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桜風記  作者: 由唯
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人喰い狼 1





 白い呼気が夜明かりに流れる。


 血のように赤い両眼。黒々とした毛並み。雪原に落とされた影もその体躯も、優に大の大人を上回ってあまりある大型犬だった。


(……野犬?)


 凍りついてふるえる息が白くもれる。その姿は、一目で恐怖を抱かせるのに十分だった。


「──セツ」


 なんでもないように呼びかけたのは、老人だった。答えるようにふさふさとした尻尾がふられ、黒い犬が足を踏み違えた。

 と、ふらりとその大きな体躯が倒れかかる。四肢を踏ん張ってなんとか耐えたようだが、荒く響く息遣いからも察せられた。──怪我をしている。


「セツ──。白祢さまにやられたか」

「来るな、おじじ。穢れがつく」


 深く響き渡る声だった。荒々しい息遣いとともに、その犬から発せられたのだとわかる。奇妙に()と既視感を覚えた。

 その眸が向けられると、ふるえ上がって後ずさってしまう。


「……聖魔か」


 美桜をジッと見据える眼差しだった。ふいに──なぜだかふるえが止まって、足も止まった。

 変わらずに血のしたたるような、爛々とした赤い眼だったのに。


「娘さん──」、と美桜にすがりつく老人の姿があった。


「お願いしますじゃ。セツと契約を結ぶなり──してくだされ。妖獣のままでは、セツは藤十郎さまのおそばに近付けぬ。なにを言っても、白祢さまがそれをゆるさぬのじゃ」

「え……」


「魔を厭う四条家の中でも、白祢さまはことに潔癖なお方じゃ。いくら、セツは藤十郎さまの友人じゃと説いても聞き入れてはくださらぬ。お願いしますじゃ、娘さん。あなたが、今この時、藤十郎さまが待たれていたお方なら、どうかセツを──藤十郎さまの望みを、かなえてくだされ」

