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桜風記  作者: 由唯
36/61

暗闇の死闘 2




 しんしんと音がする。


 冬でも濃厚な緑の山中。人の手が入らなくなって幾久しいお山には、数多の獣が棲まう。


 野生の獣から、そこから逸脱したもの。人とも獣とも区別のつかなくなったもの。また──神霊、妖魔という別次元の存在となった生きものも。


 数多の命。息遣い、臭い、呼吸、個々の思考。

 息衝くすべての息吹がお山を彩る。それはまるで、ひとつの生命体のように。


 通常の者なら息も詰まるような山中。小さな御堂の中で対峙する仏を前に、一人静かに座禅を組む男がいた。


 男は、お山のすべてを把握していた。

 雪の落ちる音。木々のざわめき、ささやく枝葉の会話。眠る生きものたちの鼓動、心音。風と空気の音。耳をすませば、さらにその奥にあるものも捉えられた。


 耳鳴りがするほどの、生命の生き死に。強いものが弱きものを狩る、自然の摂理。だが、時として弱きものが牙を向く。強者を倒す術を手に入れたりする。それは擬態だったり、未知の毒だったり、はたまた、想像もつかない手だったり──。


 彼は、その世界を尊んだ。それはまるで、生命の進化の過程を見るようだった。


 だが──そこに空気を切る音がした。


 風を鳴らし、ある場所からまた別の場所へ。彼の縄張りを犯す、遠慮のないぶしつけさ。

 堂々と領域を犯す人物は、ある意味で異端だった。だが、だからこそ、彼はそれを歓迎した。


 仏と静かに対座していた眉宇がかすかに動く。

 彼の表情が動いたのは、異端な存在が音を立てて扉を開けたからだ。半世紀、人の手が入っていない御堂はその動作だけで、扉から屋根、壁と瞬時に半壊していた。

 たぶん、その人物にとっては軽く押しただけの動作。それゆえ、あわてて言い訳の言葉を並べるのを彼は聞き流した。


 そして、静かに息を吐く。


 とたんに──周囲が祓われた。

 言葉のあやでもなんでもなく。ピタリと生きものの息吹すら絶えたような静寂。いや、それを強いられたのだとわかる圧迫感。


「──何用だ」


 久方ぶりに発した言葉は、少し掠れていただけで変わらない静けさを保っていた。

 ぶしつけな訪問者も圧迫感に押されながら口を開く。それだけの胆力のある者、とわかる屈しない強さで。


「出番だ。兄者」


 スウッと、彼の眸が開かれた。

 隠者のように、仙人のように、半世紀も仏と対話し続けた彼の眸が。研ぎ澄まされた光は、彼がその時を待ち望んでいたことを教える、あふれるほどの力あるものだった。






 ~・~・~・~・~




 真っ暗闇。

 町の灯りから離れて山林に踏み入るほど、暗闇が押し迫った。それをとどめたのは、シュウが手にした松明のみ。木の枝を折って湿ったそれに、小さな雷を幾度か流し、そして光源とした。


 シュウの力は氷と雷。雷は氷を電解する。自身の力を水と酸素に分けて湿った枝を乾かし燃やすことぐらい、彼の力ならわけないのだろう。

 理系に乏しい美桜でも、それぐらいの理論付けはできた。彼らは決して万能ではないと。


 だからこそ、怖い。

 自身の身を隠すはずだったピアスも、万能ではなかった。美桜が少しでも、日常生活を送るのに不便がないようにした。ただ、それだけのもの。自分の身は、やはりシュウに守ってもらうしかない。


 そしてそれは、彼にとても危険を与えている。何度も感じた思いだ。小さく唇をかんだ時、繋がれている手が強くにぎり返して来た。


 ドクリと鳴る鼓動。来た──と思う間もなく、強く手を引かれ、わずかな光源の中を走り出した。


 シュウの言う社は、地元民には信仰があるものなのだろう。枝葉が遮らないよう整備された山道は獣道ではなかったが、雪が降り積もった今は大差なかった。駆け足でそこを上がる背後。

 唐突に、小さくはない音で火の手が上がった。


「……っ」


 美桜はもう、慣れぬ登山と積雪に足を取られ、先から息も絶え絶えだ。ほとんどシュウの力に引っ張られているに等しい。


 それでも、抱えられるのをよしとはしなかったのは、シュウの力を少しでも温存するためだ。足を動かしながら喉を刺す、凍り付くような空気にひり付き、咳き込みそうになりながらもシュウについて行き、二度目の火炎が背後で上がったのを知った。


