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桜風記  作者: 由唯
33/61

溶ける雪 1




 雪が降っていた。花びらのようにひらひらと綿毛のようなはかなさで。


 頭上にはうす曇りの空色。

 人も景色も寒々しいばかりの風景の中で、白い雪だけがまるで命づくように舞い落ちる。吐き出す呼気の中でとけきることなく。


 受け止めたくて差し出した手のひらに雪片は落ちて、溶けて消える。

 それはまるで、夢の中でつかもうとして消えた花びらのように。


「…………」

 息をついて美桜は朝方までの出来事を思い起こしていた。





 温泉が湧いて地熱が高いせいか、お山のおそらく奥地であろうに、滝や川が凍りついていることはなかった。

 つい先日まで都内で春のにおいをかいでいたのに、真冬に逆もどりした雪見風呂の光景をふしぎにながめた。


「───美桜」

 朝風呂を共にした白祢に声をかけられ、美桜はふりかえった。

 ほんとうはまだ生理が終わっていないから、と固辞したのだが、問題ない、と白祢に押し切られたのだ。


 いくら同性同士とはいえ、初対面の人と裸の付き合いは少なからず抵抗がある。白祢がなんとも思っていないのは明らかだったが。


(いや………朝方、ひとつの布団で寝たけどさ)

 白祢は同性というより、どちらかといえば中性的な女を感じさせないタイプだったので、なおさらためらいを覚えた。


 しかも白祢は、年配者とは思えないスタイルを保持していたので、コンプレックスだらけの美桜はいたたまれず隅っこのほうに逃げた。そこにかけられた声だった。


「心は決まったかや」

「………え」

 湯けむりの中でも、鋭く彼女を見ている眸がわかった。


「四条家に来る話じゃ。世俗を捨てるには時間のいることであろう。それに関しては便宜を計らうよう、私からも口添えしよう。ゆっくりでよい。四条家にて、心身を癒しや。美桜」


 頭ごなしな威圧感はどこにもなかった。美桜の心に添うようないたわりがあった。雪がお湯に溶けるようなあたたかさで。


「………もし、四条家に行ったら、どうなるんですか?」

「そなたの身の安全は保障される。四条家は五大家のうち、古式ゆかしく歴史ある、他家も一目置く神聖なる一族じゃ。妖魔はもとより、よこしまな者どもからもそなたの身は守られる」


 言って、白根は少し言葉をためらわせた。

「大老さまが話されたのは昔の話じゃ。それが現代にも通じるとは限らぬ。少なくとも私は、女子おなごの身をそのように扱うのは断固として反対する。そなたの意に染まぬことは決してしないと、私が約する。それでは信用に足りぬか」


 美桜はふと、久子先生を思い出した。彼女の承諾なしに倫理に悖る行為はしない───。

 四条家に庇護される、ということは、先の刺国若比売命が置かれた立場も考慮しなければならないのだと思い至った。


「………白祢さま」

 白祢の誠実さは、初対面の時より身にしみている。おのれの信念のためには美桜や大老さまとも対峙する芯の通ったもの。

 美桜は、彼女のそういうところを信じている。


「白祢さまのことは信じています。わたしのことも、とても気遣ってくださっているから、そう申し出てくださるんだって」

「ならば───」

 美桜は小さく首をふった。


「わたし、帰ります。白祢さま」


 音を立てて白祢が立ち上がると、湯けむりをかき分けて間近に来た。そこに座られると、やっぱり美桜はひるんだ。


「───なにゆえじゃ」

 自分を説得させられる理由を述べてみよ、と言われたようだった。

 どうしてもひるまずにはおれなかった美桜だが、それでも心にあるものがあった。それに頑張って声をつむいだ。


「わたし………バツイチなんです。白祢さま。半年前まで、結婚していました。相手は五つ年上の一流企業に勤めていた人で、出逢った時にはバツイチ───あ、離婚歴がすでにあって、前の奥さんとの間に子どもも一人いました。でもわたし、そんなことは全然気にしていなくて………」


 ふるえる息で喉が引きつった。潔癖で清廉な白祢に知られたら、どう思われるのだろう。それでも、正直に話そうと思った。誠実な白祢に応えるために。


「あの時は、とにかくひっしでした。妹は早々に結婚して家庭を築いていて、両親や親戚からはもどって見合いしろってせっつかれていて───」



 美桜は知っていた。親戚や知人が集まると決まって、美桜がいつまでも独り身でいるのは都会の学校にやったせいだ、とか、いい年した娘がいつまでも独り身でフラフラしているのはみっともない、と両親が非難されているのを。


