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桜風記  作者: 由唯
53/61

主人と下僕の覚悟 1





 美桜はひっしに走っていた。


 追われる者のひっしさで、とにかく逃げなきゃと息を切らす。悪夢だと、どこかでわかっていた。一時期よく見た。色んな事に追い詰められて、自分でも気持ちを追い詰めて。いつも夢の中で逃げていた。


 でも、今回はそれと違っていた。捕まったら、恐怖だけが待っている。彼女が彼女でなくなる。そんな確信。

 真っ暗闇の世界。背後の闇の奥。そこに得体の知れないモノがいる。


 彼女を見ている。手を伸ばそうと蠢いている。──でも、できない。()()から出て来られない。だから、今のうち逃げなきゃならない。なのに。


「……っ」


 足が重い。ずっと重たい泥濘を蹴散らしている感触。彼女をそこに沈めようとしている。甘い誘惑がある。異質なものなのに。相反するものだとわかるのに。彼女の中にある闇にささやく。


 ──復讐してあげる、と。


 美桜を傷付けたもの。彼女の信頼を裏切った男。一緒にいたいと思い、尽くしたすべてを手酷く返した男。嫌だと抵抗しても、自分の思うままにふるまった男。彼女を都合よく使いながら、子どもができない、前の奥さんのほうがよかったんじゃない、うちの家系に入れてよかったの、母さんを任せて大丈夫か、警察沙汰って母さんに何したんだ、弁護士ってなんだよ、こっちが訴えるほうだろ、母さんが認知症なのをいいことに都合のいいこと言ってんだろ──。


 参っちゃうわよ、あのお姫さま、大方、ストーカーってのも男の気を引きたくて言ってんじゃないの。──高城さん、これから帰宅ですよね、電車が遅れてるそうですよ、自分車なんで送っていきます、高城さん、宮田課長とお昼される仲なんですか、仲良さそうでしたね、高城さん、駅前の花屋でこのお花買ってましたよね、ちょうど見付けたんでどうぞ、高城さん、今度誕生日ですよね、プレゼントって何がいいですか──。


 次第にエスカレートしていった男。さして接点があるわけでも仲がいいわけでもないのに、親しい同僚、友人のようにふるまった。当時、すでに名字は変わっていたが、職場では旧姓で通した彼女の名字をずっと呼び続けた。周りからもささやかれだした。高城さんって結婚してたんじゃなかったっけ、え、まさか不倫? 元カレと切れてないとかそういうの──?


 面白おかしくさえずる、いくつもの声。実家に戻った茶園でも同じことは起こった。高城茶園の三男、芳雄さん家の娘さん、美桜ちゃんの話聞いた──?


「……」


 息が苦しい。足が重い。

 ドロドロしたものが足元にまとわりついて、彼女の歩みを止める。止まったら捕まる。だから逃げなきゃ──。


 そう思うのに、闇の中から声がする。復讐してあげる。あなたを苦しめたもの、辱めたもの、卑しく扱ったもの、まとわりついたもの、軽んじたもの、蔑んだもの、けなしたもの、無責任に噂を広めたもの──。あなたを貶めたものすべて、地獄に突き落としてあげる。


 復讐しましょう。あんな奴らをのさばらしておいてはいけない。あいつらは何度でも同じことをする。法に触れなければ何をしてもいいの? 人を傷付けて、尊厳を踏みにじってもいいの? そうじゃないでしょう。


 あいつらに思い知らせてあげましょう。今ならその力がある。ゆだねればいい。あいつらの後悔と絶望に染まる顔を見たら、どれだけ気が晴れることか──。


 想像の笑声を上げる人物がいる。ハッ、と夢の中なのに、美桜は苦しい息をついた。

 わかった、と思った。闇は自分の中から生まれている。復讐をささやく声はもう一人の、あの時の美桜自身だと。


 あの時──。

 ただひたすら、人を呪い、妬み、恨み、苦しみの地獄のような中にいた。その時の美桜がささやいている。苦しい、と。復讐しなければ、自分は救われない。


 でも──と、美桜は反論していた。

 自分はちゃんと救われた。友人や、家族によって。苦しみの連鎖の中から救い出されて、息ができた。あの時の自分と、今の自分は違う。


 他の人と関わりも持てるようになった。自分以外の人が抱えている苦しみや闇も見た。闇はだれでも持っている。美桜一人だけではない。それが、当たり前なのだと。──人が人として生きるからには。