「そんな──」


 美桜は仰天して後ずさる。

 彼女はただの人間だ。伯父やタマや、周りが色々言っていても──一部、彼らと同種の部分があるのかも知れなくても。


 美桜には、特殊な力などなにもない。自身でこれといってだれかに、なにかに影響する手応えも実感もないのだ。

 毎日小さな事柄に心を左右され、車酔いもすれば運動不足に息を切らす、そんな普通の人間と変わりない。

 彼女に過剰な期待を押し付けられても困る。ほんとうに。


 ムリです、と美桜が口を開くより、黒い犬が「──おじじ」と声にして、ハッとその場を飛びすさった。

 丘陵から少なからず音を立てて雪がなだれ落ちる。セツが一瞬前までいた箇所だった。


 リィン──と鈴を打ちふるわせたような音が響く。続いて錫杖の音が。


 美桜たちと、獣からも離れた場所に白祢の姿があった。この上なく冷ややかな、怒気に満ちた気配で。


「ジイ。娘子。このようなところでなにをしよる」


 白祢の冷気のような怒りがその場を占めた。一番の殺気はセツに向けられたまま。


「そこなモノは人の血肉を喰らった妖ぞ。大老さまのおそばに近付けることはまかりならぬと申したはずだ。ジイ。式神の分際で出過ぎた真似はゆるさぬと、そう言ったな」

「ですが──白祢さま!」

「娘。少しでも不審なふるまいをすれば即刻お山を叩き出すと、そう言ったぞ」


 容赦なく、錫杖が打ち鳴らされた。今度は涼やかな音色ではなく、身体に突き刺さるような力ある音だった。


 襲いかかる目に見えない力の圧迫を感じて美桜は目をつむる。とっさにかかげた両腕になにがしか、力の片鱗を感じるかと思ったが、響いたのは老人の小さな声だった。


 ハッと目を開けた前で、老人が驚愕した表情からその姿を解くかき消えさせた。雪原の中に数本、髪の毛のようなものが散って消えた。


「──おじいさんッ」


 美桜は叫んだ。今のいままで、そこにいた人が──おそらく、意に反して消された事実に愕然として。


 しゃん、と錫杖が鳴る音と同時に吠声が響いた。セツが牙をむいて白祢に飛びかかっていた。

 すさまじい吠え声と白祢の刹那の攻防が展開される。


 セツの鋭い犬歯は白祢の錫杖にはばまれ、白祢の鋭い蹴りが大きな体躯をはね上げる前にそれは避けられる。


 距離を置くも一転──。目にも止まらぬ速さで同じ光景が繰り広げられる。


 白祢が錫杖を向けた先で小刻みの爆発音が響き、飛びすさるセツの足もとが次々に雪けむりを上げる。

 その幾度目かの一転、セツの吠え声に白祢の足もとの雪が壁のように舞い上がった。避けかけた白祢の視界に、力を持った雪つぶてが襲いかかる。


 視界を奪われ、身をかばった白祢に間隙が生まれた。そこにセツが襲いかかった。


「……ッ!」


 息をのむ一瞬だった。

 白祢の身体はセツの大きな黒い姿態に押さえ込まれ、セツの四肢が白祢を押さえて勝者を知らしめていた。


 荒々しい息遣いが響く。

 その大きな牙と口元は、たやすく白祢の喉笛を噛み切れるだろう。実際に、それが勝敗の決着であり、互いに相手を仕留める殺意と攻防にふさわしい終着だった。


 が──。

 セツは身を引いた。白祢に牙を立てることなく、老人を無情に消した相手に、今まで闘っていた殺意をそのまま向けることなく。

 静かに四肢を退けた。


 白祢の双眸が一瞬、屈辱から目もくらむような怒りの色に支配されたのが見てとれた。美桜も肌に感じる殺気にふるえ、次いで叫んでいた。


「──セツッ!」


 錫杖をふるうと同時に、容赦ない力で跳ね飛ばされたセツが、音を立てて雪原に伏す。その肢体の上に、目に見えない圧力が加わっているのがわかった。


「やめて! やめてください、白祢さま……!」


 凍りついてぎこちなかった身体が氷解されたように動いていた。雪を蹴立ててまろぶように白祢のもとにたどりつくと、彼女の力をとどめるようにすがりついた。


「きゃあ……っ!」


 放電したものにふれたような衝撃で、美桜ははじかれた。手足にしびれるような痛みと感覚が残る。

 白祢は冷ややかに彼女を一瞥した。


「下がりおれ。そなたの処遇はこの妖獣を始末した後だ。黒田がそなたのような弱い聖魔を使い、契約前の妖を操り、大老さまのおそばに近付こうとした理由は、とくと聞かせてもらう」

「そんな……、違います!」


 しびれる舌で叫んでも、今の白祢にはなにも通じないとわかった。雪を踏む足音と錫杖と無情な眸は、伏して息も絶え絶えなセツに向けられている。


 おのれの内までは屈しない眸が声なく上げられた。それに対して白祢の無情な錫杖がふられる。美桜は無我夢中で叫んでいた。


「ダメ……ッ!」


 一刹那──白祢の内からはすべての力がかき消えた。なにもつかむことができない、無力な赤子のように。

 自身の錫杖ですら、ただの棒きれのように感じられた。そんな感覚はありえなかった。

 ぼうぜんと立ち尽くしたその脇を、娘が無様にまろびながら走りぬけた。


「セツ……! セツッ!」


 泣きそうな声で妖獣を気遣っていた。それに白祢はおのれを取り戻した。


「離れろ、娘。それは人の血肉を喰らって生きてきた妖魔。──人喰い狼だ」


 え、と美桜もさすがに冷水を浴びせられた心境だった。

 音がしそうな動作でかばっていた黒い犬を見下ろし、その赤い眼、のぞく牙、子馬のように大きな肢体に、いまさら戦慄が走った。


 すると、セツが苦しい息の下で反論した。


「オレは……もう、ずっと人は喰っていない。藤十郎と──そう、約束した」


 四肢を持ち上げるのも、ひどく苦しそうだった。息を切らして、それでもセツは告げた。


「オレは、もう二度と、人は喰わない──」


 その眼差し。犬狼のけわしい相貌をあらわにしながら、餓えた欲望をむきだしにしながら、血肉に飢えたものと一線を画するもの。──理性。

 しかし、白祢の冷ややかな声音で無情の宣告はされる。


「一度人の血の味を覚えた妖は、欲望のまま解き放たれた災い同様だ。不浄のものがこのお山に居座ることすら許し難い。娘、口先の言葉に惑わされるな。そこをどきやれ」


 美桜はなんでか、白祢の言葉に逆らってセツを背後にかばっていた。

 自分でもわからない。なぜこんな、はじめて逢った獣のためにひっしになるのか。身体を張るのか。眸は白祢に対峙して真向かっていた。


「できません、白祢さま。お願い、やめて」

「ならば、お主が下僕として妖と契約をするか?」


 白祢の口調にはどこか小馬鹿にした響きがあった。セツがそれを受けて返す。


「……この娘に、オレと契約する力は、ない」


 ふん、と鼻を鳴らした白祢にはそれがわかっていたようだった。


「ならば道はひとつだな。不浄のものを大老さまのおそばに近付けるわけにはいかぬ」

 錫杖の先が美桜の背後、セツに向けられ、美桜はひっしに言いつのった。

「あの! あの、じゃあ、白祢さまがセツと契約するのは」

「断るッ!」


 セツと白祢、両方から同時に声が上がって、美桜は身をすくめた。こんなところでハモらなくても。


 忌々しそうな視線が彼女をはぶいた空中でぶつかり、白祢の錫杖をつかむ手に力がこもった。

 先の力がかき消えた感覚は、なにかの間違いだったのだろうと改める。雪よりも輝く光に満ちて、力の威力を示していた。


「これ以上の押し問答は無意味だ。娘、あくまで人喰い狼をかばうというのなら、女子といえど容赦はせぬぞ」


 言葉と威容を示すような錫杖の輝きが本物だった。美桜はセツを背後に、どこにも逃げ場がないのを思い知る。セツの切れ切れの声が出た。


「……娘、下がれ」

「セツ……」

「藤十郎に、一目、と思ったが──」


 白祢の怒りが言葉とともにふりおろされた。

「妖獣ごときが気安く大老さまのお名を呼ぶな!」


 過たず錫杖の光が美桜の背後のセツを貫き、痛そうな声で大きな肢体が吹き飛ばされた。


「セツ……ッ」


 悲鳴をあげてかけよった肢体の下から、雪原を染める赤黒いしみが広がった。それはセツの血であり、彼を成していた闇の気でもあるとわかった。

 とっさにおびえた美桜に白祢の声がかかる。


「わかったであろう、娘。妖魔は、妖魔だ。我らとは相容れぬ」


 錫杖の音が鳴り、止めが刺されるのを直感的にさとって美桜はセツの身体を全身でかばった。闇の気のおぞましさが肌に伝わった。

 妖獣の身体を抱きしめた美桜に、白祢の怒りが我慢の限度を超えたようだった。


「妖にたぶらかされおったか! この、痴れ者が!」


 襲い来る力を感じて、美桜も叫んでいた。もうそれしかなかった。








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