木曽の館 3
本条家の庭園は想像通り純和風だった。その中の、おそらく季節が和らいだら野点が催されるのであろう、屋根のある一角に美桜は案内された。──正確には、美桜を抱えたシュウと二人でだが。
四方から丸見えなその中の、ベンチのような場所に美桜を下ろして、シュウは「少し離れています」と下がっていった。すぐそこにいる、と眸で告げて。
青天の日差しの中でも、雪がところどころに大きく残った冬晴れの庭は、やはり少し寒い。その中で静かに立った彼に、美桜は目を向けた。
彼があの異様な風貌の人物だと言われても、やはりどうにも信じられない。正直、あの会談の場でも二度見ならぬ、三度見ぐらいしてしまった。
彼自身のせいではまったくないのに、異性の目を惹き付けたり、はては妖魔の恋着まで招いてしまうなんて、それこそ自身の身を呪いかねないだろう。
黙したまま美桜を見つめる彼に困惑したが、美桜も伝えたいことがあったのでそれを口にした。
「あの……上松さま。先日は危ないところを助けていただき、ありがとうございました。それに……如月さんの命を救っていただいたことも。本当に、ありがとうございました」
美桜は膝に手をそろえて、深く頭を下げた。ほんとうに、彼がいてくれなかったら、シュウはどうなっていたかわからない。それを思うと、心臓が凍り付くくらい、恐ろしくてならなかった。
あの時の恐怖を思うと、彼にはどれだけ礼を述べても足りない。当主たちは美桜に頭を下げたが、彼女にはそれを受け取る資格などないのだ。美桜はただ、シュウをたすけたかった。そのためにひっしだった。
宗興が呪いにかかった痛み、苦しみ、八十年という重さ、玄老や他の人々の思いもなにも、考えもしなかった。彼が、その呪いにどれだけ苦しめられてきたか。その辛さも何も。
だから、美桜には彼らの感謝を受け取る理由はない。彼女のほうこそ、ただ感謝するだけだ。シュウがたすかった事実に。
それで頭を下げた彼女に、静かな沈黙が落ちた。ほんとうに長い沈黙が落ちて、美桜はハテナ? と目を上げた。
そこにあったのは、それこそ、美桜を全力で魅了し尽くそうとでも言わんばかりの、食い入るような魔性の双眸だった。ヒエッととっさにのけぞった彼女に、宗興は一度瞬き、ああ、と悔いるように視線をそらした。
すみません、とそれは心から悔いるように。そして絞り出すような言葉を紡いだ。私は今、あなたを自分に落とそうとした、と。
は……!? と美桜はさらに身を引いた。宗興は片手で目元を覆うと、苦しそうな声で自省の言葉を口にする。
「我が身の不徳さが、情けない……」
なんだか本当にしおれて弱々しくなってしまった様子で、美桜もあの、と声をかけた。
「お座りになってください。……怪我、大丈夫ですか?」
美桜の向かいにおとなしく座り、うなだれる魔性の僧侶に美桜も困惑した。それにしても、と思う。あの夜には、ここまでの怪我はしていなかったはずなのに。いつの間にこんなに怪我をしたのだろう。
「あの……上松さま」
ようやく少し目を上げた彼に、美桜は片手を示した。手を、よろしいですか、と。
不思議そうな顔で従う彼の右手を受け取って、その内側、手首の脈筋にそっと口を付けた。前にシュウにもやったように、そこから精気を分ける。見知らぬ男の人に自分から触れるのは、美桜はやっぱりまだ怖かったが、これぐらいならなんとか耐えられた。
……なにやら、離れたところから怖い気配が飛んできた気がしたが、少しの行為を終えて腕を返した。
大丈夫かな、と見つめる前で、宗興は美桜が触れた箇所をジッと凝視し、それから袖をまくって腕に巻かれた包帯を外した。怪我が、消えた、と改めて確認するように。
ホッとした美桜だったが、今度はきつい目が向けられた。刺国若比売命、と。ヒョエッと身を引く美桜に、宗興は言い直した。
「美桜どの。あなたは無警戒すぎる。精気を無闇やたらに分け与えてはならない」
……なんか以前、シュウにも同じことを言われたな、と美桜は顔が引きつってしまう。宗興はかまわず、真剣に美桜を諭した。
「私の怪我は、しばらくすれば治るものだ。聖魔は自己治癒能力にも長けている。怪我した者を……命が消えそうな者に、片端から精気を分け与えていたら……あなた自身の命が尽きてしまう」
彼のほうが苦しそうに、きれいな顔をゆがめていた。