 じゃあ、許すの、と苦しみに囚われた美桜が叫ぶ。

 あの時受けた痛みも苦しみも悔しさも、自分は何ひとつ忘れていない。だから、傷として残しているんじゃないの? 忘れていない証拠でしょう。わたしは許さない。絶対に、絶対に──。


「綾、音さ……」


 同じ言葉を繰り返している、と気付いた時。


 美桜はヒヤリとする気配を感じた。背後に。足が重くて苦しくて、知らぬ間に手を付いていた真後ろ。そこに、()()は近付いていた。


 まだ出て来られないはずなのに……どうして。

 首筋に、ヒヤリとおぞましいものがかかった。異質なもの。彼女と相反するもの。けれど、彼女の中にある闇がそれを歓迎している。


 ──これで復讐ができる。

 彼女の意志かもわからない思考にそれが答える。ニヤリと、酷薄な笑いという表現がされたのがわかった。


 見付けた──と、頸動脈から耳元に触れてささやかれた、闇の気配とともに。




 精一杯の叫びは、強い力に制された。


 とっさに開いた視界に鋭い双眸とひっしな顔をした男性──シュウの姿が映って、美桜は夢中で手を伸ばした。自分でも何を思ったのかわからない。ただ、無我夢中だった。


 悲鳴を上げ続けた喉のふるえと身体中の恐怖と、如月シュウという絶対的な存在感。それにどうしようもなく、泣きたくなったのかも知れない。確かめて安心したかったのかも知れない。

 ……シュウ、無事だった、と。


「シュウ……っ」


 大泣きした美桜になされるままだった彼だが、息をつく様子で彼女を支えて頭に手を置いた。不器用そうになぐさめる仕草で。


 厚い胸板とシュウの体温と、脈打つ鼓動があって、美桜は次第に落ち着いていった。それと同時に違和感に気付いた。自分はさっきから、大泣きしてしゃくり上げているのに──音がしない。


 え……、と驚いて顔を上げた。シュウの目の中にひどい顔の自分が映って、あわてて袖口で顔を拭う。タオルが差し出されて、それで顔を拭って支えられながら身を起こし、ようやく周囲をあらためた。


 見覚えのある部屋だった。彼女がよく利用していた和室ではなく、昭和モダンテイストの、クラシックな部屋。一度、巽家当主、貫成に案内されて見て回った時に目にしていた。


 板張りの床にベッド。その周りを点滴やら血圧計やら現代的なものが占めていて、彼女を戸惑わせる。さらに無意識に外したらしい呼吸器もあって、機械音がするだろうモニター画面もあった。

 しかし、なんの音もしない。室内にはシュウ以外の人の姿もない。いったい、何がどうなっているのだろう。


 閻鬼に襲われ、闇の気につかまった後から記憶がない。巽家にいて、シュウがそばにいるということは、彼が駆け付けてくれたのだろうか。しかし、それよりも。


「シュウ……なんで音がしないの……?」


 シュウの目がめずらしく大きく開いた。その動きと一緒に美桜も気付いた。自分の声も聞こえない──。


 え? とあわてて喉と耳に触れて、左側にだけ分厚い包帯が巻かれているのを知る。そして左頬はいやに冷たく血の気がない。なにこれ、と困惑と恐怖がふくらみはじめる。喉には何もない。とっさに開いた両手や寝間着のような浴衣を着た自分の身体にも何も。

 確かめて美桜はもう一度、彼をふり仰いだ。


「シュウ……?」


 やっぱり、聞こえない。喉の器官や頭蓋に響いたような振動はわかる。自分はたぶん、声を発した。なのに、何も聞こえない。


 恐怖が大きくふくらんだ時。シュウが点滴の針がない美桜の片手を、自身の顎から喉へ触れさせた。口元が動いた。短く、はっきりと。彼女の目を見て、伝えられた。

 ──美桜、と。


「……っ」


 収まった涙が再びこぼれて、美桜はとほうに暮れた。シュウが彼女の名を呼んでくれたのはわかる。でもやっぱり、聞こえない。

 首をふって泣きだした彼女に、いつものように眉間を強く狭めたシュウが、そっと胸元に引き寄せた。先と同じように、今度は彼のほうから美桜を安心させるように抱きしめた。


 シュウの胸元でひとしきり泣きじゃくって、変わらず規則正しく脈打つ振動を感じて、ようやく美桜も落ち着いてきた。どうしようという不安と恐怖はあったが、シュウの変わらぬ力強さが彼女を安心させていた。


