主人と下僕 4
え………と美桜は思わず背後のシュウをふりかえってしまって、変わらない淡々とした眸と表情にあって、自身の甘えに気がついた。
ずっと、ここ最近、美桜の日常とはかけ離れた出来事が次々と起こって、その都度シュウはそばにいてくれた。彼女を守ってくれた。闇の気に襲われた時も、貴巳に乱暴された時も。
呼んだらほんとうに来てくれる安心感が根付いてしまった。
でも………───ほんとうは、そんな特殊な出来事による安心感ではなくて。
朝、迎えに来てくれること。通勤電車やダイヤが乱れた時の異様な満員電車のストレスや人いきれ。痴漢、といっていいのかわからないほどのさりげない行為は、きっと女性なら何度も遭っている。そういうものから逃れられた事実。
夕方、買い物をしたいので駅前で降ろしてください、と言った美桜に、彼女を家まで送り届けるのが使命のように後についてきた。荷物持ちをしてくれる彼に、実食販売の店員さんからからかわれたこともあった。
彼を夜中に家に招き入れた翌日。天気予報と雨が降り続いていた天候に、開き直ってはじめから彼を家に招いた。アパートの住人で、美桜を見るといやにジロジロとながめまわす階下の老人が、シュウを見てそそくさと消えた。あの時の安心感。
ああいうもの全部が、この石と引き換えにされてしまうのだと。
そうか、と少し難しそうな声音はとなりの伯父だった。
「それは困るな」
「使い魔なら主の身体に棲みつくから、離れていなければ問題ないんでしょうけどね。シュウと主従契約を結んでいるのなら、どうなるのか………。聖魔同士の場合はちょっと前例がないから、わからないわね」
小梅が一匠の考えを見透かしたように同意する。タマ、と伯父の声が出た。
「シュウには王手がついている。その場合でも影響はあるのか?」
するりと足もとに現れたタマが椅子の足をまわって、美桜の膝上に飛び乗った。そこから箱の中をのぞき込む。すぐに嫌そうな顔をした。
「………主の気配が見づらくなる、とかはあるわね。でも、背に腹は代えられないでしょ。美桜の生理期間中、巽家に閉じ込めておくわけにもいかないんだから」
「タマ………ッ」
みんなの前でなんてことをいうのだ、この猫は。
「なによ。必要なことだから話してるんでしょ。一匠はそのためにコネを使って苦労して手に入れたんだから」
苦労したのは私ですけどね、おタマちゃん、と小梅がつぶやいている。それを無視してタマは美桜に説明した。
「あんたの生理期間中をどうするか、ってのが一匠たちにとっても問題だったのよ。あんたの存在はもう妖魔に見つかった。一匠の封印も解けてる。たとえ封印し直しても、今度は精気がつかめなくなってシュウが死ぬ。それに、いまさら閻鬼があんたを見逃すとは思えないわ。ほかにどうしようもなかったら、巽家に閉じ込めるしかなかったところだけど。一匠はちゃんと手を考えてくれたじゃない」
タマの言うことは一々もっともで、問題点も疑問も整理してくれた。
美桜にもわかっている。伯父は美桜の生活を守ろうとしてくれている。彼女の人生を。
シュウに甘えて、彼が守ってくれるのが居心地よくなっているから、離されてしまうそれが怖いのだとわかった。でも、それじゃいけない。
うん、と美桜はうなずいた。伯父を見返して笑顔をつくった。
「ありがとう、おじさん。これ、使わせてもらいます」
一匠もすこし眸をやわらげた。
「ウメに手伝ってもらうといい。シュウがおまえの護衛なのに変わりはないからな」
うん、ともう一度うなずいて立ち上がる美桜の膝から、タマが飛び降りた。小梅も巽老人に断って席を立ち、美桜と一緒に一匠が出てきた戸口をくぐった。
~・~・~・~・~
ダイニングキッチンだった。料理のにおいがかすかに残っていたから、伯父が食事をしていたのかもしれない。
家人の姿はなく、小梅は美桜を椅子に座らせると勝手知ったる者のように冷凍庫を開けて器に氷を空けた。タオルで二つ小さな氷嚢を作ると、耳たぶに当てて、と指示する。
続き部屋の方へ何かを探しに行ってしまった。
美桜は大人しく指示に従う。と、いきなり着物の裾を引っ張られてビックリした。