 ──早い。


 いや、敵が彼女たちに狙いを定めて罠を張ったのなら、これは遅いと言えるのかも知れない。彼女たちが苦し紛れに行った陽動を、相手ならたやすく見破っただろうから。

 シュウもそれを感じ取っているのだろう。彼の動きや気配には、焦りも動揺も微塵も感じられなかった。


 それがふと──。

 きゃ……っ、と雪の中の何かに足を噛まれて美桜は転んだ。その瞬間、シュウの気配が鋭く閃いてふり返るや否や、懐から抜いた本格的なサバイバルナイフを美桜の足元に突き立てた。


 目にした美桜でさえも、ヒュッと息が止まるような動き。けれど、彼女の足は一切の傷なく解放される。噛まれた痛みだけが残った。


「なに……」

「――術の罠」


 静かに事実だけを口にすると、シュウはナイフを握ったままの左手で彼女を抱き上げた。つかまってください、と短く告げるのと、美桜が彼の首筋につかまるかどうかの一瞬で駆けだした。


 それは、抱えられただけの美桜にもわかる、息もできない速さと鋭さ。右手の松明は消えていたが、シュウの目は暗闇の中でも迷うことなく、そこを目指していた。


 飛び石──という、彼ら聖魔と使役魔の能力なのだと聞いた。自身を基点として、数メートル置きに場所と空間を移動する。ただし、それは一度、自身が見て覚えた場所でなければならない。

 例外は、使役魔の能力による、主を感知する場合のみ。だから、先のお山で、はじめて踏み入った場所にも関わらず、シュウは美桜の場所を探り当てた。


 しかし、今さっきその力を使った際、シュウはひどく消耗した。だから、力を制限していたのだが──。



 静かに細く、シュウの吐息が流れた。

 止まった動きと音の絶えた気配に、美桜も知らず閉ざしていた目を開けた。真っ暗闇が飛び込んできて、とっさに目をつぶる。と、灯りの点く音とまぶたを刺した光に、忙しなく視界を開けた。


 シュウの右手に松明の灯りが戻っていて、どうやら、移動の際は邪魔だと一旦消したらしい。真っ暗闇の中に浮かび上がった彼の姿に美桜はたずねていた。


「如月さん……力が使えるの?」


 シュウは険しい表情のまま、灯りで周囲をザッと確認した。美桜も見た。暗闇に押しつぶされた開けた山の中腹。

 彼女を狙う相手がいるのだろうかとふるえた美桜に、シュウの揺るぎない声が続いた。


「この闇は明らかにおかしい。相手の結界内です。だが、自分の力は制限されていても使えるように緩められた。──おそらく、相手は試している」

「え……」


 社を目指す前に、美桜の精気を物に移して囮とした。手鏡とか、化粧品とか、着替えとか。彼女が普段から使用しているものなら、においが移っており、一時でも目くらましになると言われて。


 自身が普段から愛用していたものをひとつずつ手離していって、美桜は同時に悟った。シュウたちは幾度もこういう場面に遭遇してきたから、ものに対して執着心を持たないのかと。

 そしてそれは、悲しいことではないかと。


 思う美桜におかまいなしに松明が一画を照らし、そこに小さな神社を認めた。たぶん、ご本尊と社のみの、小さな地元に根付いたお社。シュウは迷うことなくそこへ向かうと、ご本尊が位置する扉を遠慮なく開け、奥をザッと確認してから美桜を置いた。


 本来なら、開けるのも躊躇する社の最奥。そこに繋がる扉。迷いなく開けられた扉とその空間に置かれ、美桜は目をしばたたく。


 シュウは次いで彼女に松明を持たせると、美桜の噛まれた足元を確認した。灯りの中で美桜も目にしたが、ブーツの上から鉤裂き状に跡がついていた。血は出ていない。でも、鋭い痛みだけがある。

 シュウが何かを口内でつぶやいた気がした。すぐに目の前から消えると、数拍後には横の木立から大ぶりの倒木を片手に引きずってくる。それを社の正面に据えると、力を通して大きな焚き木にした。


 ゴウッと音を立てた焚き木と、とたんに明るくなった周囲に美桜は目をみはった。灯りで見渡せられるのは、おそらく数メートルの範囲。その先はやはり、塗りつぶしたような真っ暗闇だ。