美桜もちょっと反省した。怪我をしている人を前にしたら、自分に何かできないか、シュウにやったように怪我を癒せるのではないかと短絡的に考えて、それを行ってしまった。でも、それは彼らの自己治癒能力を軽んじているとも言える。そして、自身の内にもある傲りなのだと。
「あの……ごめんなさい」
反省して落ち込む美桜に、いえ、と宗興がすぐさま否定した。そして彼自身、大きな息をつく。何か、自分へ向けた悔恨を見せて。
「あなたが謝ることではありません。謝罪と礼を言うのは私のほうだ。申し訳ありません。──我が身を癒していただき、深く感謝します」
立ち上がってまたも律儀に頭を下げられた。なんとなく感じてはいたが、彼はその見掛けに反して、とても真面目で誠実な人柄のようだ。その時に、あれ? と既視感を覚えた。
「あの……上松さま。もしかして、あの、夜中におにぎりとお茶、差し入れてくれました?」
シュウの容体にひっしだったあの夜。小さな灯りだけがともされた部屋で、深夜にそっと差しだされたお盆があった。お茶の香に誘われてそれをいただいたが、相手がだれかまで把握していなかった。
ああ、と宗興の面がやさしく微笑する。
「あなたはあの時、下僕の身を癒すことにひっしだった」
少し赤面する思いで美桜は再び頭を下げた。ありがとうございます、と。
いや、と軽くそれを受けた宗興が再度声音をあらためた。
「美桜どの」
真剣に呼ばれて、美桜も目を上げた。深く──彼の芯に息衝いた炎を感じさせる、真摯な眸だった。
少しドキリとした美桜の前で、彼はその場に片膝を着く。え、と瞬く美桜に、やはり変わらぬ眸を上げた。
「先刻、私が宣言した思いに偽りはない。私を、あなたの下僕にしていただきたい」
えーと、とさらなる困惑がただよった。それはできない、とタマが言っていたはずなのだが。宗興は美桜の困惑をわかっているように、うなずいた。
「契約を交わす関係にはなれぬ。それは理解した。だが──あなたの了承があれば、私はあなたのそばで御身を守ることができる」
美桜はやはりとまどった。
あの、上松さま、と口にして、宗興と──、と半ば強要される。美桜はあきらめて息をついた。
宗興さん、とその名を呼ぶ。返される眸に美桜も真剣に返した。
「あなたの呪いを解いたのは、わたしにも事情があったからです。わたしは、あなた方の事情は何も知らなかった。だから、それに必要以上に恩義を感じたり、尽くしたり……とか、そんなこと、何もする必要はありません。本条家のご当主さまと、一匠おじさんの間であらかじめ決められていたことですから」
それよりも、と美桜は少し彼を思って笑みを浮かべた。
「ご自分の生を、生きてください。あなたを縛るものはなくなったのでしょう? それなら、もっと楽しいこと、素敵なことを見付けなきゃ」
美桜があの時、暗く閉ざされた世界から友人や様々な人の手によって救い出されたように。実家の茶園、だれもいない深夜、空を見上げて大きな星空に息をついて涙がこぼれたように。
世の中には、まだまだたくさん、素敵な風景や楽しいことがある。おのれを縛ってきたものに捉われてはいけない。
告げた美桜に宗興の眸が一瞬、ふるえるように揺れた。しかし、次には苦しそうに伏せられた。違う……と。首をかしげた美桜に、宗興は苦渋を嚙みしめるように口にした。
「あなたは……だれが相手でも同じことをした。呪いの解除も、私でなくとも、あなたはそれを行った。私は……」
口にするのは本当に苦しそうに、自身の長い葛藤を吐き出すように、宗興は言葉にした。
「私は、ずっと、自身の身を呪ってきました。このような身に生まれ付いたから、だから鬼沙羅などに目を付けられ、呪いを受け、一族の重荷になったのだと。おのれの存在が恥ずかしくてならなかった。誇りを持とうとしても、引け目は消えなかった。このような身に生まれ付いた、おのれがすべて悪いのだと」
「……っ」
それは、美桜だって思ったことだ。色々な目に遭うのは、美桜が悪いのかも知れないと。だが、と宗興は苦渋をにじませなから自身の罪を吐露した。私は、さらに卑怯だった、と。
瞬く美桜の前で、宗興は目を上げた。見つめられた者を蠱惑的に魅了する、魔性の美貌。
「私は、あなたを自分に落としたいと思った。そのためには、自分が厭わしく思ってきたこの容姿も利用する、と」
