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桜風記  作者: 由唯
43/61

枝垂れ桜




 身体を揺らす振動に目を覚ますと、見知らぬ車の中だった。


「──起きた? 美桜」


 頭の上から声がふって、目を上げるとタマがいる。美桜どの! と助手席から身を乗りだして彼女をのぞき込んできたのは、宗興だ。


 ハテナという疑問符がいっぱい浮かんで、身を起こそうとすると、だれかの上着がかけられているのも知る。彼女を支えるように手伝ってくれたのが、シュウだった。どうやら、美桜は彼の膝を枕に眠っていたらしい。


 ごめん、と謝ると、いえとやはりそっけなく返される。その彼はいつの間にか洋服に着替えていて、彼女を案じてくる宗興も僧侶服ではなく洋服だった。美桜一人、和装のまま。


 まだ頭がこんがらがる彼女に、宗興が謝ってきた。申し訳ない、と。


「下総まで飛ぶには、術も大きなものになる。あなたは人の身と変わらないのだということを失念していました。本当に、申し訳ない」


 お身体は、と案じられて美桜も自分の身をふり返る。別に何ともなかったので、大丈夫です、と答えた。すると、運転席からも声がかけられる。バックミラー越しに熊の重たそうな声で。


「すまなかったなぁ、姫さん。ちょっと急いでいたもんでな」


 はぁ、と瞬きながら、膝上にやって来たタマに事情を聞いた。何があったの? と。


「一条本家の遣いがやって来ちゃったのよ。本条家に鬼沙羅が乗り込んできたことで、色々と情報が漏れた上に錯綜してたからね。刺国若比売命がいるなら確保しろ、とでも命が下ってたんじゃないの。向かって来てたのが、問答無用のヤバい奴だったんで、いったん退散したの」


 一条本家……は、あの小梅や貴巳という聖魔が在籍する家だったっけ、と美桜も記憶をたどる。宗興の術で移動した先で、シュウや宗興は衣服をあらため、そして今はレンタカーで別のお宅へ向かっている最中なのだと。


「えーと……。今、この居場所はその一条家には知られていないの?」

「あんたには、存在を隠すピアスが付いてるからね。妖鬼将みたいな大物が出なけりゃ大丈夫よ」


 はぁ……と美桜はまだポカンとした気分だった。


 木曽のお館様たちに暇のあいさつもできなかった。後でゆっくりお茶をしましょう、と言ってくれた香名子にも。何より美桜の荷物はあそこに置きっぱなしなのだが、どうなるのか。


 金曜日には金沢にいて、月曜日には木曽にいて、水曜日の今は、いったいどこ……? と所在不明な気分だった。もう会社には行けないのかしらと他人事のように思った美桜に、バックミラーの中で熊が小さく笑った。


「姫さんも起きたことだし、ちょうどいい。遅くなったが昼飯にしよう」


 言われると、美桜もお腹が空いた。ここ、どこだろうと窓に目を向けて、一変──。美桜は目をみはった。


 一面に菜の花の黄色が目に飛び込む。あざやかな、春の青天の下でそれは見事な様で。わぁ、と思わず歓声を上げて窓に張り付いた美桜の視界の中で、車は山道を上がった先で止まった。


 シュウ、と霜月の言葉で先に降りた彼がトランクを開けて何かを下ろす。続いた宗興と、美桜もかけ出したくて車のドアを開けると、タマの肉球が美桜をとどめた。足袋のまま外に出る気? と。


 あ、と美桜もあらためた。履物がない。とまどった美桜に大きな影が差した。どら、となんでもないように手を出して。


「オレが運ぼう。姫さん」


 熊さんには馴染みがないので少しおじけたが、彼は一匠おじさんの配下だと言っていたし、と美桜もおそるおそる手を伸ばした。タイヤがかなり大きく、車高がシュウの四駆の比じゃない車を、霜月の巨体に抱えられてふり返ると、ジープだった。