 彼はどうやって美桜のもとへ戻ってきたのだろう。鼻をすすりながら身動ぎすると、腕が離されるのもわかる。


 羞恥心で目を上げられないでいると、気遣うように左頬を包まれた。そしてやっと気付いた。服に隠れた袖口から、白い包帯の跡がのぞいている。ハッと目を上げると、額に傷痕と、鎖骨から続く身体にも包帯の跡があった。


「シュウ! 怪我……!」


 急いで腕を引いて精気を分けようとすると、怒った顔で制される。口元も動いたが、何を言われたのかわからない。

 それでもひっしな美桜に、シュウが強く彼女の肩をつかんで押しとどめた。いらない、と言われたようだった。


 ヒクッと美桜の喉もふるえた。そうだ、と思い出した。精気を分ける時に他人が自分の内に踏み入ってくるような感覚。ごめん、とつぶやいた次には、もう一度謝っていた。


「ごめんなさい……」


 精気を分けて彼の怪我を癒す行為は、シュウを再び、戦いの場へ向かわせるということだ。どんな目に遭ったのだろう。妖魔だけでなく、同族からも命を狙われるなんて。

 しかしそれは、美桜と契約を結んでしまったからなのだ。今がどうあれ、シュウが望んだことではなかったのに。


「ごめ、なさ……っ」

「……っ」


 鋭い眸が強く屈折して、美桜は息も荒くシュウに抱きしめられた。泣きだした感情も止まるくらい、驚く熱さで。


 何かを口にされた、と思った。聞こえないからわからないけれど、たぶん──謝るな、というような言葉。さらに強く胸の中に抱きしめられて、苦しそうな何かもつぶやかれた。


 ひどく深い、彼の悔恨の感情。その奥に息衝いている、強く熱い感情。それが伝わって、美桜も少し息を呑んだ。


 そのまま強く抱きしめられていたのは、もしかしたら、シュウも彼女の無事を確かめたかったのかも知れないと思った。この機械類の数々を見るだに、美桜はちょっと危うかったのかも。さらに目を覚ましてみたら、聴覚に異常が出ている。護衛の彼としては、どれだけ自身を責めて悔いても、仕方がないことなのかも──。


 シュウは責任感が強いから……、と美桜もそっと、その背をなだめるように手を添えた。


 シュウの激しい感情が徐々に引いていくのが伝わった。そうして腕をゆるめ、静かに身を起こした彼の面には、やっぱり変わらぬ鉄面皮があって、今の行動の人物と同じか混乱してしまう。

 でもなぜか、目が離せない空気だった。


 潔癖そうな口元が何かを口にして、目元だけがまだ屈折した様子で彼女の左頬に手を添える。まるで、冷たい頬を暖めるように。


 激しい怒りのような痛みのような、そんな感情が眸にあって、美桜も内心首をかしげた。さらにシュウが何かを口にしかけて瞬くと、すぐにいつもの様子に戻る。手を引いて目を上げる動きに美桜もつられた。


 ふり向くと、扉から久子医師と巽家家人の笹野が姿を見せるところだった。


「先生……」


 口にして美桜はやっぱり聞こえない、と唇をかんだ。

 タオルで顔をぬぐう間にシュウが説明をしてくれたらしく、血相を変えてかけ寄ってきた久子と笹野に具合を確かめられた。


 声が聞こえないとわかると、タブレット端末を持ってきて音声で文字表示がされるよう手配をしてくれる。そしてやはり、自分は巽家にいること、閻鬼は駆け付けたシュウが追い払ったこと。あれから一日が経っていて、一匠伯父たちも無事だと伝えられて、ホッとした。


 シュウがいったん席を外して、美桜は笹野に手伝ってもらいながら身支度を済ませた。久子に改めて包帯が巻かれた左耳の具合や手当もし直される。難しい顔の彼女に美桜もやはり不安になった。