「え………!?」
五、六歳ぐらいの子どもだった。染めたように赤い髪と茶色い肌の色。外人のようだが、のっぺりとした顔立ちはどこか魚っぽかった。
子どもなんていなかったはず、とまたたく美桜に人懐っこく笑いかけてくる。
「ミオ。抱っこ」
舌ったらずな口調でねだられ、無害な感じだったので美桜は氷を置いて手を伸ばした。なんで自分の名前を知っているのだろう。
ノースリーブのワンピースも赤い。女の子だ、と思って、美桜は遅まきになんで真冬にノースリーブ!?と子どもをマジマジと見た。
子どもは彼女の膝上で真向かうと、にこにことご機嫌で美桜の首筋に抱きついてきた。
「ミオ。オイシイにおい」
「え………あの、えっと、どこの子?」
答えはもどってきた小梅から発せられた。
「カナ!あんた、勝手に出ていったと思ったら、なにしてるの。離れなさい」
「ヤーなの。マヤーばっかり、ずるいのネ」
猫のように頬をすりよせてきた。美桜はとまどって小梅に問う。
「えと、あの………小梅さんの、知り合いの子ですか?」
小梅は頭が痛そうにかるく額を押さえた。
「私の使い魔よ。カナっていうの。カナ、離れなさい」
「ヤーなのー」
歌うような節回しだった。なつかれて悪い気はしないが、四方に散った髪の毛と子どもなのにカサついた肌がちょっと痛い。小梅はテーブルに救急箱を置くと、歩みよってカナを美桜から引っぺがした。
「白夜翁も風衛も遠慮してるのに、あんたが堂々とすりつくんじゃないの」
「あいつラはカッコつけなのネー」
暴れる子どもを猫の子のように小梅はつかんでいた。美桜は思わず、あの、かまわないですよ、と申し出てしまっていた。
小梅の手を逃れてぴょんとカナが美桜の膝上に居座る。
「ミオは話がわかるのネー」
またたびをかいだ猫のようになつかれて、美桜も苦笑で子どもの頭をなでた。
ため息であきらめた小梅が氷のタオルを手に美桜の耳を冷やす。美桜も思い出して、もう片方を冷やしにかかった。
「子どもの姿をした妖もいるんですね」
「色々よ。美桜ちゃん、妖にあんまり甘い顔してると際限なく付け込まれるわよ」
ちょっと目を上げると、小梅はしかつめらしい顔をわざと作っているようだった。
「あなたが刺国若比売命なのは、どうやらほんとうのようだわ。………はじめは、蓉子さんが可愛がっていた身内を引き込みたくて、一匠がバカなことを言い出したのかと思っていたけど。───シュウについた王印。封印呪を破く力。バカ巳じゃないけど………こうしてあなたにふれているだけで、精気を取り込んだように力がみなぎってくる。ふしぎね」
そういわれると、美桜のほうこそとまどってしまう。その膝上でなぜかカナが得意げな顔をしていた。
「アンマー言うのに、ンメー強情なのネー」
そう呼ぶなって言ったでしょ、と小梅は眉を逆立てている。どうやら、カナという妖には方言があるらしい。美桜にはもしかして、と思い当たるものがあった。
しかし、それを口にする前に小梅のため息がもれる。
「刺国若比売命は聖魔と妖魔を惹きつける。妖も聖魔と契約する前はただの妖魔なのよ。害を為すモノと、そうでないモノといるけどね。………妖に甘い顔してると、精気をむさぼりつくされちゃうわよ」
小梅はそういうと、氷嚢をはずして美桜の耳をペロリとなめた。ひゃ………っ!と声をあげて耳をかばった美桜に、どこかいたずらっぽい顔を見せる。
「こんなふうに、聖魔にもね」
だから気を付けなさい、と久子にもいわれた忠告が繰り返されているようだった。なんだか内容は違うけれど。
真っ赤になって強張った前で、カナがさわぎ出した。ずるいのー、と美桜の眼前に子どもの顔が近付いて、口付けされる勢いだった。
それが───。
グイッと圧倒的な力ではがされた勢いのまま、カナは部屋の隅に放り出された。悲鳴をあげそうになった美桜の前で、クルリ───と反転して壁を蹴り、ふわりとテーブル上に鎮座している。
「ひどいですのー」と、なんでもないようにのんきな声をつむいだ。
なんの感情も見せずそれを行った彼には、苛立たしそうな気配がなんとはなしに美桜には感じ取れた。というか。