 どうりで……と美桜も納得してしまう。霜月のような巨体には、これぐらいの車でないと無理なのだろう。

 木立の向こうに歩きながら、熊さんがそう言えば、とあらためて名乗った。ちゃんと自己紹介をしていなかったな、と。


「オレは巽家十二節、霜月實虎(さねとら)という。名字は昔あったが、巽家に入った時に捨てた。まぁ、好きに呼んでくれていい」


 とまどったが、美桜もあらためて名乗った。高城美桜です、と。霜月は重たそうな眉毛の下で少しうなずいた。


「姫さん──美桜さん。色々と大変なこともあるだろうが、オレはあんたを歓迎する。何より、シュウの主になってくれたことに感謝する。あんたは、シュウを全力で守ってくれた。あいつは……まだまだ子どもだ。あんたが重石になって、あいつを留めてやってくれ」


 そこには伯父と同じような、シュウを厳しく育てながら愛情を傾けている、身内のような親愛があった。


 美桜もようやく、うれしい思いで胸が暖かくなった。あの夜からずっと、シュウを戦闘兵として下に見る者しかいなかった。でもちゃんと、彼みたいな人もいるのだと。

 うれしい思いのまま、思わず呼びかけていた。熊さん、と。


 あ、と思った美桜と、重たい眉毛の下の目が少し丸くなって美桜を見上げた。……すみません、と青ざめた美桜に、ハハッと霜月が快笑した。かまわん、と。


「仲間たちからも、熊と呼ばれているからな」

 なんか自分、ほんとうに失礼な奴かも、と美桜は自省しながら、あの、と話した。


「如月さんが自分のことを省みないのって、昔からなんですか? それとも、聖魔の中で育ってきたから?」

「ああ……まあ、両方だな」


 少し言葉を重たくしながら、それより、と霜月は意識を切り替えた。


「ここはオレが見付けた穴場だぞ、姫さん。観光客はいないし、近隣の者もあまり来ない。ちょうど報せが来ていた。今の時期、満開だ」


 言葉につられて目を向け、霜月とともに木立が切れた場所へ出た。


 広がったのは、一面の黄色の絨毯。菜の花のそれに、美桜は息も忘れた。そして、その中に一本の大きな枝垂れ桜があった。三月の初旬、都内よりも早く開花した満開の桜。


 重たそうに開いた蕾を、これでもかというようにあふれるほど花開かせ、その花びらを黄色の絨毯にもなびかせていた。


 童話のような、幻想的なその風景。言葉もなく見惚れた美桜を連れて、霜月は樹木の近くに行く。シュウが大きな敷物を広げており、宗興がどこかで購入したらしい、お弁当と飲み物を用意していた。


 その敷物の上に降ろされ、美桜はただ、捉われたもののように樹木に近付いた。その枝から差し出される、花開いた蕾の数々に。


 すごい、と心が雲の上にまで押し上げられた気分で、満開の桜に全開で喜んだ。すごい、と。その心のまま、霜月にふり返ってお礼を言った。


「熊さん、ありがとうございます……!」


 ああ、と重たそうな眉毛の下で瞬いた霜月がちょっと頭をかいていた。睨むな、二人とも、と。




 途中で買い込んだというお弁当を食べながら、しばしみんなでお花見に興じた。


 美桜がひとつのお弁当を食べる間に、シュウも霜月も──宗興も、お弁当を四個は平らげた。シュウと霜月はまだわかる。その体格からしてそれだけのエネルギーを欲するのだろうと。しかし、一見優男に見える宗興も平然とそれに続いて、美桜は何度目わからない言葉を胸内でつぶやいた。


 聖魔、バケモノ……と。


 三人が食後のお茶からこの先の妖魔退治に話を移しだして、美桜は腰を上げた。離れた近くで一人遊びに興じる。


 風もおだやかな、春の午後。彼らの他に人気はなくて、流れる時間とやわらかな空気は、まるで桃源郷にいる気分だ。今朝までは雪の残る土地にいたのに、と美桜は彼らの力にあきれとふしぎの気分が高まる。でも、と思い直した。こんなサプライズなら大歓迎、と。