息を呑んで、美桜も固まった。真剣な眸に流されそうになって、とどまる。あの、と。
言いかけたそこを、またも宗興が先んじた。違います、と。美桜が何を言うかわかっていたように。
「刺国若比売命の力が欲しいのではない。あなたが、私の呪いを解いてくれたからでもない。……いや、切っ掛けではあります。しかし」
苦しそうな思いの中から見つめてくる眸は、どこまでも真剣だった。
「あなたは……だれに対しても真っすぐだ。呪いの解除を受けた時、わかりました。あなたはとにかく……ただ、ひっしだった。下僕をたすけるために。正直、私をたすけるという意思より、目の前のことにひっしだった。あなたが、私や鬼沙羅に捉われていたら、解除もどうなっていたかわからない。あなたの真っすぐで揺るがない思いがあったから、呪いは解けた。……私は、自分の自惚れに気付かされた」
小さな自嘲をもらす宗興に美桜もとまどった。あの時は、彼が異様な風貌だったからだ。今の彼に同じ行為ができるかといったら、絶対無理! と声を大にしているだろう。
そういった面では、美桜も同類なのではないか。赤面と困惑に迷い、眸を惑わせた美桜に、宗興がさらに名を呼んできた。
「美桜どの」
「はい」
反射的に答えて、宗興の微笑がさらに深いものになる。それはほんとうに、見る者すべてを魅了するような、やわらかく彼自身の人柄を映した笑みで。
「あなたを、守りたい。下僕に名乗りを上げたのは、恩義と贖罪……それが理由だと思っていましたが……違った。私はただ、あなたのそばにいたい。それだけだ。それを、お許しいただけませんか」
美桜は、自分でも正真正銘、顔が真っ赤だとわかった。魔性の本領、発揮してるよ! とおののくような思いで。
でも、あの……と美桜はほんとうに落とされそうな誘惑の中でどうにか抗った。美桜はまだ、男という人種が怖いのだ。できるだけ、自分の生活圏内には入ってきて欲しくない。シュウでさえ、ようやく慣れてきたところなのに。
気持ちはほんとうにうれしいけれど、と罪悪感いっぱいに断りの声を紡ごうとして先んじられた。美桜どの、と。
「今しばらくの間だけでも構いません。ひとまず、彼に術式を教える間。その間だけでも、私がそばにいることをお許しいただけませんか」
迷ったが、それは先の話し合いの中で交わされたものだと美桜にもわかった。だから、どうにかうなずいた。……はい、と。
宗興の顔がそれはうれしそうにほころんで、美桜もちょっと人知れず冷汗をかいた。
何か、ヤバいことになったかも知れない、と。タマがまた、大魔神になって怒りそうな気が、高確率でする……! と。
身震いした、その時だった。
目の前の宗興が突然、面を一変させて立ち上がり、後ろをふり返った。そして、美桜の間近にはシュウとタマが来ていた。
え? と呑気に瞬く美桜の膝上にタマが乗ると、シュウが彼女の身を抱え上げた。タマ? とたずねる美桜の困惑も無視して、あー、と重たそうな熊──いや、霜月の声も近くから出た。
「一条本家の九重と一色が動いたか。こりゃ近いな。さて、どうするか」
霜月、と鋭い声を発したのは宗興だ。
「一色はともかく、九重はまず間違いなく、美桜どのをさらっていくぞ。あいつに理屈は通じぬ。──鷹衛の迅に連絡は」
うむ、と考え込むようにしたのは数瞬だった。そして言葉は発せられた。──逃げよう、と。
は? と一瞬宗興には啞然とした色が浮かんだが、次にはそれを呑んだ。迷いなく。場所は、と簡潔に問う声に、霜月が答える。下総だ、と。
「ちょうど、あちらから要請も出ている。言い訳がきく」
そして静かな目を宗興に向けた。来るのか? と。宗興が凛とあざやかな表情と眸を向けた。
「無論だ。私は、美桜どのの下僕だ」
短い呪文のような言葉で、その手にあの夜にも見た大きな鎖鎌が現れる。そこに、庭園の向こうから血相を変えた六郎と他の者が駆けてくるのを見た。
「兄者、一条の者が……兄者!?」
その彼に向かって、宗興は静かに言葉を告げた。
「私は、本条家の籍を脱する。……すまぬ、六郎」
ドンッ、と鎖鎌の刃が地に降り下ろされ、赤光が円状に広がった。まぶしさに美桜は目を細め、円の向こう側にひっしな顔の六郎や他の者を見た。しかし、その姿はすぐに消え、強く圧し掛かる、見えない力に圧迫されて意識を失った。