ドアが開いた音も気配もなかったのに、どうやって彼は現れたのか。
「………如月さん?」
なにか怒ってない?と美桜は無表情の彼の感情をだんだんと読み取れるようになってきた。
小梅は笑ってシュウをなだめる。
「悪ふざけがすぎたわね。そんなに怒らないでよ、シュウ。あんまり美桜ちゃんの様子に神経とがらせてると、持たないわよ。ま、昨日の失態がくやしかったんでしょうけど」
青いわねー、と小梅は年上の余裕でシュウをいなす。
救急箱から消毒液を取り出し、コットンにふくませて美桜の耳を消毒しはじめた。ピアスの場所に希望はあるか聞かれたが、はじめてでわからなかったので首をふる。
小梅は美桜を正面からじっと見ると、この辺かな、とサインペンで印をつけた。
そうしてシュウに目を上げ、どこかいたずらっぽく訊く。どっちがやる?と。シュウは大きな息をついた。
「───自分がやります」
そうして美桜の正面に回り込んでくる。話が違う、とたじろぐ美桜を残して、小梅はさわぐカナの首根っこをつかむとダイニングキッチンを出て行った。邪魔者は退参、と。
シュウの手には千枚通しのような、それよりも細く鋭い氷色の光が宿っている。その威力を思って美桜は心なし青ざめた。その彼女をながめてシュウが口を開く。
「………怖いなら、やめたらいかがですか」
え、と彼をふりあおいだ。なんの感情も浮かべていない鉄面皮。冷ややかで鋭い眼差し。
でもやっぱり………なにか怒っている。
彼の怒りの原因がわからなくて、美桜は困惑とおびえる気分だった。
「でも………」
せっかく、伯父が考慮して手に入れるために伝手をたどってくれたのだ。それにやっぱり、話を聞くかぎりこれは自分に必要なものだと思った。シュウの負担だって減るのだから。
ぎゅっと目を閉じた。
「平気です。お願いします」
覚悟して身体をかたくした。なぜかシュウはなかなか次の行動に移らず、美桜はいぶかしむ思いがつのってくる。
緊張した身体もゆるんできて、そろそろと目を開けかけた、その時だった。シュウの指が美桜の顎にかかって、つい、と横を向かされた。耳にも彼の指がふれて、鼓動がはねる。
恐怖の鼓動か、別のものに対するものか。───衝撃は次いできた。
「…………っ」
覚悟していても鋭い痛みが走った。それは次に、耳朶に血液が集中したように熱い痛みをともなってくる。
その衝撃を味わっている余裕もなく、シュウの手はもう一度美桜を反対側に向かせると、片側にも同じ痛みを残した。
「い………っ」
痛い、と抗議しそうになったが、かろうじてこらえた。
自分で平気です、と虚勢を張ったのだから。しかしけっこうシュウは容赦がない。にじんでしまった涙をぬぐいかけて、ぼやけた視界に影がかぶさった。
え、と思う美桜の背中で椅子の背もたれが鳴る。
シュウが手をついて大きな体躯をかがめ、美桜の傷口に顔を埋めるところだった。
「ひゃ………っ、ちょ、如月さ………っ」
もう片手が美桜の頭をたやすく抱え込んで、抵抗は意味をなさなかった。傷口をなめられて、ゾクゾクと変なしびれが背筋をかける。
傷口をふさがないためか、精気は吹き込まれなかった。
邪気が寄り付かないように払ったのだろうと、これまでのとぼしい経験で理解はできるが。───が。
「いや………っ!」
力まかせに彼を押しのけてしまって、次いでハッとした。シュウは美桜の身を気遣ってくれたのに。
「あ、ごめ………」
彼女が謝るよりも、シュウが身を起こして顔をそむけるのが早かった。冷ややかな拒絶を感じて、美桜は胸が苦しくなった。
謝ろうとしたそこで、シュウは新しいコットンに消毒液をふくませ、彼女の傷口をていねいにふいた。痛みにどうしても美桜は歯を食いしばる。
シュウは淡々と箱からピアスを取り出すと、それも消毒してから美桜の両耳に刺し、作業を終えた。耳鼻科の先生のように手際よく、感情を残さない手つきだった。
「………ありがと」
お礼をいう美桜の前でシュウは簡単に後片付けをし、彼女のほうに目は向けなかった。そこに戸口を開け放ってカナが飛び込んでくる。
「ヤー!ミオ、それヤナーなのー!」