 何が起こるのか、不安だけがつのる美桜の前で、シュウは手にしたサバイバルナイフで、おもむろに自身の手のひらを切った。

 パッと広がる鮮血。声にできない悲鳴を上げた美桜におかまいなしに何かを小さくつぶやくと、シュウの鮮血が雷光のように一瞬の光を発して、社を包んだ。


 ──そこに座する彼女を守るように。


「如月さん……?」


 恐怖に押しつぶされそうになりながらも問うた声に、シュウが一度、視線を走らせた。鋭い目付きの中にも、どこか迷う色。それが彼自身の心の内を表わしているようで、美桜も思わず腰を上げていた。


 しかし、それをとどめる音が唐突に響き渡る。

 地を揺るがすような──不穏な地響き。それは本当に、何もないそこから突然降ってわいたような音と存在感。

 お山を揺るがす音。


 禍々しい気配が灯りの向こう側──闇の中に現れたのを知って、美桜も凍り付いた。シュウの声は、その事態を見越していたように、冷静に響いた。


「惑わされないでください。自分たちは今、きっと試されている。対象は俺じゃない。美桜──あなただ」


 え、と訊き返す声も言葉にならなかった。凍り付く視界に、シュウの言葉だけが美桜を刺した。


「あなたを守るのが俺の役目です。それだけは、忘れないでください」






 ~・~・~・~・~




 不吉な予感を覚えた彼女の勘は当たっていた。


 闇の向こう、唐突に現れた妖魔は小山ほどもある獣だった。毛むくじゃらのひとつ目。昔話の妖怪のような見た目に、両の腕と足が異様に大きい。人語は介さない様で大きな咆哮を放つ。人一人どころか、家一軒丸呑みにできそうな巨大な口。


 それを浴びせられたシュウは、しかし身動ぎひとつしなかった。そして、戦闘がはじまった。


「…………」


 目をつぶりたかった。

 シュウの武器は、携帯していた大型のサバイバルナイフひとつ。そこに自身の力を移して武器としているようだが、いつもの威力がないのは、経験の浅い美桜にもわかった。


 きっと、いつものシュウなら相手への致命傷となっていただろう攻撃も、わずかな切り傷のみでダメージには至っていない。


 それでも――と美桜は目をみはった。

 シュウの力はやはり、すごい。相手の薙ぎ払う腕や、殺傷力ある咆哮もやすやすと躱し、ナイフ一本で立ち向かう。その戦い方には油断も傲りもなく、数度の応戦の後には怪物の腕が落ちている。


 吹き上がる命の源。美桜はとっさに目をつぶって、大きな咆哮に身をふるわせた。と、思ったら、その咆哮もパタリと止む。

 おそるおそる視界を開けた先に、音を立てて倒れた怪物が映った。そして、その姿は見る間に溶けるように影となって霧散する。


 驚きと、ホッと身体が弛緩したのも一瞬。すぐに闇の向こう側に同じ妖魔──いや、それよりもさらに巨大化したものがいた。おそろしいことに、一頭だけではなく、複数──。


 声にならない声でふるえた。シュウに動揺はない。淡々とそれらに立ち向かい、屠ることだけに集中している。

 たぶん……ふだんの彼なら、こんな大型の獣だってたやすく消滅させていた。でも、それがない。力が制限されている、と言っていた。それは、試されているのだと。


 試すって、なに……と恐怖から思考が向いたそこに、背後からかけられた声があった。


「──へえ。すごいや」


 平素に、傍観者の世間話をする口調。大きく、身体が跳ねる勢いでふり返った。

 美桜の背後はお社のご神体が鎮座する場所のはず。美桜だって神域に踏み込んでいる自覚はあったけれど、それ以上近寄ることはとんでもなくて──。


 暗がりから言葉を発し、姿を現わしたのは、彼女が一番はじめに出逢った──出逢いたくもなかった、子どもの妖魔だった。


「こんばんは、お姉さん」


 久しぶり、と暗がりから影が分裂するように、その姿を映した。

 声を出さないよう──シュウの注意を妨げないよう、美桜はとっさに息を殺した。しかし、子どもはおかまいなしに言葉を続ける。


「先月以来だね。ボク、ずっと逢いたかったんだよ。あなたを見付けたのはボクなのに、無粋な奴らに邪魔されたしさ。なんか段々、お姉さんの存在まで見づらくなっちゃって、ホントに腹が立つやら」