 だからこそ、よけい意地と反発もあった。彼らの鼻を明かしてやれる相手を見つけてやろうと。だから、彼がバツイチで前妻との間に子どもがいたのも気にならなかった。

 目先の装飾と利己的な考えに捉われて、その人の本質に目隠ししていた。


「彼が一流企業勤めで収入も安定していて、まわりに自慢できる人だったから。好きになったのはそれだけが理由じゃなかったけど…………でも、要素としては大きかったんです。それが大きな間違いだったのは、後になってわかりましたけど」


 美桜は苦く笑んですこし額をこすった。白祢に眸を上げられなかった。


「彼は、最低な男でした。わたしと付き合う前から他にも女がいて、それは結婚後も変わりませんでした。わたしと籍を入れたのも結局は、病気の母親の面倒を見る介護人がほしかったんだろうって思います。週の半分ぐらいは家に帰ってこなくて、どこでなにをしているのか、ホントに得体の知れない人だった」


 冷たいリビングで一人、携帯をにぎりしめながら泣き明かした日々が思い浮かぶ。

 いつか見た底のない真っ暗闇は当時の隣人であり、よく知っていながら別ものでもあった。


 のぼせそうで、美桜は一度立ち上がって手近の岩場に浅く腰かけた。白祢も続いて岩場にもたれかかる。

 音もなく、雪が降っていた。身体に降りかかる冷たさが火照った心も冷ましてゆくようだった。


「あの人との終わりは、全部人任せでした。あの人は最後の何週間か、ずっとわたしの連絡を無視し続けたので、弁護士さんにお願いするしかなくて。………わたしも、拒絶される連絡を続けることが───できなくて」


 岩場に置いた手がぎゅっとにぎりしめられた。情けない気持ちで苦く笑んだ。


「ホント………みっともない終わり方でした。わたしは結局、あの人にうらみ事とか文句も言うこともできず………気持ちが、ずっと宙ぶらりんのままで。………消化、しきれていなくて」


 ふるえる唇をこらえた。急いで額をこすって顔を隠した。

 事実だけを話そうとしたのに、自分でも言ったとおり、消化しきれていない思いがわだかまって苦しくなった。冷静に話すのなんて、まだ無理があった。話せば話すほど、苦しかったあの時に思いが捉われてゆく。



 と、ピィッ、と鋭い口笛の音がして美桜の背後で風が動いた。ふいに身体がかるくなって背筋がのびた。

 あわててふりむくと、岩場の影で消えていく闇の気があった。


 とっさに腰を浮かして美桜は耳元をたしかめる。ピアスはつけたままなのに。

 追い払ってくれたらしい白祢のため息が出る。


「そなたの波長に惹かれてきたのじゃ。───美桜。なにゆえそのような処へもどろうと思う」

「それは───」

「そなたは過ちをおかした。それによって受けた傷が癒えていないのもわかった。心と身体を癒すのが、なにゆえ四条家ではならぬ?」


 伯父にも言われた。おまえの傷はまだ癒えていないんだな、と。

 白祢の申し出はまるで、心身ともに病んだ美桜がだれも知らない世界へ消えてしまいたくなった、そこからの誘いのようだった。


 身体にあてていたタオルで顔をぬぐい、美桜は湯船に身体を沈めた。冷えた肌にじんわりぬくもりが浸透した。


「………ダメってわけでは、ないんです。正直、心動かされました。四条家に行ったらきっと、日々のわずらわしさとか、この先のことに汲々としたり、世間との格差や両親への負い目とか引け目とか───いろんなことに捉われずにすむんだろうなって。あの人みたいな男の人に、傷付けられることもないんだろうって」


 白祢も静かに湯船にもどってきた。美桜は湯の中に舞い落ちる雪片を静かに見つめる。


「わたし………あの時、ほんとうに心身ともに病んでいました。彼との結婚は家族や友人たちにも反対されたから、頼れる人もほとんどいなくて、逃げる場所もない。でも、いまここで負けて逃げるのだけは嫌だ、って変な意地張っちゃって。そうしたら友人の一人が───」


 会社の欠勤が続き、メールや電話の応答も少ない彼女を心配して様子を見にきた友人がいた。友人は開口一番、


『───人生、逃げ時ってもんがあるのよ!』と美桜を叱咤した。


 いま逃げなくて、いつ逃げるの。逃げずに踏ん張って息苦しさが増すだけなら、とりあえずここから逃げ出せ。自分を追い込んでどうしようもなくなる前に、まず逃げ出して一息つけ!と。