美桜の膝上に飛び乗ってピアスに手を伸ばされたので、思わず押さえた。
ただでさえ、いまさわるだけでも痛いのに、子どもの容赦ない勢いでさわられたら、たまらない。
「カナちゃん。ごめん、ちょっと待って」
子どもを下ろして自分も立ち上がった。戸口の先からは伯父の声がかけられる。終わったか?と。
小梅が再度戸口に現れてカナの耳を引っ張って連行していき、美桜も箱を手に応接室に戻る。
一声は巽老人だった。
「ああ。似合うね。やはり、命ある者の身に宿ってこそ、輝きを増すね。美桜さんにあつらえたようだ」
鏡を見ていない美桜は面映ゆくたじろぐ。カナの不満げな声が響いた。
「それはヤナーなのー!ミオにはヤナーなの!」
答えたのは美桜の席でちゃっかり座っていたタマだった。
「うっさいわね、馬鹿ガキ。こっちにはこっちの事情があんのよ。わかんないんだったら、イラつくその口閉じてなさいよ」
「おバカはマヤーなのネ。いまアンマーの気配が閉ざされたら、各地の妖獣が起きだすのネ」
静かに反応したのは、美桜以外の聖魔だった。なんですって、と地を這うような低い声がカナをつかんだままの小梅からもれる。
「えげつないことしてくれるじゃない、一匠」
対する伯父の様子はあくまで端然と動じた色がなかった。「想定外だ」と。小梅の忍耐はそう強固なものではなかったらしく、「あんたねえ!」とたやすく解ける。
使い魔VS使い魔、そして双方の主たち───という構図が築かれて、巽老人は平然と立ち上がって美桜に歩みよった。
「少し早いが昼食にしようかね、美桜さん」
箱は私が保管しよう、と手を出される。止めなくていいのかと美桜はハラハラと伯父たちをふりかえった。
巽老人は笑っていなす。
「心配ないよ。彼らは顔を合わせると、毎回決まってじゃれあうからね。仲がいいのも困ったものだ」
………そういう問題でもない気がするのだが。
巽老人からしたら、伯父たちでさえも子ども扱いなのか。実年齢いくつなのだろう、と美桜は内心冷汗をかいた。
「あ、おじいさま」
とっさに出た言葉にハッとした。あわてて言い直す。
「あ、あの、巽のおじいさま。この着物あつらえてくれたって聞いて………その」
もらえません、というはずだったのに、相好をくずしてにこにこと美桜を見つめる老人に、拒絶の言葉は押し込まれた。
「あの……………ありがとうございます」
巽老人は満面の笑みで美桜の頭をなでた。
「ほかに欲しいものがあったら、遠慮なく言いなさい。ああ、今度一緒に買い物に行こうかね。最近の若い子はどんなのが好きなのかな」
「いや、そんな」
それではまるっきり、孫に甘い祖父のようだ。美桜がびっこ引いているのに、私につかまりなさい、と老人とは思えない力強さで美桜を支える。
戸口に向かいかけて、舌戦を続けていた伯父が思い出したように声をかけた。
「美桜。週末、空けておいてくれるか」
「え、うん」
もとより、もう巽家へ来るのが週末の日課みたいになりつつある。
「金曜の夜、仕事終わりにそのままだ。金沢の方まで行くから、暖かい格好をしなさい」
へ、とおどろく美桜の横で、巽老人の嫌そうな様子があった。またきみは、年寄りの楽しみを容赦なく奪うね、と。
一匠はすこし苦笑するように詫びる。申し訳ありません、と。
「ですが、いまを逃すとおそらく、もう───」
「わかっているよ。仕方ない」
ため息を大きくついて、巽老人はさみしそうに美桜を見返す。
「美桜さん。やっぱりここに住まないかい?巽家には武骨な輩しかいなくてね。ほんとうに華がなくていけないよ。ああ、この区画が気に入ったのなら、ここを住まいにしてもいいんだよ」
「いや、あの」
すみませんと固辞しながら、でも、と好奇心をのぞかせた。あとで見学させてもらってもいいですか、と。
「もちろんだよ。ああ、じゃあ、ここのサロンで昼食にしよう」
戸口を出て意気揚々と美桜を連れて行く後ろで、一匠の静かだが厳しい声音が響いていた。シュウ、久しぶりに手合わせをするか、と。
どこか叱責まじりの響きがふくまれていて、美桜はちょっとだけふりかえった。シュウの姿はもう室内の中で見えなかった。