 しかし、離れた場所での会話は殺伐としていた。


「──一色家の者!? 一条本家に連なる者ではないか、霜月」


 声を荒げる宗興に、あー、と霜月は頭の後ろをかいた。

「一条家からは離れている。先の若狭戦で、オレたちに助力した者だ」


 ハッとしたように宗興がその名を告げる。

「……半妖か」

「世俗から離れていたおまえさんでも、耳にしていたか」


 無論だ、と口にしながら、宗興は案じる言葉を紡いだ。美桜どのを、そのような家に向かわせてよいのか、と。

 ああ、と霜月も思うようにしながら、仕方ない、と口にした。


「とりあえず、オレが今、シュウのフォローに回されたからな。姫さんとシュウはオレの管轄下だ。一色家の要請もうちは断れない。先の戦いに協力したがゆえに、その身になった御仁だからな。色々と手が足りんくて……まあ、仕方ない」


 別に、とそこにタマの声が入った。毛づくろいをしながら平素な様子だ。

「そんなに無闇やたらに警戒しなくても大丈夫よ。美桜はそんなにやわでもないし、純粋培養でもない」


 訝しそうな宗興に、タマはチロリとどこか意地の悪い目を向けた。


「美桜はバツイチ――もと既婚者よ。男も知っているし、女の闘いも知ってる」

 敗者だけど、と使い魔はケロリと彼女の秘密を暴く。目をみはって固まった宗興に、タマはクスリと笑った。


 降りるならさっさと降りたら? と。まるで、はじめから宗興など眼中に入れていないように。拳を固めて黙り込んだ宗興を横目に、シュウは霜月に問い返した。要請が来るほどの妖魔とは、と。


 うん……と霜月は彼のクセのように重たそうにうなずく。


「前々から巣食っていた妖獣だそうだが、どうもここ最近、狂暴化してきたらしい。実を言うと、各地でもそんなことが起きててな。オレらはてんてこ舞いだ」


 巽家で手に負えなくなった場合、もしくはその前段階で、各家に救助要請が出る。それは聖魔一族の掟でもある。だが──おそらく今回、美桜という存在があったがゆえに、事が慎重になったのだろう。


「…………」

 シュウも静かに沈黙した。


 霜月の言葉はそのまま、一匠が口にしていたことと──美桜があの時、ピアスを付ける際に使い魔が口にしていたことと結び付いている。美桜が今、その存在を隠すものを付けたら──各地の妖獣が起きだす、と。

 それらはいったい、何を示しているのか。


 考え込むシュウに霜月が口を開きかけて、美桜の声がかかった。ターマ、とどこかいたずらっぽい者の口調で。

 怪訝そうに目を上げたタマの前で、美桜は後ろ手に隠した両手をタマの前にパッと広げた。


「桜のシャワー……!」


 舞い散る桜の花びらをひとつひとつ掴んで集めたらしかった。タマだけではなく、彼ら三人の視界も花びらに覆われて、一瞬すべてを忘れた。彼女の精気が花びらからその場に舞い散って彼らを魅了した。


 次いで響いたのは、一身にそれを浴びた使い魔の怒声だ。むせたように身体をふるい、毛づくろいしたばかりの毛並みに怒りをあらわにした。


「美桜……!」


 きゃあ、とはしゃいだ笑い声で美桜は逃げ出した。使い魔は怒り心頭に、説教するからそこに直れ! と声を上げている。笑い声を上げながら、美桜は怒っている使い魔も抱き上げて頬ずりしていた。


 怒っちゃやーよ、ターマ、と甘えるように。

 どうやら、満開の桜にご機嫌もマックス状態らしい。やれやれ……と、霜月が再び頭をかいた。


「こりゃ、一匠さんがオレらに紹介しなかった理由もわかるな」と。

 彼女の動きを目で追うばかりの男二人の様子にも目をやり、やはりもう一度嘆息した。






 ~・~・~・~・~・~




 夕暮れ迫る山間。

 美桜たち一行が訪れたのは、波の音が近くに聞こえる、高台にある山荘らしき大きなお宅だった。


 門構えから一歩入った瞬間──宗興の面がしかめられる。なんだろうとシュウに抱えられて玄関に向かった美桜にも、その答えがわかった。


「──兄者」


 玄関口で出迎えたのは、午前中に逢った六郎という僧兵。格好は変わらず、簡易な僧服姿のままで、頬に大きな湿布薬を貼っている。彼はつらそうな目付きで宗興を見つめたまま、変わらぬ言葉を紡いだ。