 あまりに大っぴらに逃げることを推奨する友人に、はじめはあきれ、次いで笑い───いつの間にか泣いていた。


 涙を流す気力もなくなっていたことに、あの時気がついた。だから美桜は、逃げだす選択は決して否定的なものではないと思っている。

 逃げたその先で、ようやく深く息を継いで空を見上げることもできたのだから。

 その話をすると、しぜんと笑みが浮かんだ。


「………それで、父に相談しました。父はあたりまえのように帰ってこい、って言ってくれて………弁護士やら離婚の手配を進めてくれたのは、ほとんど両親です。みんなの反対を押し切って、結婚式も挙げなかった親不孝な娘だったのに」

「………親御とは、そうしたものであろう」


 そうですね、と笑む美桜に白祢は静かに息をついた。


「そなたは親御や友人の存在ゆえに、世俗を捨てることはできぬと、そういうことか?」

 美桜は白祢を見つめ返した。最初に断った時の思いが胸によみがえっていた。


「それも、あります」

「言ったであろう。すぐに世俗を捨てることはない。それに関しては便宜を計らうと」

 美桜はしぜんな思いで笑み返した。ありがとうございます、白祢さま、と。


「わたし───」


 自分の内をながめるようにして、ふと、視界に降った雪を両手ですくった。その冷たさを愛しむように。


「白祢さまの言うとおり、たくさん、過ちをおかしました。目先のことにとらわれてまわりの忠告に耳も貸さず、………───人をうらんで憎んで、あの人の相手の女の人に嫌がらせとか、ホント最低なこともしました。だから、今抱えている傷は自業自得の部分もあるんです」


 溶けた雪片をにぎりしめ、美桜は少しく眸も閉じた。開けた時に、迷いはなかった。


「それでも、わたしは自分が立った場所で頑張ってみたい。わたしを取り戻そうって、思い決めたところで」


 それこそが、彼女を心配し、気遣ってくれた人たちへの、精一杯の恩返しだと思うから。

 美桜は懸命に白祢に眸を返した。


「ごめんなさい、白祢さま。わたしはまだ、聖魔のルールも掟も知りません。白祢さまの申し出をお断りするのも、ほんとうはとても失礼なことなんだろうって思います。それでも」

 ぎゅっと手をにぎって頭を下げた。


「わたし、四条家へ身を寄せることはできません。ごめんなさい」



 白祢は彼女を見つめて少しく黙した。

 美桜という娘は白祢からしたら赤子同然の幼さだ。見るからに頼りなく、無知そのもの。

 刺国若比売命であるおのれに自覚もなく、危険性も理解していない。


 いまはまだ秘されているようだが、他家の聖魔たちにその存在が知られれば、彼女個人の意志など頭から無視される。それゆえ、四条家で庇護することを申し出たのだが。


 小さく、白祢は息をついた。

 彼女はほんとうに認識が甘い。聖魔の世界に入れば、肉親や人の営み、社会から距離を置く。そうせざるを得なくなる。周囲と異なる時間軸を歩み始めた聖魔にとって、その差は埋めようもないものだからだ。


 彼女はまだそれを肌で感じてはいないのだろう。だからこそ、人の営みに執着し、肉親や周囲のしがらみにこだわる。それから逃げる選択肢も視野に入れながら。


 そろそろと、自信なさげに上げられた眸に、ふッと知らず微笑がこぼれた。


「美桜。そなたは頑固で生真面目じゃな」

「え…………白祢さまのほうが、そうだと思いますけど」

「うむ。女子おなごは生真面目なぐらいがちょうどよい。大きな声では言えぬが、ご大老さまのように不真面目な男子おのこはむかしからどこにでもおる」


 ハハ、と美桜は引きつった笑いを浮かべた。やわらかな面差しでつかみどころのない藤十郎と、生真面目一本槍のような白祢では、セツの件以上の衝突があったのだろうと。


 つと、白祢の手が伸びて美桜の頬からおとがいにふれた。同性なのに、ドキリと鼓動が鳴った。


「そなたは、まだ若い。これから様々───我らがたどって来た経験を積んでゆくのだろう。だが………そなたは、一度おのが内に入れたものは、たやすく手離さぬのだな」


 異性との間や、肉親との間に確執や傷を抱えているのだろうに。そこにいる自分を見ている。

 確執も傷も───醜さもいつくしみも、持っているのが自分なのだと。


 手離さない執着にか、いつくしみ深さにか、白祢の表情は苦笑するようになっていた。とかされる雪のように。


「わかった。いまは、そなたの思うようにしやれ」


 皮肉ではなく、白祢の心にもしみいる息吹があった。

 それは白祢がはるかむかしに置き忘れてきた肉親への愛情なのかも知れず───それとも、真っ正直に刺国若比売命の運命に立ち向かおうとしている娘に、なにがしかの感銘を受けたからなのかも知れなかった。


 白雪がとけるような微笑に、春のにおいをかいでいた。






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