る光景だが、日が落ちかけると、それは一変した。
夜にはまだ早い、夕暮れの高層ビル群。
空には、迫る藍色と留まる夕日の色。──光り出す地上の彩り。三色のグラデーション。
これから訪れる、夜の帳。空と地上と、両方から染まっていくように。まるで、一日の終演を迎えるよう。それとも、夜の開幕を迎える喝采のそれなのか。息衝く人々も連想させる瞬き。
たぶん、見る者によって異なる夕暮れの灯り。夜景のそれよりも、この一時のほうが好きだと、美桜はその光景に見惚れた。
その光に心を奪われながら過ごした、クラブラウンジと別階のディナータイム。次の日には、さらにグレードアップした。
こちらは本当に、厳選された人のみの最上階エリア。踏み入る人々も様々な特権階級の人々。美桜もさすがにおびえと恐怖が勝った。小梅が美桜をこういった場に連れ出したのには、わけがある。
『五大家当主たちは、大狸揃いよ。美桜ちゃんみたいな赤子同然の者なんて、太刀打ちできっこない。それでも、自分を保つのよ。たくさんの人の目に触れて、値打ちを計られる視線にも耐えなさい。こういった、おのれを見定められる場で、侮られない度胸を身に付けるのよ!』と。
……フェアリーゴッドマザーは、嘉哉に劣らないスパルタだった。
まずはクラブラウンジからはじめて、その次の段階へ。嘉哉に鍛えられた筋力でピンヒールにも耐えられたし、様々な人の視線を浴びても姿勢を保つ地力ができた。姿勢が崩れなければ、虚勢も保てるのだと理解した。
──とりあえず、と小梅から言われた。
虚勢でもいい。侮られる隙を見せないこと。余裕を持つこと。弱みを見せるな。痛いところを突かれても、余裕のほほ笑みで返せ。自分を知っているのは、自分だけ。虚勢だって、それを貫いていけば本物の盾になる──。
そう言われた。まずは練習よ、とクラブラウンジで昼からサービスを受けた。美桜は人から受けるものに恐縮しがちだが、場によってはそれを大らかに受ける余裕を身に付けなければならない。
世の中には階級がある。それはもう、誰にどうにもできない事実だ。そこで生きている人もいる。けれど、染まることはない。教えの様々を思い出して、クラブラウンジで受けた様々な視線と誘い──それを躱した。
どんな階級にもいる、下心ありそうな男性陣のそれ。外国人客の誘いにもきっぱりと断った美桜に、小梅が少し驚いた顔をしていた。
「美桜ちゃん、英語が話せるのね」と。
それに美桜も久しぶりの語学力ではにかんだ。日常会話なら、と。大学時代から海外の語学や歴史に興味を抱いて、二年ほどワーキングホリデーで英国に滞在していた経歴がある。
なるほど、と小梅は納得した様でうなずいた。
「美桜ちゃんの英語、きれいなクィーンズイングリッシュだものね。RPだけじゃない……アイリッシュ訛りが混じるのは労働階級を意識しているというか……」
一人納得する小梅に瞬くと、くったくなく返された。あいつの過保護な面に、あらためてあきれただけよ、と。
「日本国内ならともかく、海外ならあいつが手抜かりするわけもないしね。滞在先や周辺にだって厳選するわよね……」
あの過保護男、とつぶやく小梅には諦観の様子があった。そして促した。支度に行きましょう、と。
昼の装いから夜のそれへ。
昨日も体験したのでわかっているのだが、やはり落ち着かない。人の手を借りて下着の調整から身なりを整えられることに。彼女らは手慣れた様子なので、気にする美桜が小市民なだけだが。
メイクやヘアセットやら、すべてを整えられて、鏡に映った美桜はちょっと……我ながら物語の中の主人公みたいだった。
初対面の美容師がしばらく彼女をながめて、「髪の色を戻しましょう」と言った。美桜は少しでも自身の気分を上げるために明るい色に染めたが、美容師は元の色のほうが似合う、ときっぱり告げた。