 でも、と十歳前後の少年は愛らしい様子でほほ笑む。美桜を心から慈しむように。


「ようやく逢えた。──ボクらのお母さまになるお方」


 美桜はパニックに陥らないよう、自身を叱咤した。しかし、それも少年が軽く片手を引く仕草の後に崩れた。

 子どもから距離を置くようにしぜんと下がっていて、それが唐突に引かれた。右足の、何かに噛まれたような痛みとともに。一瞬で悟った。見えない鎖に引かれている。


「いや……っ」


 とっさに、シュウが残した松明を振って対抗した。離れた距離では効果はないだろうが、何かで威嚇したかった。

 そしてそれは、意外に効果があった。少年に引きずり寄せられる力が消え、彼からは小さな笑いがもれた。


「ごめんね。ちょっと驚かせただけ。あなたをさらうだけなら、とっくにやっているよ」


 どういうことだと目が泳ぐ美桜に、子どもははんなりと笑った。いつかにも見た笑顔で。


刺国若比売命(さしくにのわかひめ)の力を確認しておきたかったんだ。あなたの力は、ボクたちにも未知数なところがある。あなたの精気を一月受け続けた聖魔──下級兵だけどね。どういう変化が起きているのか、みんな興味津々なんだよ」

「……まさか」


 試されている、とシュウは言った。試す──それは、彼の力の変化を?

 でも、と美桜は混乱した。シュウは、試されているのは自分ではない、美桜だと言った。それはいったい、どういうことなのか。


「刺国若比売命の下僕(しもべ)。ボクらの中にも伝わっている存在はいるよ。昔々のその人と、今の下僕。どちらが強いんだろう。……お姉さんは、どう思う?」


 昔の刺国若比売命の下僕。藤十郎に聞いた、先の二人の護衛。右京と左近。二人は兄弟だった。お雪さまを心から慕い、敬愛しておられた。そして──二人とも王印だった。

 お雪さまと共に亡くなられた……。


 この少年の姿をした妖魔は、その人たちを知っているのだろうか。実際に逢ってはいなくても、伝わっているというのは、少なくとも聖魔側には知らされていない事実を知っているのでは──。

 考えたそこで、妖魔の歓喜の奇声にハッと目を戻した。


「如月さん……!」


 シュウのサバイバルナイフが妖魔の一撃に折れ、そこをあさっての方角から襲い来た一撃に防御が間に合わず、シュウの身体が横なぎに吹き飛ばされた。

 とっさに立ち上がって駆け出しかけた美桜の足を、またもや見えない鎖が引っ張ってとどめた。


「お姉さんはここで見てて」


 暴れ出しそうな感情が喉を破りそうになった。が、またも上がった妖魔の叫びにハッとすると、なぎ飛ばされたかに見えたシュウが途中で踏みとどまり、妖魔の腕をつかんでとどめていた。そして、そこから青白い放電が妖魔の身体に走るや、咆哮とともにその身が消滅する。


 さらに次。

 勢いのまま、シュウは電光石火のごとく巨体の間を移動し、相手が攻撃を繰り出すより先にその身に放電を走らせ、見る間に妖魔の群れを倒した。姿も残さず。後に残ったいくつもの影の残滓と、燃える大木の音だけが鮮烈なほど──。


 圧巻だった。

 瞬きも忘れて見入った美桜の背後で、小さな口笛が響く。すごいや、とほんとうに感嘆した様で、どこか面白がる色で。


「一応、用意した妖魔は下級兵なら二匹倒せたら上出来、って奴らだったんだけど。力を半分以下に制限してこれ……いや。下級兵とはもう、蓄積量が異なるのか。……あの時に感じた力も、間違いじゃなかった」


 つぶやく少年妖魔に、シュウが鋭く視線を向ける。否や、新たな妖魔が現れた。今度は子どものような大きさの、やはり一つ目の妖魔。両の腕が細長く、鎌のような爪が光を反射して威力を教える。