「戻ってくれ、兄者。ジジイから連れ戻して来いとのお達しだ」

「私は、本条家の籍を抜けると言った。捨て置け」


 兄者、と声を荒げる六郎に、あー、すまんと霜月が割って入った。


「一条本家はどうした」

 どこか忌々しそうに目を上げた六郎が事情を説明した。


「九重が一通り暴れ回って、退散したよ。刺国若比売命(さしくにのわかひめ)はいない、と言っても聞き入れりゃあしなかった。マジであいつはどうかしてる」


 ヘタに実力がある分、タチが悪い、と六郎は湿布薬の頬をぬぐった。その時の痕なのだろうか。美桜はなんとなく、申し訳ない気分になった。お世話になった家に、さらに迷惑をかけてしまったのかも、と。


 その美桜に六郎は目を上げ、荷物を持ってきた、と家の中を示す。それから、霜月の居場所は巽家に聞いた、とも。


「うちはジジイが刺国若比売命に関して制約を交わしてたからな。だから、巽家もあっさり教えてくれた。……兄者、わかるだろ。五大家の会合前に、うちが抜け駆けするわけにはいかねえ。戻ってくれ、頼む」


 懇願する六郎に、宗興はだがしかし、黙したままだった。張り詰めた様子に、あの、と黙っていられずに美桜も声をかけた。


「宗興さん。戻られてください」


 愕然としたように宗興が美桜をふり返った。美桜もちょっとあせった。そんなにマズいことを言ったかな、と。


「あの……宗興さんのお気持ちは、とてもありがたいです。でも、今は一度、戻られたほうがいいと思います。皆さん、きっと心配しています」


 聖魔ってたしか美桜より何倍も年上なはずなのだが、なぜ彼女が家出少年を諭している状態なのやら。それに、と美桜は続けた。


「わたしも、一匠おじさんや巽のおじいさまと、話をしないといけないって思っています。だから……ひとまず、お戻りになってください」


 やはり、美桜を保護してくれている人たちに相談もせず、勝手なことをしてはいけないとあらためていた。


「美桜どの……」


 宗興の表情はどこかひどく頼りない、捨てられた子どものようだ。美桜も申し訳ない思いになったが、彼が伝えてくれた気持ちに誠実に返した。


「わたしを守りたいと言ってくださった言葉は、ほんとうにうれしく思います。でも、あの……まず、宗興さんも家の皆さまと、きちんと話し合われてください。わたしもそうしますから。それと……木曽のお館さまに、お礼と謝罪を伝えてもらえると、とてもありがたいです」


 パッと宗興の顔が一転して明るくなった。ん? と美桜は何か間違ったことを言ったかと胸内で反芻してみたが、思い当たらない。わかった、と宗興はその前で再び眸に静かな覇気を宿していた。


 今は……仕方ない、ときつく表情を引き締め、拳を固めた。そして一度、美桜を抱えたシュウに目をやると、強い視線を交わしていた。


「如月、美桜どのをしかと守れ」


 間近のシュウの気配もなにやら怖いものになったが、静かにうなずいて返していた。そして宗興は再度美桜に目を向ける。


「──必ず、戻ります」と、強い決意を見せて。


 ホッとしたように六郎が表情を崩し、宗興のそばに駆けて美桜やシュウ、霜月に一度目礼をする。そして門構えの外に出ると、一瞬で姿を消した。


 美桜もちょっと啞然としたが、山の中のお宅とはいえ、公道だし街灯もある場所だ。飛び石かな、と教わった知識で納得する。おそらく、人目のつかない場所へ移動したのだろうと。


 それを見やって、タマのあきれた目が地面から向けられているのを知った。

「あんたって、ホントにバカね」


 え、と美桜もショックを受ける。なぜにいきなり貶されなければならないのだ。問い返そうとしたそこで、あらあら、と明るい声が響いた。



「──なんや、面倒な話は終わったん? いきなりやって来て玄関先を借りる、言われてなぁ。木曽のお坊さんは昔からせっかちやわ」


 玄関の戸を開けて姿を見せた女性がいた。和服姿の、髪を丁寧にまとめたやわらかな面立ちの女性。三十代半ばぐらいの、綺麗というよりやさしそうな印象の人物。


 その眸が夕暮れの外灯の中にいた美桜たちを見て、はんなりと笑んだ。


「ようこそ、いらせられませ。巽家の霜月さま、如月さま。──刺国若比売命さま」


 少しドキリとして、美桜もシュウの肩口をつかんでいた手に力が入った。それに返すように、彼女を抱えた手にも力がこもった気がした。


 招かれた上がり(がまち)に降ろされて、美桜はようやく、自分の足で歩くことがかなった。履物がないことが、こんなにも不便だとは思わなかった。しかも、自分で歩いていないということは、それだけ脂肪を蓄えているという証でもある。