 自分の聴覚はもう、このまま失われた状態なのだろうか。その表情を見て久子が少し相好を崩す。タブレットに向けて言葉を発した。大丈夫よ、と。


『もう一度機材を揃えて検査し直すけれど、おそらく一時的なものだと思う。左耳だけでなく、右耳も聞こえないでしょう? 色々と影響しているんだと思うの』


 あくまで、まだ私の推測だけどね、と医師としての線引きはする。呑めないものを呑むようにしてうなずいた美桜に、いたわる目を向け、そして笹野に何かを告げて居住まいを正した。


 下がった笹野と交代でシュウが戻ってくる。彼が座っていたらしい、寝台横の大きめのチェアに腰掛けるのを待って、久子は真剣な顔で美桜に向き合った。タブレットに言葉が浮かぶ。美桜ちゃん、と。


『どうか、落ち着いて見てね』


 そして身支度の間には渡されなかった、大きめの手鏡を横のチェストから出して渡してきた。

 そこに映った自分を見た瞬間──。


「……っ」


 衝撃が走った。包帯が外されて左耳には大きめのガーゼだけが残っている。しかし、その下から明らかに異質な色が覗いていた。赤黒い、肌を這うような蔦の色。邪気。


 とっさに鏡を取り落とした美桜に、靄のような影が視界に入る。自分の左耳から生み出されたものが。


 あわててふり払う彼女の、耳から頬を包み込む手があった。きつく眉根を寄せたシュウが、身を乗りだした片手で。それだけで靄は消えていった。


「なに……なんで?」


 痛みはないから美桜も気付かなかった。ただ変に冷たいとは思ったが……。タブレットの画面が差し出され、久子が話す言葉がそこに反映されていく。美桜もどうにか自分の状態と状況を把握した。


 閻鬼の力を受けて、傷口から闇の気が入り込んでいること。力が強かったため、すぐには祓えないが、二、三日で消えるだろうという術者の診立て。その間、一匠たち魔を宿した者はそばに近付けない。使い魔ももちろん。


 闇の気から、生き物の身体に入り込んだそれは、邪気という。それは魔が近くにあると、増長させてしまう恐れがある──と。


『大丈夫よ、美桜ちゃん』

 タブレットに新たな文字が浮かび上がる。久子のやさしい微笑とともに。


『シュウ君がついてるから。刺国若比売命(さしくにのわかひめ)には、その闇を祓う下僕がいる。シュウ君がそばにいれば、邪気はすぐに消えるわ。大丈夫よ』


 久子はおそらく、同じ女性として顔や首に痣のようなものができた美桜を気遣ってくれたのだろう。その気持ちはわかったので、美桜もどうにかうなずいた。久子はさらに言う。


『美桜ちゃん。言葉を口にすることを止めてはダメよ。あなたはちゃんとしゃべれる。私も、シュウ君も、あなたの周りにいる人は、みんなあなたの言葉を聞くわ。自分の声も聞こえないことは、会話する相手のタイミングも空気も……自分の声の色もわからなくて、怖いと思う。でも、しゃべることを止めてはダメよ』


 今度は声帯に支障が出ちゃうからね、と久子は医師らしく真剣に告げる。美桜もそれに息をつき、泣きそうになりながらうなずいた。

「──はい」と、言葉にして。


 その後、入院患者のように寝台上で食事を摂り、聴覚以外は問題ないという久子の診断で、少し身体を動かすことを勧められた。確かに一日とは言え、寝たきりだった身体は節々や腰が痛い。湿布薬を貼るのだけはイヤだと思ったが、外に出ることにはためらいがあった。


 ──もしも、また。


 なんでもない道路や縁石を踏み越えただけで、あんなことが起こったら。なにより、あの閻鬼という妖魔。美桜がどこにいても、あの妖魔は彼女を狙って来るのではないか。


 考えたら、外に出ることに恐怖を覚えた。久子は安心させるようにタブレットに言葉を重ねる。大丈夫、ここは巽家だから、と。


 なおもためらう美桜に、シュウが何かを口にしたらしかった。それに久子はうなずいて、美桜に呼び出し操作だけを教えてタブレット端末を渡し、部屋を後にしていった。

 おそらく、伯父にも報告が行くのだろう。こういう時こそ、タマにそばにいてほしかったと思いながら室内をながめる。


 八畳ほどの板張りの部屋。アンティークな家具と寝台に、壁紙は明るい花柄だ。たぶん、女性用の部屋。そこに機器類とシュウが座っていたチェアだけが現代的で、違和感がある。