 襲い来た一匹を、シュウはやはり右手に走らせた放電で消滅させた。

 しかし──それは一匹だけではなかった。無数にいた。灯りが届く範囲以外にも、闇の中に怖気が立つほどの数がひしめいている。それが、甲高く騒ぐ声でわかった。


 こんなの、キリがない。美桜にも理解できた。いくら、シュウの力が目をみはるものでも、際限なく相手をしていたら……。


「お母さま。あなたの下僕は、いつ限界が来るのかな」


 彼女の心を読んだセリフにふるえた。ねえ、お姉さん、と今度は無邪気を装って声をかけてくる。賭けをしない? と。


「賭け……?」

 妖魔の言葉になど乗ってはいけない。そう思うのに、美桜は問い返してしまっていた。うん、と少年は無邪気さとは裏腹な残忍さを垣間見せる。


「あなたの下僕が勝つかどうか」

「……賭けに、なってない」


 彼らは無限に妖魔を出没させる。それでは、シュウの体力と力が尽きるほうが目に見えている。

 あはは、と少年はくったくなく笑った。そっか、だよね、と。


「じゃあ、お姉さん自身にしてもいいよ。お姉さんがボクらの側に下るかどうか。あの下僕を見殺しにしても、ボクらを拒絶するか」


 いいよ、と少年は最終決定を美桜にゆだねた。


「お姉さんが最後まで拒絶するのなら、ボクもこの場は引いてもいいよ」


 それは、彼女の息を詰まらせる判断だった。

 最後まで。それは、シュウが美桜を守って命尽きるまで。そう言っているのだ。彼女にシュウを見殺しにする覚悟があるのかと。

 息が詰まる中で上がる奇声に目を向けると、シュウが先よりも激しい戦闘を繰り広げている最中だった。


 身に付けていたサバイバルナイフは折れてしまった。今のシュウは素手だ。氷色の武器も形にはできていない。小鬼のような妖魔の攻撃を躱し、その腕を奪って自身の武器にするや、仲間を傷付けさせて同士討ちに持ち込む。


 小鬼たちは目先だけしか見ていない知能の低さだ。だが、ただ使われるだけの妖魔たちにも意思や感情があるのがわかる。彼の臨機応変な戦闘にはほんとうに目をみはらせられる。だが──。

 自身よりも大きな妖魔なら、攻撃の隙間を見付けることも可能だったのだと、美桜も気付いた。小さな妖魔たちは徐々にシュウを隙間なく追い詰め、手傷を負わせていく。


 めったなことでは傷付かないという、聖魔の身体に。深くはなくても、上がっていく鮮血に美桜は悲鳴を殺した。


「…………」


 あなたを守るのが自分の使命だとシュウは言った。それは彼が下僕だから。美桜に何かあると、彼の命もなくなるから。


 違う、と自身で頭に浮かんだ考えを否定した。シュウ自身にどんな思いがあろうと、彼は誠心誠意、彼女を守ろうとしてくれている。美桜だけは、それを疑ってはいけない。

 では、どうする──。


 クスクスと、後方で楽しそうに笑う声が思考を追い詰める。松明を握る手に力を込め、冷静に、と美桜は考えをめぐらせた。


 試されている。それはわかった気がする。彼女がシュウを見殺しにするか否か。助けを乞うて──妖魔側に下るか。

 息も詰まる中で、ふと、気付いた。妖魔。そう──元は、タマも同じ眷属。でも、タマたちは今、美桜に近付けない。彼女が月経の最中だから。そして、この結界。彼女の足に付けられた、血の出ない痕。


 血が、出ない……?

 何か閃いた気がした。この少年妖魔は、美桜に新たな血は流させたくないのではないか。タマたちも近付けない今の状態。それは──妖魔側も同じなのではないだろうか。


 美桜の血は、きっと彼らを狂わす。理性の境がわからなくなるほど。この少年も、それを恐れているのだとしたら……?

 でも、最初はそんなことはなかった。答えがわからなくて、美桜は上がる奇声に目をつぶるフリで首をふった。


 わからない。先のお山で美桜は自身の血をセツに与えたけれど、あれはとっさの──衝動的な行動で、伯父たちにも後できつく注意された。セツがあの時、妖魔の本能のままに猛り狂っていてもおかしくなかったのだと。

 あの時はただ、美桜がセツを救いたかったから。その思いに彼が応えてくれたからだと思う。


 でも、今は。細く目を開けた中に、シュウを次々に傷付ける小鬼たちの姿が映る。この場にいる有象無象の存在を彼女が救いたいと思うか。──答えは否だ。そこまでお人好しじゃない。


 たぶん、今ここで彼女が新たな血を流すことは、きっとシュウをさらに追い詰める結果にしかならない。そして、この少年妖魔もそれをわかっている。だから、彼女に鎖を付けた。理性をなくした同族に狙われても、さらっていけるように。

 どちらにしても逃げ場がない。それを嫌というほど理解させられた。


「……っ」


 美桜の思考はもう限界に近かった。

 現状を理解して何かできないか、ひっしに思考を巡らせても、視界に入るシュウの状態に何度も叫びだしそうになる。右腕を犠牲に、シュウは武器として妖魔を屠っているが、その力も早、尽きかけている。青白い雷光の後には、黒ずんだ人のものとは思えない右腕がある。


