白のお山 2
シュウがハッと、はじかれたようにふりかえり戦闘体勢に入るのと、その音が響き渡るのは同時だった。
磨き抜かれた鈴の音だった。
はかないほど透明感があり、しかして、あざやかな存在感でもって鳴り響く、力ある音色。
梢を揺らし、樹木をふるわせ、夜の闇さえもがその音色に場所をゆずったよう。静かに降る雪も息をひそめた気配だった。
音色は一度きり。
雪を踏むひそやかな足音が近付く。車からもれるライトの灯りゆえに、夜の闇はいっそう濃かった。
シュウがかまえた視線の先に、その人影は現れた。人工の灯りに少しまぶしそうに、不機嫌があらわなように。
「──不浄の者がお山に入り込んだな」
五十代ほどの年配の女性だった。
背が高く、長く伸ばした髪を高く結い上げ、山伏のような、それよりも簡略した時代がかった衣装。片手の錫杖と足もとの藁沓がなおさらその印象を深める。
聖魔、とシュウは理解したが警戒を解くことはしなかった。
整った顔立ちはどこか中性的な面差しで、冷ややかな眼差しはシュウのそれよりも年期が入っている。それで彼を一瞥した。言葉はその背後の人物に向けられる。
「鷹衛の迅。今、このお山に不浄の者を招くことは相ならん。疾く、去ね」
一匠の静かな声が紡がれる。
「白露の方。あなたがわざわざいらしていたとは、存じ上げなかった」
「戯れ言を。四条家の結界内に入り込んだ時点で、それと気付いていたろう。ともかく、去ね。今おまえの相手をしている暇はない」
そう告げると、長い髪を翻して女性は立ち去りかける。一匠が呼び止めた。
「我々は仁科のご大老に招かれている。門前払いはいただけない」
「大老さまに?」
わずかに驚いたように、訝しむ目付きで女性はふりかえった。一匠はかまわず美桜の腕をとって立たせている。
「それに、ちょうどよい所へ来ていただいた。姪が気分を悪くしている。あなたの術で先に連れて行ってもらえるとありがたい」
「おまえの姪だと……!?」
さらに驚愕する女性を意にすることなく、一匠は美桜に話しかけていた。
歩けるか? と。一匠の言葉に懸念を浮かべたシュウにも、彼女なら問題ない、と本人を置いて話を進めている。
女性のこめかみには青筋が浮かんだ。が、口を開くよりも、一匠に抱えられるようにして出てきた娘を見て、少し表情が動いた。
気配が三つあることには気がついていた。聖魔が二人に、人間が一人。
それが娘子であることにまでは思い至らなかった。しかも、一匠の言う通り、気分が悪そうに青ざめた顔色で見つめ返され、白露の怒りが押しやられた。
「このような所に娘子を連れて来るとは……」
眉根を寄せて娘を見つめた女性は、次いでハッとした。
「聖魔か──?」
まさか、と思って見返してみるが、娘には弱々しいながらも確かに同族の気配があった。しかも、通常の者とは異なる気配。それが、四条家の聖魔である彼女にはわかった。
重ねて口を開く前に、一匠が静かにうながす。
「説明は後ほど。姪を早く休ませたい。お願いしてよろしいか」
忌々しい視線を返し、女性は美桜に問いかけた。
「娘子。名はなんという」
「高城……美桜です」
「私は御堂白祢だ。山の気にあてられたな。私につかまり、目を閉じていなさい。慣れぬ者は目をまわす」
涼やかな声でキビキビと言われ、美桜はとまどいの視線を伯父に返した。伯父はシュウから彼女の荷物を受け取り、それを手渡しながらひとつうなずいた。
「大丈夫だ。彼女は信頼できる。後からすぐに行くから、先に行って休んでなさい」
女性の腕が伸ばされ、美桜は肩を抱かれるようにして白祢という女性に身を寄せた。女性からは冷えた清涼なにおいがして、気分の悪さが薄らいでいくようだった。
白祢は片手の錫杖をひとつ打ち鳴らす。
夜の静寂が涼やかな音に払われ、足もとには雪よりも輝く円陣が現れた。
一匠がさっと身を引き、その彼とシュウにきつい声音は向けられた。
「四条家の領地内で使い魔や飛び石を使うことはまかりならぬ。承知のことだろうな」
「胆に命じている」