 チェアは背もたれもしっかりしていて、リクライニングもできそうだ。もしかしたら、彼は美桜に付きっきりだったのかも、と思い至った。木曽の時と反対の事態で。


 そのシュウは、部屋の窓を開け放していた。ふわりと春の香りがカーテンを揺らして室内に入り込む。

 タブレットで見たからわかる。今はまだ昼前の時間帯。あの出来事から、ほんとうに一日しか経っていない。


 香りに誘われて美桜も寝台から足を下ろし、スリッパに履き替えた。窓辺に近付いて外をうかがうと、薄曇りながら春の彩りにあふれた庭園が映る。紫木蓮の木が近くにあって、香りはそこからただよっていた。


 美桜はなんとなく、シュウがうながしている気遣いを感じた。

 間近の彼を見上げて、真っすぐな目にどうしても左頬を手で隠してしまって、あの、と言葉を口にした。


「散歩……行ってみたい。あの……シュウ、いる?」


 そばに、と聞くのは子どもみたいで気恥ずかしくて、目を合わせられないでいると、右手を取られた。先と同じようにシュウの顎下と喉に手を添えられる。

 目を上げた彼女のそれに、シュウが眸を合わせてしっかりと言葉を口にして伝えてきた。


「います」──と確かな意思を見せて。






 ~・~・~・~・~




 浴衣の上から大きめの上着をかけてもらい、突っ掛けのような外履きに履き替えて春の庭園へ出た。


 表玄関からはわからない造りだったので、もしかしたら、私的な秘密の花園なのかも知れない。いいのかな、と思いながら野趣にあふれたそこを散策した。


 たぶん……だれかが手を入れかけて、途中でそのままになってしまったような中途半端さがあった。花壇の区画を作りかけたような側溝や、沈丁花や躑躅の低木。その端に置かれた、苔が浮かんでしまった庭小人。


 箱庭より少し広めのそこは、途中に草木を利用したアーチや日時計、野鳥用の巣箱まであって、訪れる者を楽しませようとした意図がうかがえた。


「…………」


 不思議な思いで花を咲かせる、菫やオオイヌノフグリ、雛罌粟(ひなげし)など春の野草をながめる。庭園を突っ切って木立を進んだ先には、二分先の桜の木があった。固い蕾に閉じたままの色。


 目の前を遮る一本を避けると、さらに木がある。避けて歩くと、同じような桜の木。それをまわっても、やはり木があった。美桜は目をしばたたいた。まるで、桜の木に通せんぼをされているようだ。


「シュウ……どっちから来たっけ……?」


 右手で服の端をつかんでいた彼に問う。建物から外に出る際、断って服の端をつかませてもらったのだ。どうしても、彼と伯父が目の前から消えた恐怖が焼き付いていて。その後の恐怖があざやかで。


 美桜が左頬を押さえたままなので、タブレット端末を持ったシュウが片手で指し示す。元来た道と、そして目の前の桜の木と。


 え、ととまどう美桜に、シュウが自身をつかんだ彼女の手をその桜の木へ移した。端末を足元に置いて、美桜の手の上から自身のそれを重ねる。ピリッと小さな電気が走ったような気がした。


 美桜も、やっと疑問に思った。下総で満開だった桜が、相模の巽家で二分咲きなんてことがあるだろうかと。


 なんとなく、惹かれるように額を幹に触れ合わせると、樹木の中をめぐる血管のような葉脈がわかった。そして、元気がない、と。凝っているものがある。闇の(おり)のようなものがあって、それが樹木をめぐる精気の邪魔をしている。


 そこに息を吹きかけるように思いを傾けると、徐々にほぐれていくのがわかった。ゆっくりと幹の中を渡る精気の息吹。


 花の香りがして目を上げ、二分咲きだった蕾が今にも花開きそうなほど、パンパンに張っているのを見る。わ、と小さな声で驚いた美桜にシュウの影が降って、首筋から精気が吹き込まれた。