 もうきっと──あの右腕は使えない。

 その右腕の雷光も威力が劣ってきているようだった。小鬼一匹、一撃で仕留められなくなっている。そして、左腕に新たな光が宿りはじめた。


「……やめて」


 たまらず、美桜のこらえた口から言葉がもれた。シュウは諦めない。きっと──きっと、自身の命が尽きるその時まで。何かに執着したりしない。そういう風に育ってきた人だから。


「もう……やめてっ! やめて、お願い如月さん……!!」


 叫んだ美桜は、次いで激しく後悔した。

 彼女の叫びに視線を走らせたシュウの隙を突いて、妖魔の一撃が彼の胸を背後から貫いた。声にならない悲鳴で凍り付いた視界に、シュウが顔をゆがめて胸を貫いた妖魔を掴むや、刹那に消滅させた。


 が、貫かれた一撃の威力は変わらないようで、暗色のモッズコートが見る間に深い色に変わっていく。ガクリ、と片膝をついた彼に、小鬼たちが群がった。


 声にならない悲鳴で無我夢中に駆けだした美桜を、またも見えぬ鎖が引く。クスクスと笑う声。人の命をなんとも思わない、娯楽のように捉えている気配。少年が嘲りで口を開きかけた、その時だった。


 ドンッ──、と肚に響く音がした。


 小鬼に囲まれたシュウが、その中から紛うことなく、鋭い視線で少年妖魔を狙い撃ちしていた。形にできていなかった、氷の銃で。

 額の真ん中を迷いなく撃ち抜かれた少年が驚愕の表情でその脆さをあらわにする。


「馬鹿な……なんで」


 ああ、とその姿を薄く揺らがせながら納得の声を紡いだ。


「百雷だけを使っていたのは目くらましか……その一撃を溜めるために。右腕と、左腕。追い詰められたように見せかけて、この一瞬を狙った……なるほど。やるね」


 刺国若比売命の下僕、その力は確かに厄介だ……。そう、少年妖魔は──閻鬼は、つぶやいた。


 留める核をなくしたようにその姿を薄らがせながら、でも、と呪いの言葉が残される。ボクの術は解かないよ、どうするのかな、と。


 その姿が消滅するのと、小鬼たちの奇声がこだまして、美桜もハッとした。その彼女にだけ、残った声があった。


「助けを呼びたいなら、ボクをいつでも呼んで。ボクはいつでもあなたの傍に──ボクらの母上」と。


 総毛立つような気分の悪さで美桜は首を振った。そしてようやく腰を上げた。

 とにかく、ここから離れればいいのではないかと思った。美桜を縛っていた少年妖魔は消えた。彼女を戒めるものはない。


 もしくは、シュウをこの社の中に入れて籠城する。妖魔たちは美桜のほうを狙いに来なかった。あの少年妖魔がいたからだとしても、たぶんきっと、シュウは美桜の存在を守るように──隠すように、なんらかの術を施した。


 それなら、一緒に籠城すればいい。夜明けが来れば、また別の方策があるはず。とにかく、一刻も早く彼の怪我の手当を。

 そう思って社の外に出ようとした美桜を、見えない壁が阻んだ。静電気のような音で内に留める力。シュウの力なのはわかる。でもなぜ、美桜も出られないのか……!?


「如月さん……!?」


 とっさに片手で見えない壁を叩いた。

 シュウは氷の銃で少年妖魔を撃った後は、変わらず自身の身体のみで応戦している。負った痛手も、新たに上げる鮮血も変わらない。


 動かない右腕。左足も引きずっている様子からして、かなりの深手だ。なにより、胸の傷。なぜだか美桜にもわかる。彼の命の鼓動。それは、彼の胸に刻まれた命の刻印ではないのか。主の美桜にだけわかる、彼の命の証。


「いや……」


 いや、ともう一度つぶやいた。なぜ今、これまでわからなかった彼の命の鼓動がわかるのか。


 それは――美桜が彼の命を握る主だから。最後まで、見届ける義務があるから。感情が爆発しそうになったそこに、新たな怪物が現れた。はじめにも見た妖魔。一つ目の巨体。


 どこまでも、彼女たちを絶望に追い詰める光景だった。

 地を揺るがす音と凶暴な咆哮。それがなす術もなくシュウに向かって、美桜も最大級の悲鳴でそれに抗った。










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