怪しむように視線を投げ、かすかに鼻をならすと再度錫杖がふりおろされた。今度は先と同じように鈴の音が響き渡った。
美桜は目をつむり、初対面の女性にしがみついた。知らない人に付いていく不安や緊張はあったが、今はなによりも、もう一度車に乗って吐き気と闘わずにすむのならなんでも受け入れた。
鈴の音は女性の清涼なにおいと同じくらい、美桜の身体に浸透して気分の悪さを洗った。
そうして身をまかせていると、すぐに空気が変わったのがわかった。遠くで響く、水音を耳にした。
清涼感がなおさら心地よかった。
美桜の肩を抱いた手が離れ、コートの背中に忍び込むと、フッと締め付けていたものから彼女は解放された。
息が楽になって、美桜は吐き気からも解放される。ホッと息をついていた。
「──最近の娘子は、おのれの身体を締め付けるものを、なぜ身に付けるのか」
「え……あっ、わっ!」
下着がゆるんだことに気がついたのと、女性の胸元にしがみついて息継ぎしていた事実をあらため、美桜はプチパニックにおちいった。
彼女から離れたとたん、左足の痛みにバランスをくずし、ひっくり返りそうになる。それをとどめたのは、またも白祢だった。
美桜の腰を抱え、どこか咎めるように目をせばめた。
「そそっかしい」
「……すみません」
恐縮して美桜は自分の足で立つ。
足もとに落ちていた鞄を拾い上げ、伯父の姿もシュウの姿も──車の姿もない、先の山道とは違う一変した景色に目をしばたたいた。
まだ明けきらぬ夜の闇の中に、巨人のような影が立っていた。
一瞬息をのんで、それは屋根が大きな古民家らしい建物なのを夜目に認める。静かな雪の音を立てて歩いていく白祢に、美桜はあわててついていった。
向かう先で建物の勝手口らしきところから音を立ててそれが開かれ、夜の中に小柄な老人が姿を見せた。
「──白祢さま。お客人ですかな」
「招かざる客だ。本人たちは正反対のことを言っているがな」
「それは異なこと」
老人は言葉とは裏腹に美桜をうれしそうに招き入れた。お入りなさい、娘さん、と。
夜分にすみません、と恐縮して美桜は戸口をくぐる。雪の白さと夜になれてしまった目には、家屋の作る陰影のほうが濃くてつまずきそうになった。
「お寒かったでしょう」
老人は気遣うように灯りをつけてくれる。しかしそれも、古い日本家屋のつくる圧倒的な闇の前には無力だ。
(しかも電気じゃないし……)
手燭のとぼしい灯りにみちびかれて、美桜はいったいどんな日本昔話にまぎれこんでしまったのかと思う。
土の感触から上り框にたどりつき、老人と白祢が履物を脱いで上がるのに美桜もならう。ブーツを脱いで続いていくと、囲炉裏のある広い一室に通された。
火がくすぶり、かけられた鉄瓶も年期が入っていて、美桜は普段の自分の日常との境目が揺らぐのを感じる。
勧められた囲炉裏の前で、かじかんだ手足を合わせた。
「雪の中、難儀なことでしたなあ」
温かいお茶のにおいにホッと心がなごむ。ありがたくいただいて、身体にしみわたるお茶の香に気持ちもほぐれた。
「……ありがとうございます」
老人はまるでお地蔵さまのようににこりと笑む。
「お若い娘さんに足をお運びいただけるのは、何十年ぶりのことになりますか。藤十郎さまの往時を思い出しますわ」
「藤十郎さま……?」
「仁科のご大老さまのことですわ」
ホクホクと老人は答える。そこに害はない。美桜は少し考え込んだ。藤十郎さまという、その人が伯父のいっていた仁科のご大老──今回の目的人物だろう。
この老人は笹野さんのように聖魔の家に仕える人なのかしらと思った。そこに涼やかな声が割って入る。
「ジイ。大老さまのおそばにはだれが付いている」
「婆さまがついておりますじゃ。白祢さま」
なににか、不満そうに白祢は呼吸を入れ替えた。
「大老さまのお気が知れぬ。余生を清浄な地で過ごされるのはわかるが、このような、一族の者も家の者も遠ざけた地で、一人で逝かれようとするなど。──あげく、他家の者を招き入れるなど、いったいなにを考えておられる」