「……っ」


 身体の中をかけめぐっていくのがわかった。彼女の中にあった闇の凝り。それが桜の木と一緒に解きほぐされて、そこにシュウの精気が入り、あざやかに異質なものを払拭していった。


 熱くて、揺るぎない強さ。如月シュウという、一人の男性の意志を映したもの。


 息を切らした美桜は、シュウに抱きしめられるように支えられていた。身体に力が戻って、とてつもなく恥ずかしい思いで身を起こす。


 すると、シュウの片手が左頬に添えられた。ドキリと鼓動が鳴って目を上げると、見たこともない表情があった。安堵したような、心からよかったとホッとしたような、やさしい顔。


 なにそれ! と美桜の鼓動も跳ね上がった。あわててシュウの手をはずして、左頬に血の気が戻っているのも知る。先までの異質な冷たさが欠片もない。もしかして、と鏡を見たかったが、そんなものはどこにもない。

 部屋に戻ろうかと思った美桜に、タブレットを拾い上げたシュウが言葉を移した。


『巽家の神霊です──』と。


 いや、意味がわからない。ちゃんと説明して、と気恥ずかしさで怒ったように目を上げると、シュウが言葉を続けた。


 彼ら戦闘兵に百雷の力を分け与える、巽家の神霊がいるのだと。それはいつも、樹木の形で現れる。戦闘兵には戦う武器を分けるが、今回は元気のない桜の木を例に、彼女の中の闇の塊を解きほぐしたのだろうと。それで、シュウの精気がきちんと行き渡って邪気を払拭できた。


 はぁ、と美桜はなんとも言えない気分だった。神霊──は、人狼のセツや、九重の使い魔、黒重と同じということか。

 ふり向いたそこには緑の雑木しかなく、満開間近の桜の木はどこにもなかった。神霊とやらは、あっという間に姿を消したらしい。


「あの……わたしの、邪気……は、消えた?」


 しっかりとうなずくシュウに、美桜も少しホッとした。鏡で自分の顔を見た時の恐怖は残っていた。確かめたいが……、シュウが請け負ってくれたのなら、それでいいか、とも。


 左頬を隠す必要はなくなったが、まだ曇る感情に、シュウが何かを口にしかける。そしてふと、態度をいつものように変えて目を上げた。


 つられて目をやった美桜は、庭園の向こうから手を上げてかけ寄ってくる隼人の姿を見た。怪我の痕も戦闘の跡も微塵も感じさせない彼は、初対面の時と同じ笑顔と明るさで目前に来るや、美桜の両手をにぎってふった。


 そこには、全開で彼女の無事を喜ぶ様子があった。よかった、よかった──と。ただひたすら、目の前の美桜が起きて歩いていることを。

 伝わる思いに、美桜も思わず面がほころんだ。声はやはり聞こえないが、大きな言葉で無事を喜ばれているのがわかる。


 しぜんと声が出ていた。「──ありがとうございます」と。


 くしゃりと隼人が顔を崩して笑うと、一匠のように美桜の頭をなでた。強くやさしい力。そして肩に手を置くと、やわらかく彼女を押す。少し離れていてくれ、と言うような仕草で。


 疑問に思ったが促されるまま従って、隼人の面は一変した。怖いぐらい、真剣なもの。厳しく甘えをゆるさないそれがシュウに向けられて、直立不動のまま受けた彼が、隼人の容赦ない拳で殴り飛ばされた。


「シュウ……! は、隼人さ……」


 仰天してかけ寄ろうとしたが、寄せ付けない空気があった。隼人とシュウ、両方に。隼人が立て続けに何かを口にして、シュウが難しい顔でそれを聞いている。切れた口の端をぬぐう、悔しそうな様子で。


 美桜はあわてて周囲を見やって、シュウが落としたタブレットを拾い上げた。隼人の言葉は早くて、端末はすべてを拾い切れていなかった。でも、そこに浮かんだ言葉はたぶん──。


『おまえがそんな辛気臭い顔してどうすんだ! 今一番つらいのは、聴覚を失ってる美桜さんだろうが! おまえが自分を責めて申し訳ないって面を下げてても、満足するのはおまえだけだ。そばにいるおまえのその面見て、しんどい思いをするのは、美桜さんだろうが!』