 おそろしい……! と人知れず冷汗をかく思いで心に決めた。次からはいかなる場合でも、履物必須! と鉄の掟のように思って。


 それに……と、美桜は少なからず残った乙女心で恥ずかしさをこらえている。聖魔の彼らは、ほんとうに美桜を子どもかぬいぐるみみたいにひょいひょい片腕に抱き上げるが、彼女にだって羞恥心はあるのだ。

 もう絶対、自分の体重を知られた……! と。


 シュウに関してはほんとうに今さらだが、せめて金輪際、抱き上げられる人物は皆無にしたい。そう心に決めて、案内されるまま、別室へ向かった。




 山荘は洋風の造りで、和装の女性がいるのは一見不釣り合いのような……けれど、この家にしっくりと合った雰囲気だった。


 案内された吹き抜けの大きなリビングに、美桜はうわぁ、と感嘆する。外に面した一面はすべてガラス張りで夕闇を映しているのだが、やわらかな電灯が各所に灯っていて、外の闇を感じさせない。


 むしろ、ほとんど夜に近い夕闇だから判別しがたいが、日のある時間帯なら、そこから太平洋が望めるのではないかという様子だった。

 ガラスが鏡のように美桜たちを映して、応接のソファを勧められる。畳じゃないことが美桜にはこの上なくうれしくありがたい。


「今、由基(よしもと)さんを呼んできますわ」


 お待ちくださいな、と女性が口にして、吹き抜けの上階から声がかかった。


「――絢」


 リビングの端、上階に続くそこに一人の影が落ちた。ユキさん、と女性が答える。それはうれしそうに。


 人影の横に十歳くらいの子どもが現れて、その人物の支えになる。階段をゆっくりとした足取りで降りてきた彼のもとに、絢という女性がかけよった。子どもから変わって彼の支えになり、美桜たちの前に姿を見せる。


 異様な風貌の男性だった。思わず、息を呑んでとっさに身を引いてしまったくらいに。前の宗興の身なりをかまわなかった風貌とは違う。その人物は、身なりはきちんと正しながら、あやかしの者だった。


 肩より下の、少し長めの髪を顔半分に流して風貌を隠し、だが、そこからはまぎれもなく肌に鱗が見える。女性が支えた着物の袖からのぞく腕にも、青黒い、人のものとは到底思えない鱗と鉤爪。


 美桜はほんとうに驚いたが、彼の左半身から見える風貌は人のそれとなんら変わりなかった。そして、その面はとても静かでやわらかかった。


「――どうぞ、かけてください」


 ソファをうながされて、端に霜月が座り、美桜、シュウと続く。タマはやはり美桜の膝上に居座ったので、しぜんとその存在を抱きしめていた。

 その様子をながめて、目前に腰掛けた人物がやわらかに笑う。


「驚かせてしまったかな。私は、一色彰之丞由基という。お初にお目にかかる。刺国若比売命」


 真っ先にあいさつをされて、美桜もとまどった。それでもどうにか返した。高城美桜です、と。

 フッとやわらかく笑んだ人物が、隣に座った絢が支える腕を少し見やった。


「あなたの正体は、だれに聞くまでもない。この身の鬼が教えてくれます。あなたの血肉を寄越せと」


 とたんに隣のシュウの気配がそれは怖いものになり、美桜ですら横の霜月に寄ったくらいだった。その霜月も静かに剣をはらむ声で返した。


「一色の──。姫さんに関して、我らはあまり冗談を受け入れられん。悪いが言葉を選んでもらえるか」

「それほど、妖魔や各家に狙われているということですか」


 殺意を受けてもあくまで穏やかに返す由基は、小さな笑いで彼らをいなした。


「私は、この地に封じられた身です。ネズミ一匹、殺傷する力はありません。それはあなた方、巽家と五大家がだれより承知のことのはず。ご心配には及びません」


 霜月の気配が少し静まり、シュウの殺意も静まった。美桜はわけがわからず、タマを抱きしめる。その美桜を見て、由基はやはりやさしく笑んだ。


「木曽の本条家での騒動はすでに方々へ話が伝わっていますよ。刺国若比売命──いや、美桜さん。私のようなものははじめて目にするでしょう。私は、そちらの霜月や如月と同じ聖魔です。だが、あやかしである鬼と同化している」