ははあ、と納得したような視線を老人は美桜に向けた。
「そういえば、木曽からご使者が来ておりましたな。人のにおいしかしませぬが……同族のお方なんですな」
「なに。なぜもっとはやくそれを言わぬ。ジイ」
「白祢さまはお留守にされてましたじゃ」
悪びれずに老人は返す。
忌々しそうな目を老人にやって、白祢は美桜を見返した。
「娘子──美桜といったな。そなたが我らと同じ種族でありながら、異なる気配を帯びているのはわかる。何者か、と問い質したいところだが、黒田から預けられた手前、今夜は見逃す。が、大老さまにお目通り願おうなどとは、ゆめゆめ考えるな。少しでも不審なふるまいをすれば、即刻お山から叩き出すゆえ、胆に命じるように」
冷ややかな眸に見据えられ、美桜は心なし身をすくめてうなずいた。白祢はその眼差しのまま老人へ命じている。寝所の用意をしてやれ、と。
はいな、と老人が立ち上がった時だった。野犬の遠吠えがかすかに響いて、白祢がハッと色をなして立ち上がった。脇に置いた錫杖をつかみ、後をふりかえりもせずに出て行った。
ちょっとポカンとした美桜は、老人にたずねる。
「あの……おじいさん。ここに何か……危険なものとか、いるんですか?」
山の中に残してきた伯父とシュウが心配になった。いやいや、と老人は美桜を安心させるように笑顔で返す。
「お山には四条家の結界がありますからな。加えて、家の周りには白祢さまのものが。邪なものは入り込めませぬよ」
でも、と美桜は白祢の様子に不安がぬぐえない。老人はそれに、と続けた。
「白祢さまは、あれで女子と老人には甘いお方ですからな。心配はいりませぬよ」
それはなんとなく、美桜も感じていたが。とまどう彼女に、老人はお腹は空いておりませぬか、と気遣う。首をふる彼女を、物思うように見つめた。
「……藤十郎さまが待たれていたのは、あなたさまですな。ならば、たってのお願い事がありますじゃ」
え、とさらに美桜は困惑する。お願い事って、彼女は神社の神主でもないのだが。
「白祢さまはああ言われましたが、藤十郎さまがもうずっとこの地におられるのには、わけがありますのじゃ」
「はあ……」
「それをお見せしましょう」
どうぞ、とうながされて、わけがわからないまま美桜は老人に連れて行かれた。
寝床に案内されるわけじゃないらしい、とさとって荷物は置いていく。請われるままブーツをはきなおし、風が吹く外へ逆戻りしていた。
雪を踏みしめる音と、木々を渡る風の音。月明かりより、雪の白さのほうが目につく。
白い息をはいて老人について歩きながら、美桜は自身のうかつさをあらためだした。タマによく言われる不用心さも。
吸い込む冷気で気分の悪さはとうに払拭されていたが、代わりに不安が胸を占めだした。老人がポツリポツリと話しだす。
「──藤十郎さまは四条家に属するお方でしての。一族の方が最期を看取られるのが聖魔の習わしとかで、白祢さまがいらせられたのじゃが……」
家から遠ざかり、真新な雪の上に足跡だけが残って行く。星明かりも降るように瞬いていた。
「四条家は、ことに魔や不浄を厭い、神力を頼みとする巫女姫をいただく家系でしてな。藤十郎さまはその性質ゆえ、四条家のはみ出し者でござった。大老さまと呼ばれるほど長生きはされておりますが……一族の者が寄り付かぬのは、そういう所以もおありなのですじゃ」
はあ、と美桜は間の抜けた合いの手しか入れられない。
後にしてきた古民家が木立の中に消え、開けた丘陵へ老人は向かっていた。老人とは思えない健脚だ。
美桜は少しく息を切らし、冷気とあいまって痛む左足に顔をしかめた。
「あの……おじいさん。わたしにお願いしたいことって……なんですか?」
小高い丘陵のふもとで、片手を膝についた。最近自転車にも乗っていないし、シュウの送迎のおかげで足腰がよけいなまっているのかも。
「彼を救ってほしいのですじゃ。──藤十郎さまの、最後の友人を」
え、と見返した先で、丘陵の天辺──夜空を背景にひとつの黒い影が現れた。