 容赦のない叱声の次には、おまえが、と強い怒りと他の者を率いてきた隊長格の判断をのぞかせた。


『おまえが自分の未熟さを嘆くだけの甘っちょろい奴なら、オレの見立て違いだ。もともと、護衛対象に守られたところから他者に付け入らせる隙を与えたんだ。シュウ。おまえは不適任だ。オレから、一匠さんにそう進言する』


 シュウの面に激しい感情が浮かんだ。その色を見る前に、美桜は叫んでいた。


「いや……っ!」

 二人の目が向けられて、ひるむ思いもあったが、美桜は止められない感情のまま口にしていた。いやです、と。


「シュウが……命を賭けるような事態になったのは、わたしにも責任があります。彼だけが責められるのは、間違ってる。ペナルティーなら、わたしも受けます。だから──」


 短い期間でも、ようやく信頼関係を築いた唯一の男性。


「……いやです。護衛も下僕も……シュウじゃなきゃ、いやです」


 すみません、と美桜も自分の感情に混乱してとまどった。


 最近、ずっと近くにいた唯一の人だから。危険なことや大変な事態も分かち合ってきたから。やっと、少しずつ歩み寄ってきたところだから。美桜を守ってくれる人だと、認識が根付いてしまったから。

 だから──。


 ひっしに自分を納得させる感情を並べていると、彼女の頭にまたやさしく手が乗せられた。すまなかった、と隼人の謝罪で。


『昨日の今日で言うことじゃなかったな。悪かった、美桜さん』


 彼を見上げ、タブレットに目を落とし、美桜は首をふった。視線の先でシュウも身を起こす様子がある。怪我の状態が気になったが、今はなんとなく、近付いてはいけない雰囲気だった。

 その彼女にくったくなく隼人が言葉を重ねる。神霊のにおいがするな、と。


『うちの奴に逢ったのか? あいつ、変わりモンでめったに姿を見せないんだが』


 美桜もうなずいた。桜の木が現れた、と。隼人は仰天したような表情を見せる。桜!? と。


『オレやシュウ、他の戦闘兵の時には、ハリエンジュか赤松、棘のある木だったぞ。……あいつ、相手を見てやがるな』


 その表情とタブレットの言葉を見て、美桜も小さく笑う。隼人もほほ笑んで美桜の顔をながめた。邪気はほぼ消えたな、よかった、と。


『名取医師にも言っておくが……念の為、今日明日は使い魔や一匠さんたちは近付かないほうがいいだろう。一匠さんは、ものすごく心配して、ものすごく怒ってたぞ。正直……オレらもかなり怖かった。美桜さんを巽家に運んだ足で、九重の使い魔を捉えたまま、一条本家に乗り込んでいったからな』


 え!? とタブレットを見た美桜は遅れて驚いた。隼人は彼女があわてるのをわかっていたように笑っておさえる。大丈夫だ、と。


『昨夜のうちに無傷で戻って来てる』


 やっぱりあの人はすごい、とくったくない感服と憧憬。そして息をつく。どこか子どもっぽい悔しさを見せて。


『すごすぎて、かなわなすぎて、時々腹立たしいくらいだ』と。


 わかるか、美桜さん、と言われても、彼女にはさっぱりわからない。あの人はなぁ、と隼人は聞こえない美桜に懇々と一匠のすごさと規格外を説く。感服しているのか悔しがっているのか、わからない様子で。


 端末と彼の様子とを交互にながめ、伯父とのくったくないエピソードに、美桜はしまいに声を立てて笑っていた。


 言葉と雰囲気から伝わった。隼人がどれだけ伯父を尊敬し、一族の実力者として敬愛しているのかを。そして同時に、そんな隼人にも感嘆を覚えた。かなわない人を間近にして、その尊敬できるところを素直に認めて、盲従するのではなく、悔しがる彼の健やかさ。


 隊長に選ばれているのは、彼のそういう人品に起因するところもあるのだろうと。


 隼人はその後も、休む間もなく話をしてくれた。庭園を周りながら、シュウではできないだろう、彼らの事情や内緒の話。草木にも造詣が深いようで、美桜の知らない話を様々にしてくれた。


 その日はおしゃべりな彼がいてくれたおかげで、美桜もしぜんと声を発し、現状や先行きに思い悩むこともなく就寝についた。









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