「え……」


「二十年前の闘いでね。鬼に我が身を食い破られそうになり、絢を残して死んでなるものかと抗ったら、このような身になった」


 胸を痛めながら、美桜は……ん? と思った。


 ユキさん、と隣の女性がそれはうれしそうにほほ笑んで寄り添っている。返す由基の表情も眼差しも、すべてが甘い。絢、と呼ぶ声は、こちらが赤面してしまうくらいの──ラブラブっぷり。


 あ……ごちそうさま、と美桜は彼に対する恐怖が一瞬で消えた。タマを抱きしめる手からも力が抜け、また違う気分でくすぐったくなった。


 妖魔との戦いで、死にたくないと思った彼の心。それが絢というその女性にあるのなら、それはなんて恋物語だろう。


 いいな、と美桜は素直に思った。そんな映画みたいな命をかける恋愛。でも、それは一瞬に燃え上がったものではなくて、こうして二十年経った今でも変わらず互いへ向けている想い。

 自分も、こんなふうにすべてを傾けられる相手と巡り合ってみたかった。


 思った美桜に、女性の──絢の目が向けられた。美桜ちゃん、とくったくなくやわらかな訛りで。


「うちは一色家縁の、多智花(たちばな)絢音(あやね)、言います。皆さんと同じ聖魔ですわ。よろしゅうに」


 え、と美桜はビックリした。女性の聖魔。小梅や、四条家の白祢と同じ。

 瞬く美桜に、絢音は由基と似通ったやわらかな笑みを見せた。


「うちと由基さんは夫婦や。現在、聖魔の夫婦はうちらと一条本家に一組ぐらいやったかね、ユキさん」


 いや、と由基がそれに思うように口にする。海棠家からも外れた者がいたんじゃなかったかな、と。はぁ、と見知らぬ世界に瞬きする美桜に、フフと絢音が笑った。美桜ちゃんが来てくれてうれしいわ、と。


 それは、と美桜も少し冷汗を覚えた。宗興の呪いを解いたように、彼の身もなんとかしろという思惑があったりするのだろうか。

 そっと横の霜月を見上げると、美桜の問いがわかっていたように霜月もうなずいた。大丈夫だ、と。


「こちらの御仁は、もはや同化した妖魔の存在なくしては生きられぬ身だ。その身を清めるということは、妖魔を浄化するということ。そうすると、こちらの御仁の命も尽きてしまう」


 フッと由基もそれに対して笑みを浮かべた。


「敵対する妖魔と同化しても生きている聖魔など、私がはじめてのことでしたからね。当時もずいぶんと取り沙汰された。始末すべきだという意見が多かったが──鷹衛の迅が止めてくれた。私をこの地に封じる条件でね」


「絢音さんが泣いて取りすがっていたからな。……一匠さんも、我が身と重ねたんだろう」


 おじさんが? とふしぎに思った美桜だったが、霜月は重たそうに続けた。


「まあ、なんで、姫さんは何もしなくていい。オレはここで少し仕事がある。シュウにも手伝ってもらうか。悪いが、それが終わるまでこの家から外に出ないでくれ。おそらく、二三日内のことだと思う」


 言い聞かせるような口調に美桜も顎を引いてうなずいた。それを見て由基が絢、と隣の女性をうながす。


「私たちはその仕事の話がある。美桜さんを湯殿にでも案内してあげなさい」


 はい、と答えた絢音が腰を上げると、行こか、美桜ちゃんと誘ってくる。迷ったが、霜月やシュウに小さくうなずかれて、……失礼します、とその場から辞した。タマも話を聞くためにか、その場に残ってしまった。






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