その勧めに従って黒髪に戻し、毛先はゆるく遊ばせる部分と片側を結い込んで頬を出した。メイクも春色を基調にしながら、初夏の色を混ぜた、夜に合うシックなものに。
そのメイクに合わせてドレスも選ばれた。
肩から両腕を出す、ハイネックのブラックドレス。細かな襞を寄せ集めたデザインと布地はやわらかに女性のラインを映し出し、胸元からウエスト、腰から膝下へと流れるように身体に添う。妖艶さと一線を画すのが、首元を彩る、シャンパンピンクのリボンだった。
片側で結ばれた大きなそれが人目を惹く。垂らされた帯に視線を釣られれば、大胆にデザインされた太腿下のスリットへ。人目を引くそこには薄い別布がのぞいて、肌を見せそうで見せない、絶妙な仕上がりになっていた。
着る者の愛らしさと色香、両方を表現するかのようなドレス。
美桜も、光を受け止めるブラックの色に息を呑んだ。黒は布地によってその質がわかると聞くが。
この重みのある質感、輝き。合わせたように、落ち着いた大人の色香を見せる、自身の髪の色。
名の通った美容師は、さすがに審美眼もすごいのだと思い知らされた。しかし……さすがに諸々、お値段が気になってきて仕方ない。鏡の自分に見惚れた次には、「……小梅さん」と半泣き状態だった。
別室で同じように着替えを済ませた小梅は、肢体に添った深紅のドレスを身にまとっていた。くっきりと引いた口紅と精気に満ちた勝気そうな容姿と相まって、あでやかな蝶のような印象。
その小梅はやはり、美桜の出来栄えにしばし見惚れて、そしてにっこり笑った。
「私の見立てもなかなか捨てたもんじゃないわね」と、誇らしげに。そして美桜に告げた。これは、私からの誕生日プレゼント、と。
とんでもない、と青ざめて首を振る美桜に、女心をくすぐる言葉も添えてきた。美桜ちゃん、今度友人の結婚式に招待されてるんでしょう? と。
ウッ、と詰まった彼女に小梅は同性ならではの援護射撃を向けた。
「新しいドレスで出席してらっしゃいよ。自分に合った新しい服は、それだけであなたの魅力と自信に繋がるから」
リボンは取り外しもできるわよ、首元はアクセサリーで飾ればいいわ、と小梅は出席者側の配慮も心得ている。さすが人生経験豊富……と、口にしたら怒られるのでうなずきで返した。
彼女の気持ちがうれしくて笑顔でお礼を言うと、小梅はいたずらっぽい顔になった。美桜の反応を見る様子で、靴はね、と言葉を紡ぐ。
「──宗興からよ」
「え……!」
突然名前を出されて美桜も驚いた。小梅はおかしそうに笑う。
「本当は、ドレスも自分で贈りたいって名乗り出たんだけど、さすがに宗興一人を特別扱いするわけにはいかないしね。請求書を、とも言われたけど……会合前にそれもちょっと。一匠と私が止めて、そうしたら、靴だけは、って言われたの」
驚きのまま、履かされた靴に目を落とした。ドレスに合わせた黒のヒール。足を通した瞬間に分かった。まるで美桜のためにあつらえたような、サイズと形、些細なクセ、すべてが違和感のない造り。
おそらく、特注して仕立てられたもの。ヒールがあるのに歩きやすくて、おろしたての新品なのに、履き慣れたもののように馴染んで軽い。
まるで……と思った彼女の心を読んだように、小梅が小さく笑った。
「その靴で、美桜ちゃんに好きなところへ歩んでほしいんでしょうね。できれば──まあ、自分のところに」
どうしても頬に血が上って動揺した。自分でも今、シンデレラ気分を味わっていただけに。
小梅さん……、とつぶやく美桜に、フェアリーゴッドマザーはいたずらっぽく──それは晴やかに笑った。
「舞踏会へ出掛けましょう。シンデレラ」と。




